共立講堂

共立講堂とその歴史

共立講堂は、昭和11年(1936年)8月に着工、昭和13年(1938年)3月20日落成しました。構造設計は、東京タワーの設計者としても知られる日本耐震工学の祖、内藤多仲博士、また意匠設計は前田健二郎氏による耐震耐火の鉄筋コンクリート造りで、1号館(現在の中高校舎)と同時に設計施工されました。外観は縦型の付け柱によるゴシック調にデザインされ、また屋根の形状は切妻型で、当時としては大変モダンな意匠でした。規模・設備においても日比谷公会堂と並ぶ大講堂で、他に比類する講堂はありませんでした。総建坪1,183坪、座席数2,578席、ステージ40坪、各種照明装置完備。その中でも1階の1,050席は机付椅子で、授業に使用できるようになっており、別に補助椅子の用意があって総計3,200名の収容が可能でした。ステージの前にはオーケストラボックスが設置され、換気暖房設備も備えていました。

共立講堂(昭和13年落成)

共立講堂(昭和13年落成)

共立講堂は、学園の卒業式や学校行事として使用するだけでなく、学園が使用しない場合に限って、教育学術文化面において価値があり、学園が適当と認めた外部一般の使用にも貸し出せるようにしたため、一躍その名を高めることとなり、日本の文化の殿堂としての役割を果たすようになりました。特に戦後はこのような大講堂が東京都内にもまだ少なかったこともあり、文化に飢えた若者にとり、音楽関係の公演のメッカとして知られることとなり、ここを足場として巣立っていった演奏家たちも少なくない状況です。昭和15年(1940年)6月17日にここで最初の定期演奏会を開催したのが、明治大学マンドリンクラブでした。戦後は、年に2回定期演奏会が開かれ、作曲家古賀正男氏がその指揮をとり続けたことはつとに有名です。
ラジオ・テレビのスイッチを入れれば必ず共立講堂からの中継が流れ出て、その放送は、全国津々浦々まで響きわたり、多くの共立講堂ファンを生み出すと共に、共立講堂の名は全国に知れ渡りました。共立女子学園の所在を知らない人でも共立講堂の存在を知っていたというのが多くの人の語り草になっています。

ところが、全盛期の昭和31年(1956年)2月23日午後8時20分頃、突如講堂は火焔に包まれ、必死の消火活動も空しく内部を全焼してしまいました。一日も早く講堂を再建するという当時の学園長鳩山薫の決意により、翌日から早くも焼跡の整理と復興作業が開始されました。復興工事は順調に進み、翌32年(1957年)3月16日に落成を迎えました。この時の座席数は2,010席でした。再建には社会の要望を容れ、文化的ホールとして、音響および照明に充分な工夫がなされました。中でも音響については、日本フィルハーモニー交響楽団指揮者の渡辺暁雄氏の指導を受けました。

現在の共立講堂

現在の共立講堂

その後、大興業場の消防法が改正され、またこれに平行して、各自治体や大企業による公会堂・ホールが各地に建設されました。こうした環境の変化に伴い、共立講堂は昭和51年(1976年)12月22日、長年にわたる貸しホールの使用を終わり、以降は本学の学生生徒の講堂として、入学式や卒業式を始め、始業式、終業式、授業、クラブ活動、共立祭、講演会、名画鑑賞会等の場として使用されています。また、平成15年(2003年)6月9日には千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。

共立講堂は、火災後、構造体はそのまま残りましたが、内部および外部の一部が損傷したため、屋根は丸型の連続ボールドに架け替えられ、外装タイルも張替えられました。平成12年(2000年)には耐震補強工事と内部機能改修工事を行いましたが、近年、外壁の痛みが激しくなってきたため、平成19年(2007年)に、外壁タイルの張替工事 を行いました。施工にあたっては、昭和13年(1938年)に建てられた当時の様子にできるだけ近い状態となるよう計画しました。このリニューアルにより、外観は本館 [平成15年(2003年)竣工] および1号館 [平成17年(2005年)改修] のタイルと自然石の組み合わせによる表情と質感で、共立講堂にふさわしいファサード(正面)を演出すると同時に、神田一ツ橋キャンパス全体に風格ある景観を形作っています。

(共立講堂は現在一般に貸し出しを行っていないため、座席表は公開しておりません。)

景観まちづくり重要物件 この建造物は、景観上重要と認められるので、重要物件として指定いたしました。平成十五年度 千代田区