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学長ブログ

学長ブログ ~学長のつぶやき~

平成31年4月16日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 3月の中旬に法事で、和歌山県海南市に帰省しました。時間があったので、海南市黒江の川端通リを散歩しました。ここは紀州漆器(黒江塗)の店が並ぶ、海南市の観光名所です。子供のころは、住まいの地区と離れているために来ることがほとんどありませんでした。紀州漆器のホームページを見ると、その由来が書かれています。紀ノ川に近い根来寺の僧侶が織田信長に反旗を翻したところ、信長は秀吉に命じて、根来寺に焼討ちをかけました。難を逃れた漆器作りの得意な僧侶が黒江に流れ着き、黒江に漆器づくりが広まったといわれています。また、黒江から元禄二年(1689年)に江戸へ出てきた人物が、日本橋に漆器店をおこしたことに始まる漆器店黒江屋は今もあります。福島県の会津塗、石川県の山中塗・輪島塗などと共に全国三大産地の一つと言われているそうです。自分の故郷の有名な事を少しも知りませんでした。
 川端通リの「うだつ」のある建物が数か所観光名所になっていました(写真)。うだつ(梲)は、「うだち」が転じたもので、広辞苑によると「うだち」は、「江戸時代の民家で、建物両側に「卯」字形に張り出した小屋根つきの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたもののもあり、装飾と防火を兼ねる」と説明されています。
 「うだつが上がらない」は、それから由来し、広辞苑では「出世できない、身分がぱっとしない。富裕な家でなければ「うだち」を上げられなかったことから転じたといわれる。」と説明されている。
 故郷の海南市を離れ、東京にきてから50年を過ぎ、わが身を「うだつが上がらない」と嘆くことが多かったですが、まさかその「うだつ」が故郷にあったとは今まで考えもしませんでした。
 写真には津波避難場所の看板が写っています。黒江は、海岸に近いところです。昔は入江になっていて、牛が横たわっている姿に似ていることから黒牛潟と呼ばれる風光明媚な場所で、万葉集で読まれました。黒牛の名前は、今日本酒の銘柄につけられています。
 黒江はその昔、京都から熊野へいく熊野古道の途中でした。黒江の後は有間皇子が658年に処刑された場所で有名な藤白坂に続きます。藤白峠からみる海南の海岸は風光明媚で有名でしたが、戦後の高度成長期に埋め立てられ、火力発電所に変わり、昔の面影はありません。
 私が小学生のころは高度成長期にあたり、小学校の先生から海南市は埋め立てで人口は5万人から倍増して発展すると、説明されました。海南市は、平成の合併で面積は増えたようですが、人口は5万人です。
 ふるさとにまた行きたいとつぶやく学長です。







平成31年4月5日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 4月1日に本学共立講堂で、入学式が挙行されました。前日の天気と異なり、青空の見える平成の最後の入学式でした。近隣の桜は満開で、青空に桜の映える日で良かったです。午前と午後に分かれた入学式にて、大学、短期大学、大学院の入学生約1300名とその保護者の方々が集いました。
 私にとっては学長として2回目の入学式ですが、平成最後の入学式にあたり、式辞でも平成の時代を振り返ることになりました。
 個人的には、臨床医学の立場から予防医学の立場に変わったのが平成元年2月でした。そして、平成15年に本学の家政学部食物栄養学科に奉職し、平成30年に学長になりました。社会の変化の早さに圧倒される平成時代でした。特にIT関係の進歩には、遅ればせながらついていく感じでした。私は団塊の世代の最終ランナーですが、平成が終わろうとして、昭和の怪物のようであった団塊の世代が去っていくのだろうと思います。平成を総括したくて、「平凡社新書 保坂正康著、平成史 2019年3月15日発行」を一気に読みました。平成とは、と考えながら読むことができました。
 午前の式のあとに新元号が令和に決定したと聞きました。午後の入学式の時には、新元号が平成から令和になるとだけ、言葉を添えることができました。人生で2度目の改元に立ち会うことが出来ました。前回の昭和から平成への改元は、何となくあわただしく思いましたが、今回の改元は落ち着いた感じで良かったと思いました。これからじっくり新元号のことを考えていきます。
 入学式の直前に写真のような本学のボードが完成しました。早速ボードの前で写真を撮影しました。入学式の日には、入学生たちがこのボードの前で記念撮影をしている様子も多く見られ、良かったです。
 今後、様々ないい場面で活用したいとつぶやく学長です。