共立女子大学・共立女子短期大学

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学長ブログ

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平成29年11月21日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 きっかけはビートルズでした。
 51年前に初来日したビートルズの4人が日本の法被(はっぴ)を着て飛行機のタラップを降りてくる写真は今でもテレビや雑誌で見かけることがあります。本学のある人が久しぶりにそれを見たとき、よし、これだ! と思ったのですね。
 その人はすぐに他の人たちに相談して、その結果、本学公認のはっぴができあがったというわけです。
 何に使うかと言えば、いろいろな使い道がありますが、主として、外国からくるお客さんへのお土産用です。本学関係者が外国の大学を訪問する際に持参することもあります。
 これは国際交流という重要課題の、最も末端的な関心事に属します。
 それというのも、外国の大学を訪問したとき、また外国からの訪問者を迎えたとき、いただくお土産がその国の伝統文化を表現したとても立派なものであることが多いので、本学としてもそういうものを用意したいという思いがあったからです。
 でも、日本の伝統文化を表すものはともするととても高価で、大学にふさわしくありません。といって、あまりに手軽なものも気が引けます。
 そして、ついにはっぴの登場となりました。
 胸の縦襟の部分には本学の名前があり、背中の模様は本学のシンボルである桜の花びらになっています。
 まあまあ、よくできていると思っています。
 はっぴのよさは、今着ているものがなんであれ、とりあえずその上から羽織れるという点にあります。これを実際に外国からのお客さんに差し上げてみると、予想以上に好評なのですね。はっぴはhappyに通じますね、などという他愛ない冗談も、けっこううけたりします。
 外国人は、和服は両襟を前で重ねるものだという思い込みがありますから、はっぴの襟も前で重ねてしまうんですね。そうじゃないんです、これは両襟をまっすぐ下に垂らせばいいんです、と、即席の着付け教室が始まったりします。
 アメリカのある大学から来られた女性は、学校で試着してみてすっかりお気に召して、これから地下鉄に乗るんだと言って、なんとそのまま学校を出てしまわれました。おかげさまで、行く先々で本学の宣伝をしていただいたようです。
 つい先日もハワイ大学カピオラニ・コミュニティ・カレッジの教職員の方々が来られたので、早速プレゼントしたところ、とても喜んでくださいました。そこで、記念写真を、パチリ(上掲写真)。
 それにしても、ビートルズにはすっかりお世話になりました。







平成29年11月13日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 10月半ばに共立祭があって、楽しく見て回りました。サークルによる催し物が多いのですが、中には授業からの参加や卒業生の参加などもあります。いずれも力のこもったもので、参加者の意気込みが感じられるものばかりでした。
 展示のほか、共立講堂やロビーや教室を使っての楽器演奏やダンスなどのパフォーマンスもあり、学生たちの元気な姿を見ていると、こちらも若返ったような錯覚に陥ります。
 私も、しばらく前まで、ある授業の学生を駆り立てて共立祭に参加させていたので、共立祭の時期になると、そのことを懐かしく思い出します。
 それは学生が英語で童話を創作し絵を描いて作った絵本を展示するというものでした。そのことは授業でやっていることとは直接の関係はなく、すべての作業は学生が家で行いました。学生は英語でお話を書いて、それをメールで私に送り、私が添削して送り返しました。私が添削するのは英語だけで、内容については一切触れませんでした。
 絵は、描きなれている学生とそうでない学生とのあいだで大きな開きがありましたが、それは上手・下手という判断では括れないもので、描きなれていない学生が描いた絵には独特の味わいがあって、とてもよいものでした。
 物語はどれも文句なく面白いものでした。人間に嫌われている蝿が人間が好きでつきまとってゆく話、動物園の象が夢で園外に出て冒険する話、山に捨てられた老人を孫が探し当てて保護する話、月が欠けたのを本当に月の一部分が無くなったと勘違いして半狂乱になる子うさぎの話、幼い女の子が母親の入院をきっかけとして成長する話、5匹の豚から成る消防隊が苦難の末に消火コンテストで優勝する話、心無い村人たちがゴミを捨てるため汚れてしまった村を動物たちが協力してきれいにする話、等々。これを読むと、「いまどきの若者」の心の中が(その「闇」をも含めて)よく分るような気がしました。
 共立祭では見やすいように各ページをそのまま壁に貼って展示しましたが、共立祭が終ると皆で大騒ぎしながら簡易製本機を使って製本し、それぞれ作品を家に持ち帰りました。多分、一生の宝物になっていることと思われます。
 そう、たとえ「物」がなくても、共立祭で活動した思い出は、それだけで一生の宝物なのですね。多くの学生がこの宝物を抱きしめて卒業してゆくことを願っています。







平成29年10月20日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 もう何年も前のことです。
 私はある授業で「手抜き」をしようとふらちなことを考えました。
 それは時間割の関係で3つ連続していた授業の真ん中のもので、1つ目と3つ目の授業がとてもハードなものだったため、2つ目も同じようにしていたらとても体がもたないと考えたのです。それは17世紀英文学の古典的な作品をテキストとしたもので、古い英語を読み慣れない学生にとってはとても厄介なものでした。普通にやっていたら私が大声で事細かに説明し、学生を叱咤激励し、黒板の前を走り回る体のものでした。でも、私は一切教えないことにしたのです。学生を数人ずつの小グループに分け、グループごとに前に出させて、あらかじめあてておいた数ページを構文や語義の解釈を中心として説明させる。一方、私は学生の席についたまま、耳は学生の方へ、目は窓外の景色の方へ向けて時間を過ごす──こりゃ楽でええわ、という作戦を立てたのです。
 そして、実行しました。
 各グループの学生が担当部分をさらに小分けして、それぞれの分担箇所を説明します。学生が、これはこういうことです、と言うと、それは違うと私が言います。グループの学生は額を寄せて相談し、別のことを言います。それも違うと私が言います。また学生が相談します。聞いている学生からも質問が出ます。担当している学生が答えます。それは違うと私が言います。また相談します。そういうことをえんえんと繰り返しました。どうしても正解に至らないものは次週持ち越しとしました。
「要するに、準備が足りないんだ」とあるとき私が言ったら、「でも、私たちは、集まって、2晩も徹夜したんです」とそのときの担当学生が言って、涙ぐみました。さすがに私は良心の呵責を感じないではいられませんでした。
 そうやって1年が過ぎ、最後の授業を終えて研究室に戻りながら、やれやれ、こういうことはもうこれっきりにしよう、と私は考えていました。
 研究室の前まで来たとき、数人の学生が走って追いついてきました。そして、そのうちの1人が、「素晴らしい授業をありがとうございました。これはみんなでお金を出しあって買ったものです」と言って、花束をさしだしました。
 私は呆然としました。
 手抜き授業が花束に値するとすれば、それなりに全力を尽くしたと信じてきた他の授業は、あれはいったい何だったのでしょうか?







平成29年10月3日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

「それで、緊急避難訓練はなさらないんですか?」
 ある保護者の方からそういうご質問をいただいたのはもう今から10年も前のことです。
 それは保護者の方々(この場合は全部がお母さん方でしたが)と懇談会を催した席上でのことでした。
 本学ではずっと以前から防災訓練をやっていて、学生を集めて、消火器の使い方実習や起震車体験、あるいは煙ハウス体験、さらには放水訓練などを実施している──ということを説明したとき、あるお母さんが質問されたのです。
 意表を突かれるとはああいうことを言うのでしょうか。
「はあ、それは今のところやっておりませんが……」
 と答えたとき、そこにいた本学教職員の全員が、「よし、緊急避難訓練をしよう!」と心に決めたのです。
 そして翌年から、9月末に、防災訓練とは別に緊急避難訓練を始めました。
 最初の段階で神田消防署にご相談に伺って、以後、ずっとご指導をいただいています。
 毎年、校舎を順繰りに替えながら実施しています。9回目の今年は、昨年の創立130周年に合わせて完成させた新2号館で行いました。
 建物のどこかで火災が発生したという想定で、授業中に緊急放送を入れて、学生に避難を呼びかけます。授業担当者(専任も非常勤も)が教室内の学生を誘導して階段を使って一階まで来て、そこから校舎外の集合場所まで行きます。事務職員はふだんから緊急事態が発生した場合の「持ち場」を決めていますが、訓練のときも、放送が入った瞬間に仕事を放り出してそこに急行し、教員が学生を誘導するのを支援します。その一部始終を神田消防署の主だった方々が鋭い目でご覧くださって、最後に全員に対して批評をしてくださいます。
 防災訓練は学生の訓練ですが、この緊急避難訓練は主として教職員の訓練です。いかにして学生の安全を確保するか──そこにすべてがかかっています。
 新2号館では初めての訓練でしたが、真剣に、そして粛々と進行して無事に終えることができました。
 神田消防署三崎町出張所長さんからも合格点をいただきました。
 国際環境がかつてなかったほど危険含みになっている現在、防災訓練にせよ緊急避難訓練にせよ、新たな重要性を意識しないではいられません。本学は専門家の意見を参考にしながら、さらに質の高い訓練を実施してゆきたいと考えています。
 あのとき質問してくださった保護者の方に心からの感謝を捧げます。







平成29年9月9日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

「先生、半鐘の音を出すにはどうすればいいでしょうか」
「そうね、線路の切れっ端を縄で吊るして金づちでぶっ叩けば半鐘の音がするよ」
 こういう会話を学生と交わしたのは私が共立に勤めてまだ間もないころでした。
 そのとき私は学内の英語劇サークルの顧問をしていました。もっぱらシェイクスピアを原語で上演するサークルで、その年は『オセロー』をやることになっていました。私もそのリハーサルになるべく顔を出すようにしていました。
 劇中で、夜営の兵士のあいだで喧嘩騒ぎが起き、半鐘が打ち鳴らされる場面があります。学生はそれをどうするかで困っていたようでした。
 私はいい加減な答えをしたつもりはありませんが、でも、線路の切れっ端などどこにでもあるわけでもないので、ほとんど冗談のつもりで答えたにすぎませんでした。
 でも、翌日のリハーサルに行ってみて、びっくりしました。なんとそこに線路の切れっ端があったのですね。30センチほどの長さで、両端をきちんと切りそろえてありました。
「これ、どうしたの」
「ああ、私が今朝、家の近くの駅でもらってきました」
 前日に私に質問した学生が答えました。その答え方が、いかにも何でもないことをしただけという調子だったので、そのことにも私は強い印象を受けました。他の学生にも、特に驚いた様子は見られませんでした。
 持ち上げてみると、わずか30センチとはいえ、鉄の塊なので、とても重く、女子学生が持ち運ぶのはさぞ大変だったろうと推察されました。横に開いている穴に縄を通して吊り上げ、用意された金づちで叩くと、もの凄く大きな音がして、そこにいあわせたすべての学生が両手で耳を塞ぎました。
 私は、女子学生が駅に行って「線路の切れっ端をいただけませんか」と言い、駅員がそれに応じてどこからか線路の切れっ端を持ってきて彼女に渡すまでのプロセスを思い描こうとしたのですが、どうしてもうまくいきませんでした。どうしてそんなことが可能だったのか、というところで私の考えが止まってしまって、先に進まないのですね。
 何よりも、その学生のさりげないたくましさが私を打ちました。
 そのとき私は、女子大学という所はこういう所なんだ、という強い思いに駆られていたように思います。そのときの線路の音は今でも私の耳に鳴り響いています。
 その年の公演で、半鐘の音がけたたましく場内に響きわたったことは言うまでもありません。







平成29年8月25日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 本学や他の多くの大学は長い伝統を持っていますが、それぞれの大学にとって重要なことは伝統の長さではなくて、現在どういう教育をしているかであることは言うまでもありません。
 しかし、現在の教育を語るうえで、大学の歴史に触れることが重要になることもあります。
 これからそういう話をします。
 本学は戦後の新しい教育制度のもとで、それまであった共立女子専門学校を発展的に解消するかたちで、昭和24年に発足しました。そして、この共立女子専門学校の元をただせば、明治44年に共立女子職業学校に付設された高等師範科にさかのぼります。
 高等師範科を付設するにあたっては当事者の並々ならぬ意気込みがあったものと思われます。というのも、明治19年に共立女子職業学校が創設された際の教員の多くは、それまで御茶ノ水駅近くにあった官立の東京女子師範学校の教員だったからです。
 東京女子師範学校と同じ敷地内にあった東京師範学校はそれまでは男子だけの学校だったのですが、明治18年に東京女子師範学校を合併して男女共学にする話が持ち上がり、それに反発した教員たちがそこを出て新たに共立女子職業学校を設立したのです。反発した理由についての詳細は伝わっていませんが、共立女子職業学校の設立趣意書には女子教育に対する強固な信念と理想が読み取れます。そして、そのわずか4年後に、共学になったばかりの東京師範学校から女子部を分離して女子高等師範学校が設立されたことを思えば、本学の創立者たちに先見の明があったと言わざるをえません。
 中学校以上の教員を養成するには高等師範科であることが必要とされていたので、当時の関係者はこれによってようやく当初の思いを達成したことになります。彼らの意識では、共立の高等師範科も明治18年までの東京師範学校の系譜を引くものとの自負があっただろうと推測されます。
 本学は今日に至るまで、創立者たちのこの熱い思いを引き継いでいます。時代に即して、しかも未来を見据えながら、断固たる信念のもとに女子教育を行わなければ、創立者たちに顔向けできないことになります。
 本学はどこまでも「風雪の歴史に映ゆる理想」*を守り、高めてゆかなければなりません。

*「共立女子学園歌」(中河幹子作詞、1957)









平成29年8月7日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 大学生の多くは高校を卒業してすぐに大学に入ってきた人たちですが、なかには社会経験を積んだあとで入学してくる人もいます。それらの人々が大学生活を送る過程で自分よりもずっと若い「学友」たちに与える良い影響には計り知れないものがあります。
 かつて私のゼミにいたある学生は短大を出て何年かキャビン・アテンダントをしたあとで本学に編入学してきました。その人柄や経験が他の学生にとって大きな刺激になったことは言うまでもありません。彼女は本学を出たあとはずっと高校の英語の先生をしています。彼女の人生設計のなかで本学が確かな役割を果たしたことを嬉しく思います。
 またある学生は彼女の娘さんが大学を出てお勤めを始めたあとで本学に入ってきました。他の学生がまるで同年代の友人のように彼女に接しながら、心の中では母親のように慕っていることがよくわかりました。彼女の卒業式には娘さんが父母席に座りました。
 世代の異なる学生に対して教員はどう接するべきか、迷うこともありますが、原則的には他の学生に対するのと同じ態度で臨むことになります。言葉づかいも同じです。でも、学生の保護者と話すときは、たとえ世代が同じであっても、相手の立場に最大の敬意を払って、極めて丁寧な言葉遣いになります。
 それで困ったことがあります。
 ある学生が4年生になって私のゼミに属したその年に、彼女の娘さんが本学の同じ学部に新入生として入学してきたのです。私はそのゼミ生と話すとき、当然若い学生に話すのと同じ気楽な話し方をしていたのですが、ある日、彼女と卒論について話していたとき、彼女が突然「娘のことでちょっとご相談が…」と言い出したのです。私はとっさにどういう話し方をすればいいのか分からなくて、言葉が詰まってしまいました。どこからか「へんしーん!」という声が聞こえてくるようでした。「急に学生から母親に変身しないでよ」と私は心の中で話しかけたことでした。
 でも、大学という所はもともとそうした所なんだ、という思いが私にはあります。もっとたくさんの多様な学生が入ってきて、キャンパスがさらに豊かになることを願っています。







平成29年7月20日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 6月から7月にかけては夏休み前のあわただしい時期でしたが、この間にも学内ではいろいろな催しがありました。
 6月半ばの昼休みに「留学生ランチパーティー」がありました。海外からの長期・短期の留学生が本学の学生や教職員とささやかな懇親会を催しました。学生たちは日常的に留学生と学生寮や学生食堂で私的な「懇親会」を催しているわけですが、そこに私が顔を出すわけにもいかないので、こういう機会があることをとても有難く思います。国際情勢はいつも波乱含みで何も問題がない時期などありえないのですが、若い人たちには「今」の問題をきちんと理解したうえで手をつなぐことが求められます。そのことが将来の平和の基礎となるのです。いろいろな国籍の学生たちのはじけるような笑顔を見て心強く思ったことでした。
 6月末には短大文科主催の英語スピーチコンテストが実施されました。海外留学経験者を含む20人ほどの学生が社会問題や関心事について英語で、そして笑顔で、語りました。私も採点者の一人でしたが、どれも優れているので採点に苦労しました。英語も内容も態度もしっかりしていて、本当の意味で「聞かせる」ものばかりでした。参加した学生はそれぞれ努力したことと思われますが、参加した意義は大きく、その効果はおそらく生涯に及ぶだろうと思われます。この意欲と能力と笑顔が国際社会では必要とされているのです。
 7月始めの3日間は「浴衣デー」でした。この間には学生が浴衣を着て授業に出ても「ふつうのこと」とされます。多くの学生が浴衣姿で学内を歩くのは日常性を打破するに十分でした。学生ばかりでなく教職員も浴衣を着ることが奨励され(男性の場合は、許容され)、それぞれが少しばかり高揚した気分を楽しむことができました。外国系の学生の浴衣姿は独特の魅力にあふれていて、一緒に写真に写ろうと友人たちが集まっているあたりは笑顔の花園のようでした。浴衣は最近では気軽に着られる和服として外国人旅行者にも人気だと聞きます。「留学生ランチパーティー」も浴衣でやればいいのに、と私は気軽な感想を抱きました。
 インターナショナルな笑顔をたくさん見ることのできた1か月でした。







平成29年7月6日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 本学は皇居平川門から約300メートルのところにあります。外国からのお客さんに「皇居はすぐそこですから帰りにお寄りになったらどうですか」と言うと、皆さん、目を輝かせます。
 これだけ近いと、どうしても「厳粛」とか「静謐」とかの気分の中で日々を過ごすことになります。学生も、「襟を正して」勉学に励まないわけにはいきません(学生諸君、大丈夫ですか?)。
 皇居は昔は江戸城だったわけで、近くの三崎神社は参勤交代の大名たちが道中の無事を祈って参拝したとされます。本学から世界に向けて「旅立つ」学生にとって、まことに恰好の地と言えます。
 神社といえば、やはり神田明神が有名ですね。本学は幾人かの教授が学生を動員して神田明神と地域文化振興のためのコラボを楽しんでいます。少し足を伸ばせば湯島天神や東京大神宮もあります。神田明神の隣に湯島聖堂があり、さらに神田川を挟んだこちら側にニコライ堂があり、もっと本学寄りのところにこれも古い歴史を誇る神田教会があります。また、「こんにゃく閻魔」の通称で親しまれている源覚寺もあります。数え上げればきりがありません。本学は特定の宗教とつながりを持たないだけに、ますますこういう環境にあることを幸福に思います。
 しばらく前に東京大神宮を訪れたところ、若い女性がたくさん参拝に来ていたので驚きました。なんでも若い女性に大人気とか。そういえば、神田明神のすぐ近くの妻恋神社も若い女性に人気があると聞いたことがあります。神様もいろんなことを期待されて大変だなあと年配者は思うのです。
 そういう話をある女性の教授にしたら、「いやいや、神田明神だって若い人に大人気なんですよ」と言われました。なんでも「アニメ聖地」として有名だとか。さらに、このあたりにはアニメ聖地と呼ばれる場所が多くて、全国から大勢の「巡礼者」が訪れるとか。
 いつのまにか、この地域はいろいろな意味での「聖地」になっていたようです。
 でも、そうなると、「厳粛」とか「静謐」とかはどうなってしまうんでしょうね。







平成29年6月8日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 本学は神保町のいわゆる古書店街から徒歩で数分以内のところにあります。古書店街であると同時に新刊書店も多く、また大小出版社の密集地でもあるので、文字通り「本の街」と言えます。
 私がはるか昔に都内のある大学に入学したとき、ある先生が「テキストは神保町の書店に注文しておいたから買いに行くように」と言われました。それが私が神保町に足を踏み入れた最初でした。その書店の前を通る度にそのことを思い出します。あれはその先生の教育的配慮だったのだということがよくわかります。
 縁あって本学に奉職してから長い年月が経過しましたが、この間に神保町の書店の店頭で懐かしい顔に出会うということを何度も経験しました。神保町を「心のふるさと」と感じている人はとても多いのですね。
 文芸評論家の小林秀雄は、学生時代に神保町の古書店でフランスの詩人ランボーの作品に出会った感動を、「向うからやってきた見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」*と書き記しています。神保町は本との衝撃的な出会いの場でもあるのです。
 私もそれなりに教育的配慮を示そうと、学生を連れて古書店巡りをしたことが何度かあります。20人ほどの女子学生がぞろぞろと入って行くと、ふだん若い女性があまり来ることのない古書店内にただならぬ気配が立ちこめて、「な、なにかあったの?」とささやきかわす声が聞こえたものでした。
 いつだったか、共立の本館のすぐ前にある地下鉄神保町駅の階段を下りていたら、下から学生時代に教わった先生が上がってきたことに気づきました。
「ああ、先生、お久しゅうございます。お元気でいらっしゃいますか」
「いや、それがね、癌になりましてね。明日入院するんです」
 それからまもなくその先生は亡くなられました。
 あのとき先生は生涯親しんだ神保町に最後のお別れを言いに来られたのだということが痛いほどにわかります。
 私はこの地の大学に勤めていることに、限りない喜びと誇りを感じています。

*小林秀雄「ランボオIII」
(『作家の顔』新潮文庫、1961)