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学長ブログ

学長ブログ ~学長のつぶやき~

令和元年10月31日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 神保町は本の街です。もともと大学と学生が多い街だったので、学生街らしい本の街となったのだと思います。本の街を代表するイベントである秋の神田古本まつりは第60回を数え、靖国通りを中心に10月25日から11月4日まで開催されます。10月26日と27日の週末は、第29回神保町ブックフェスティバルが、すずらん通りとさくら通りで開かれました。
 写真は、10月26日さくら通り特設会場における本学吹奏楽団の演奏の模様です。本学 建築・デザイン学科作の神保町応援ゆるキャラ「じんぼうチョウ」も応援しています。
 5月25日のすずらん祭りでも吹奏楽団とじんぼうチョウが活躍しました(5月27日ブログ参照)。その時は30度を超える気温で、大変でしたが、今回は大雨の翌日の秋らしい過ごしやすい天候となり、良かったです。
 吹奏楽団の演奏は、サウンドオブミュージックから始まりました。本学の吹奏楽団の演目は、先の共立祭でも映画音楽やミュージカルナンバーが多く、私の好みにあっています。
 私は映画が好きですが、特にミュージカル映画が好きです。サウンドオブミュージックは、ニューヨークブロードウエイミュージカルをロバートワイズ監督が映画化したものです。映画は1965年に公開され、長期大ヒットし、主演のジュリーアンドリュースを一躍有名にしました。映画の冒頭に、マリア(ジュリーアンドリュース)がオーストリアの山々をバックに、野原で「サウンドオブミュージック」を歌うシーンは、鳥肌がたつような感動を覚えるシーンです。
 今、思い出しますと、この映画を見たのは、高校1年生の頃です。高校は、神戸にあったため下宿していて、休みの時には実家の海南市に帰る途中に、大阪に寄り道をしていました。その時は、難波によって「なんば大劇場」の巨大スクリーンでみて感激した記憶があります。なんば大劇場は、大阪南の難波駅構内にあった大きな劇場でした。今はもちろんありません。その時以来、ミュージカル映画が好きになった気がします。
 3年前にミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を見ましたが、今回の吹奏楽団の演奏のアンコール曲でした。知っている曲を聴くと安心して楽しめます。
 最近は、舞台でのミュージカルを見る機会も作るようにしています。今年は、何故だか多く、「レ・ミゼラブル」「王様と私」「ウエストサイドストーリー」を見ました。夏休みにみた「ウエストサイドストーリー」は、豊洲の360°回転シアターで観劇しましたが、昔の映画を思い出して感激しました。ミュージカル映画の「ウエストサイド物語」はサウンドオブミュージックと同じロバートワイズ監督作で、1961年に公開されました。
 今週末,共立講堂で本学ミュージカル研究部の秋の定期公演がありますが、演目は「ロミオとジュリエット」です。ミュージカルのウエストサイド物語は、ロミオとジュリエットを翻案したものです。
 なぜ日本映画にミュージカル映画が少ないのかなとつぶやく学長でした。







令和元年10月17日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 9月28日に大学に来た時に、本館と小学館の間の通りに「共立女子学園通り」の表札があるのに気が付きました。大変嬉しくて、映した写真です。
 大妻女子大学の前の通りは「大妻通り」です。10月6日に紀尾井ホールで桜友女性合唱団の演奏会を聞きに行きましたが、四ツ谷駅から紀尾井ホールに向かう上智大学のわきの通りは「ソフィア通り」でした。大学名に関連する通り名はいいなと思います。
 本館の前の白山通りの信号の所にある表札は「共立女子大学前」で、警察の管轄になり、4年ほど前に、前学長の入江先生と現鳥海事務局長が警察に日参してやっと掲げることができたと聞いています。今回の共立女子学園通りの場合は、表札を掲げたりするのは町内会の管轄だそうです。この通りには元々名前がありませんでした。
 家政学部 建築・デザイン学科の林田・田中両先生の「グラフィックデザイン演習Ⅲ」では、神保町活性化デザイン計画として神保町の街づくりを種々提案し、町内会の方々にも来ていただいて学生がアイデアを発表します。昨年の発表会において、その計画の一つにあったのが「神保町界隈の通リに名称を付ける」とするものでした。神保町界隈には通り名のない通りが多いのです。その発表会の場で町内会の方から「本館と2号館がある通りに名前を付けてはいかがですか?」というお話をいただきました。今年の春に学園側に問い合わせがあり、「共立女子学園通り」にすることが決まり、この秋に表札が設置されました。神田一橋中学のわきの共立女子学園通りと直角になる通りは「神田一橋中学通り」のようです。
 通りの英語表記は、色々あります。本館前の白山通りのように、片側2車線以上で、まっすぐで交通量が多く、道の脇に街路樹などが生えている通リは、Avenue(Ave.)と表記されるようです。一方、「共立女子学園通り」のように、通りの周りに建物が建ち、細い通りはStreet(St.)と表記されるようです。
 共女ストリート KWU Street もいいなとつぶやく学長でした。







令和元年10月1日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 前回ブログの続きです。来年4月のビジネス学部ビジネス学科設置の認可書が、9月11日に郵送で届きました。柴山文部科学大臣名の9月6日付の認可書です。
 早速に、学生募集活動を始めることができました。9月22日日曜日には、入学願書配布会とAO入試(リーダーシップ入試)の説明会を行い、予想を超える高校生の方々に参集いただきました。丁度、その日は他学部のAO入試の日でもありました。ビジネス学部の入試広報がやっと秋入試期間に間に合ったと言えます。
 写真は、ビジネス学部長予定の植田先生と小生の設置認可の記念撮影です。
 ビジネス学部は、全国の女子大学では初めてのことで、女子大ならではのリーダーシップ教育を目指します。共立女子大学の目指すリーダーシップ教育は、社長や管理職など特定の立場ではなく、プロジェクトの中で自ら主体的に働き、他者や周囲を支援するリーダーシップを目指します。それこそ女子大学だからできる教育と考えています。1・2年次に企業が提示する課題にグループで取り組む課題解決型授業も「東京の真ん中で、ビジネスを。」のキャッチフレーズにあった特徴ある授業です。
 主要4分野(経営、マーケティング、経済、会計)を学ぶのに必要な数学や統計学、ビジネス英語なども文系学生にもわかりやすく教授します。
 AO入試リーダーシップ方式は、一次選考(書類選考)が10月10日、二次選考が10月27日。商業資格特別入試が11月17日、推薦入試が11月24日です。春の一般入試は他学部と同じでスケジュールで行われます。
 多くの学生が応募してくれればよいなとつぶやく学長です。







令和元年9月2日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 8月30日金曜日午後、文部科学省のホームページに、来年4月開設予定の大学等の設置等に係る答申が掲載されました。学部等の開設予定は9大学9学部あり、その中に共立女子大学ビジネス学部ビジネス学科があります。東京都23区では唯一であり、「地域における大学の振興及び若者の雇用機会の創出による若者の修学及び就業の促進に関する法律」に基づく特定地域内学部収容定員増抑制の除外規定の適用による特例になります。
 ビジネス学部ビジネス学科の設置は、本学では5番目の学部になりますが、全国の女子大学では初めてのことです。本学は明治19年の共立女子職業学校を創始としますが、昭和24年に家政学部を設置し新制大学としてスタートして以降、昭和25年に短期大学部(後の短期大学)、昭和28年の文芸学部設置等を経て、今年で70年になります。その間、平成2年に国際文化学部(後の平成19年に国際学部)、平成16年に短期大学看護学科(後の平成25年に看護学部)を開設し、大学4学部、短期大学2学科の文理をそなえた魅力ある女子総合大学として昭和、平成と発展してきました。そして、令和の時代になり、ビジネス学部ビジネス学科を開設する準備を進めております。
 ビジネス学部ビジネス学科は、本学の建学の精神である「女性の自立と自活」に基づく、女性の自活を推進する学部です。新学部の人材養成目的は、「ビジネスの場で活用できる知識・技能と必要な教養を身に付け、他者と協働してリーダーシップを発揮できる人材を養成する。」ことです。人口減少と超高齢化が進む今の日本で、女性の活躍推進に寄与することが期待されます。
 ビジネス学部ビジネス学科は、純増の計画ですので、それを活かしたカリキュラムを組むことができました。主要4分野(経営、マーケティング、経済、会計)を段階的に学ぶと共に、それらの基礎知識を活用するためのリーダーシップ開発プログラムと課題解決型授業が配置されています。丸の内や大手町に近い本学の地の利を活かしたフィールドワークもあります。
 写真は8月24日土曜日のオープンキャンパス時の説明会です。ビジネス学部ビジネス学科(仮称・設置認可申請中)と題した説明会にも多くの方に参加いただき、感謝いたします。ちなみに、「答申」とは、特に諮問機関が、諮問を受けた事項について意見を具申するという意味のようです。早く設置認可をとつぶやく学長です。







令和元年8月24日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 7月15日の朝日新聞朝刊の一面に「老衰 死因の3位に 厚労省統計 脳血管疾患を抜く」という記事が掲載されていました。
 私たちが死亡した場合に、死亡診断書が交付されますが、最終的に診断書に記載された複数の疾患から一つ選択され、一人一つ原死因が特定されます。原死因特定のルールは、ICD-10(国際疾病分類)によっていることは、2018年9月19日のブログに記載しました。これらの結果は、人口動態統計の死因統計として厚労省でまとめられ、日本人の健康政策に役立てられます。
 主要な死亡原因(死因)は3大死因と言われ、戦後は成人病から生活習慣病と言われた、悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患(脳卒中)が約60%を占めていました。しかし、この10数年間に老衰の死亡率が高くなり、ついに2018年に脳血管疾患を抜いて第3位となりました。全死亡数の8.0%に相当します。老衰という疾患名でない、いわゆる分類不明確なものが第3位となったことは、新聞の一面を飾る出来事でした。
 老衰は、高齢者が特定できる疾患がないが、徐々に全般機能が低下してきて、死亡した場合につけられる死亡診断書名です。ヒトが死亡するときは、必ず病気になって死亡するという考えがある一方で、自然に機能が低下して死亡する場合があるとする考えに基づきます。私が講義を担当していた時に、学生に「将来にあなたが死亡する場合にどの死亡診断書名がいいですか?」とちょっと無茶な質問をすると、たいてい「老衰がいい」とする答えが得られます。日本人にとって老衰は、自然な望ましい死と考えられるようです。
 死因統計では、戦前から老衰の死亡率が高かったのが、戦後医療へのアクセスがよくなり、自宅ではなく病院で死亡するようになり、老衰の死亡率は減ってきていましたが、ここ10数年間の高齢化の影響により老衰の死亡率が高くなってきました。
 しかし、諸外国と比較してみると、老衰の死亡率は国による差があります。米国の死亡率は男性では日本の42分の一、女性では57分の一、フランスでは男性では日本の15分の一、女性では12分の一となります。日本では、高齢者が死亡した場合に老衰という死亡診断書名を好んでつける傾向にあるようです。家族もその死亡診断書名に納得する傾向にあります。昨年の春に私の母親が96歳でなくなりましたが、死亡診断書名は老衰でした。認知症もありましたが、最後は食べることが少なくなり、死亡しましたので、老衰に納得しました。老衰は医学的というより社会的な死亡診断書名です。
 高齢者に多い死因でかつ日本が他の国より多い死因は肺炎です。高齢化に伴い肺炎死亡も増加し、2011年には脳血管疾患を抜いて第3位の死因となりました。今回の老衰のような状況でした。しかし、2017年には、誤嚥性肺炎と分けて死亡診断書を書くように指導があったために、肺炎の死亡率は急に低下し、老衰に次いで、第5位になりました。2018年は、老衰が第3位、脳血管疾患第4位、肺炎第5位です。しかし、肺炎と誤嚥性肺炎を合わせると、第3位のままです。
 日本人は高齢期には老衰や肺炎で死亡するようになったと言えます。でも、私は心臓病を専門とする内科医であったので、死亡するときは心臓性急死がいいやとつぶやく学長でした。







令和元年7月25日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 7月10日に、京都女子大学との包括連携協定に関わる打ち合わせ会に出席するために京都女子大学キャンパスにいってきました。包括連携協定は地域社会連携の一環として、大学間で学術交流や学生・教職員の交流をおこない、地域社会の発展に寄与するための協定です。
 京都女子大学は「親鸞聖人の体せられた仏教精神にもとづく人間教育」を建学の精神として、明治32年(1899年)の顕道女学院を創始とし、大正9年(1920年)の京都女子高等専門学校が大学の前身です。京都市東山区にキャンパスがあります。本学と比較的に似た学部構成(文学部、発達教育学部、家政学部、現代社会学部、法学部)と定員規模(毎年の卒業者数約1,500人)です。法学部は女子大としては初めてのようです。
 学長や地域連携研究センター長とお話をする中で、中堅女子大学としての共通の悩みと教学改革の歴史があるものと承り、大変親しみを感じました。
 京都女子大学では様々な地域社会連携活動や社会連携による教育活動をおこなっていて、参考になりました。祇園が近いこともあって、祇園地区と地域連携活動が盛んでした。
 京都は、大戦中の空襲がなかったことで有名ですが、実は京都女子大学近くの馬町周辺が、1945年1月16日に空襲を受けたことが記録されています。これは、文学部史学科のゼミ学生が作成した「京都・馬町空襲被害地図」(2019年1月16日 「京都女子大学平成30年度学まち推進型連携活動補助事業」に示されていました。
 写真にあるような歴史的な建造物が残されているのは、うらやましく思いました。
 会議のあと、図書館にて学生が運営するカフェに立ち寄り、産学連携プロジェクト(古着の白衣を黒染めして再利用するプロジェクト)の発表を伺いました。もちろん夜の部の懇親会も楽しいひと時でした。
 京都女子大学のイニシャルはKWUで、本学と同じです。京都女子大学の学生は、京都では「京女(Kyojyo)」と呼ばれるようです。
 共立女子大学の学生も神田神保町では「共女(Kyojyo)」と呼ばれる活躍を期待するとつぶやく学長です。







令和元年7月8日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 70歳の誕生日を迎えることができました。写真は、本学の「浴衣デー」のものです。
 70歳は、古希(人生70古来稀)と言われますが、平均寿命が男性81.1年、女性87.3年(2017年生命表)の時代には、70歳は稀ではないでしょう。生命表は、作成時の死亡状況が今後一定不変とした場合に、10万人の出生者が各年齢まで生き残る人数の期待値(生存数)などを表したものです。
 手元にある2017年生命表をみると、70歳時の生存数は男性83,657人、女性91,960人、すなわち生まれた人のうち、男性で約84%、女性で約92%が70歳まで生存することが予想(期待)されます。「稀」という人数ではなく、70歳を超えるのは当たり前になりました。ちなみに、生存数が半数の50%になる年齢は男性で約84歳、女性で90歳です。100歳になると、男性1,521人(1.5%)、女性6,844人(6.8%)の生存数で、さすがに少なくなります。最近国は、「人生100年時代」というキャッチフレーズをよく使い、その根拠として「日本では、2007 年に生まれた子供の半数が、107歳より長く生きる」という研究者のデータをあげています。しかし、生命表からすれば、「人生、男性84年、女性90年時代」ではないかと思います。
 私達70歳の集団は、団塊の世代(昭和22年~昭和24年生まれ)のラストランナーです。いよいよ団塊の世代が社会の第一線から引退していき、2025年には後期高齢者に移行します。昭和の高度経済成長時代、平成のバブル崩壊の時代を突き進んできた自負がありますが、これからは若い世代からはお荷物とみられる悲しさを感じる年齢となりました。まだ、10数年は生きられそうですが、お迎えが来たら、躊躇しない覚悟を持ちたいものです。
 さて、先日、私が大学1年生の時だけに所属していたクラブの同窓会に初めて出席し、50年ぶりにお会いした同期生をなつかしく思いました。これからは過去を振り返ることが多くなりそうです。
 本館の1階ロビーで「ヌーヴェルヴァーグの女優たち―スタジオアルクールパリのポートレートと映画ポスターから―」の写真・ポスター展が7月6日まで開催されていました。フランスの女優さんの渋い美しさがいいですね。この展示を見て、私にとってのヌーヴェルヴァーグを振り返りたいと思います。
 私は、大学1年次1968年から映画にはまり、大学の講義がストライキでないことを理由に、毎日のように映画館に足を運びました。ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)のフランス映画は、1950年代末からなので、リバイバル映画として名画座で見ました。カトリーヌ・ドヌーブの「シェルブールの雨傘」(1964年)が好きでした。
 しかし、大学1年生の1968年から同時代的に始まったアメリカンニューシネマの流れに圧倒され、私の映画好きの原動力になりました。アメリカンニューシネマの特徴は、虚無感、反体制、暗い、ハッピーエンドでない、などです。当時の私の気分にあいました。大学入学試験のあとにみた「俺たちに明日はない」(1967年、アーサー・ペン監督)から始まり、「真夜中のカーボーイ」(1969年)で涙し、「ワイルドバンチ」(1968年)で男同士の友情に熱くなりました。訳わからないけれど気になる映画「2001年宇宙の旅」(1968年)もありました。
 アメリカンニューシネマはやがて終焉して、「スターウォーズ」(1977年)に始まる新しい映画の流れが始まりました。完全懲悪、ハッピーエンド、ヒーロー物がCGを駆使した映像で表現されるようになりました。スティーブン・スピールバーグとジョージ・ルーカス監督の作品が、その後の映画界を引っ張ってきました。フランスのヌーヴェルヴァーグからアメリカンニューシネマは、団塊の世代の反体制を象徴する映画でした。日本映画については、また別の機会にブログで述べたいと思います。
 そう言えば映画評論家になりたいと思ったこともあったとつぶやく学長です。







令和元年6月25日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 神田駿河台は、意外に本学と近いと思います。JRお茶の水駅を通学に使っている学生もいます。私も、たまに神田錦町から荒川土手行のバスにのり、駿河台下、お茶の水駅を通って自宅近くの東大農学部前まで行くことがあります。
 駿河台は、千代田区の町名由来版によると、1616年家康が隠居していた駿府(静岡)で没すると、家康直属の家臣だった旗本(駿河衆)がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。
 駿河という名前は和歌山県人にもなじみがあります。和歌山市には駿河町があり、また江戸時代からの銘菓として駿河屋の羊羹が和歌山では有名です。
 前回のブログで述べた御三家紀州藩の祖、徳川家康の10男の頼宜が1619年に和歌山に来る前は、駿河国駿府藩にいたので、和歌山にも駿河の名前がついた地名や銘菓がある可能性が考えられます。そんな訳で、駿河は和歌山県人になじみがあると思います。
 お茶の水橋から明大通リを下ったところの駿河台1丁目、杏雲堂病院の玄関先には、写真のように大久保彦左衛門屋敷跡の石碑があります。
 大久保彦左衛門は、徳川家康から家光まで3代の間徳川家に仕えた旗本です。その屋敷跡が駿河台にあります。将軍家光に対する「天下のご意見番」として後の講談話として有名です。その話は映画になり、東映映画「一心太助シリーズ」として1958年(昭和33年)から1963年まで5本公開されました。当時は、日本映画の全盛期であり、小学生の私も見に行った記憶があります。中村(萬家)錦之助演じる魚屋の一心太助と、月形龍之介演じる大久保彦左衛門が活躍する時代劇です。月形龍之介は、戦前から活躍する剣劇役者ですが、私の好きだった役者の一人で、水戸黄門や新選組の近藤勇、忠臣蔵の吉良上野介を演じるのがうまかったです。2018年10月30日のブログで、映画姿三四郎の中で、姿三四郎が桧垣源之助と右京が原で決闘する場面を書きました。映画の中で桧垣源之助を演じたのが、月形龍之介です。不敵な笑みを浮かべる敵役としての役が好きでした。
 写真に写る石像は、杏雲堂病院第3代院長佐々木隆興先生のものです。杏雲堂病院は、病院のホームページによると、明治15年(1882年)に杏雲堂醫院として設立されたとあります。本学の共立女子職業学校より早い設立です。駿河台や隣の湯島台には多くの歴史ある病院があり、本学の学生もお世話になっています。
 神田駿河台は意外に近いとつぶやく学長です。







令和元年6月11日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 令和元年6月1日に、中学校3年生の同期会のために和歌山市に行ってきました。中学卒業時は1964年で、東京オリンピックの開催された年でした。私たちは、今年で70歳を迎えることもあり、同期会を企画して頂きました。
 私は4月16日のグログに書いたように、小学校は海南市でしたが、中学2年次に和歌山市の中学に編入しました。海南市から和歌山市までは、市電で通学していましたが、今はもうその市電はありません。中学3年生の時に良く勉強したことは、2018年9月19日のブログに書きました。
 同期会では、3クラス150人中44人が集まりました。昔の思い出より、今の生活や仕事の状況、自分の体の不調のこと、孫の面倒のこと、などが話題になります。二次会では、カラオケで自慢の喉を聞かせるものが多い中、私はウイスキーの水割りでした。
 翌朝は、胃部不快感を我慢しながら、和歌山県立博物館と和歌山城を見学しました。県立博物館では、特別展「仏像と神像へのまなざし」が開催されていました。5月12日放送のNHKの日曜美術館アートシーンの中で紹介されていたので是非見たいと思っていました。
 和歌山県下では、文化財の盗難が問題となっていて、それに対する県民の意識を向上させるのが目的の特別展でした。人口の高齢化により、寺社における文化財の管理が十分でなく、盗難が多い現実に悲しくなります。県立博物館は初めて見学したような気がします。
 和歌山県立博物館の裏手には、私の卒業した中学校があります。ちょっと覗いてみると昔の面影がないくらいに新しくなっていました。
 道路を超えると和歌山城公園です。
 和歌山城は、久しぶりに見学しました(写真)。写真の映りが悪いのは、天気が悪かったからで、案の定、見学後に雨となり、和歌山城の売店で傘を買いました。
 史跡和歌山城の案内パンフによると、1585年に羽柴秀吉が紀州平定後に、弟の秀長に命じて創建したとあります。4月15日のブログで記載した、根来寺の焼き討ちのあとです。城造りで有名な藤堂高虎が手掛けた最初の近世城郭(平山城)です。1600年の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が領主となり、城下町を整備した。1619年に徳川家康の10男の頼宜が55万5千石を拝領して、御三家紀州藩が成立しました。
 紀州徳川家では、八代将軍となった吉宗が有名で、和歌山県民の誇りでもあります。吉宗の騎馬像が、県立博物館前にあります。
 和歌山城の天守閣は、1850年のものが明治期に残り、国宝に指定されていましたが、昭和20年1945年の和歌山大空襲で焼失し、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されました。そう言えば、私が、小学校の頃に遠足できた時は、まだ天守閣の無い和歌山城址公園でした。天守閣の運命は、同じ徳川御三家尾張名古屋城の天守と同じです。
 和歌山城天守閣に登るのはこれが最後かなとつぶやく学長でした。







令和元年5月28日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 令和元年5月25日には、本学近くのすずらん通リにて、神田すずらんまつりが開かれました。本学では、神保町の商店街との社会連携活動として、毎年様々なボランティア活動をおこなっています。すずらん通リは、銀座、荻窪など都内に多くありますが、大正14年頃に神田神保町がすずらん型の街灯をつけて命名したのが始まりらしいです。
 今年は、看護学部教員と学生による酸素飽和度測定と吹奏楽団の演奏が行われました(写真)。酸素飽和度は、パルスオキシメータと呼ばれる機器を指尖部に装着し、動脈血を流れるヘモグロビンに酸素が何%結合しているか測定するものです。普通は98%の値が測定されます。これが低下している状態は、血液の酸素運搬能力が低下している状態ですので、大変な状況です。
 また、今年は、写真のような「共立女子大学の幟(のぼり)」をたてることができました。丁度、直前の24日に完成したものです。すずらんまつりには、近辺の専修大学、明治大学、法政大学などがそれぞれ幟を掲げて、ボランティア活動をおこなっていたので、本学にも幟ができたのは広報的な意味合いからも、良かったです。
 本学の吹奏楽団(写真)は、炎天下での演奏、ご苦労さまでした。当日は、30度を超える直射日光があり、本学 家政学部 建築・デザイン学科作の神保町応援ゆるキャラ「じんぼうチョウ」も大変そうでした。
 5月26日には学園の本館で、在学生家族懇談会が開かれましたが、ロビーに4本の「幟」が飾られ、なかなかよい風景でした。
 学生・教員の皆さんもっと見に来てくださいとつぶやく学長でした。







令和元年5月9日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 平成31年4月27日に学習院創立百周年記念会館で開催された「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美-」展関連シンポジウムを聞いてきました。本学家政学部の長崎巌教授が彬子女王殿下と共に登壇されました。
 本学の博物館では、「和と洋が出会う博物館 共立女子大学コレクション・5 ―宮廷の服飾-」が開かれ、明治天皇の皇太后である昭憲皇太后の大礼服が展示されており、平成31年3月31日に彬子女王殿下がお出ましになりました。
 今、皇室ゆかりの展覧会が開かれているのは、新天皇が即位し年号が平成から令和に改元されるからと思われます。学習院でのシンポジウムでは、皇太子殿下が天皇即位前としてお出ましになられたようでした。明治期の華やかな皇室文化の様子を伺うことができました。
 学習院と本学との関係は、案外深いことを今回の展覧会をきっかけに知りました。本学近くの神田錦町2丁目には、「学習院(華族学校)開校の地」の石碑(写真)があります。学習院は明治10年(1877年)に開校しました。共立女子職業学校が、文京区の本郷弓町から神田錦町2丁目に移転したのは明治19年で、学習院と共立女子職業学校が隣り合わせであった時期がありました。丁度今の学士会館のところに東京大学の前身があり、その裏手に相当します。しかも、学習院の同窓会は本学の同窓会と同じ桜友会と呼びます。目白の学習院には、明治42年の図書館(写真)が保存されているのは、うらやましく思いました。
 本学と皇室とのご縁についても、「共立女子学園百三十年史」より伺い知ることができます。明治20年に神田錦町から神田一ツ橋に移転し、校地及び校舎を文部省から無償貸与されますが、その校地を明治25年に宮内省より下賜されました。その地は、丁度今の2号館のところです。
 明治21年、昭憲皇太后より200円を下賜され、その利子は卒業生のなかで優秀なものの表彰に当てられました。明治22年4月12日には、昭憲皇太后の行啓がありました。昭和3年(1928年)11月10日に昭和天皇の即位式(御大礼)が行われ、これに関連して共立女子職業学校は、同年4月に開かれた御大礼記念国産振興東京博覧会に、裁縫・編物・刺繍・造花・洗濯色染料の各科から製作品を出品し、10月27日、同様の製作品を皇室に献上するなどして、学校として祝意を表しました。
 平成から令和に元号が変わる時期に、本学の博物館にて皇室ゆかりの品を展示できたのは本学の歴史を鑑みてもよかったと思います。
 令和の令は、命令・指令の令ではなく、令名・令月の令だと考える学長でした。







平成31年4月16日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 3月の中旬に法事で、和歌山県海南市に帰省しました。時間があったので、海南市黒江の川端通リを散歩しました。ここは紀州漆器(黒江塗)の店が並ぶ、海南市の観光名所です。子供のころは、住まいの地区と離れているために来ることがほとんどありませんでした。紀州漆器のホームページを見ると、その由来が書かれています。紀ノ川に近い根来寺の僧侶が織田信長に反旗を翻したところ、信長は秀吉に命じて、根来寺に焼討ちをかけました。難を逃れた漆器作りの得意な僧侶が黒江に流れ着き、黒江に漆器づくりが広まったといわれています。また、黒江から元禄二年(1689年)に江戸へ出てきた人物が、日本橋に漆器店をおこしたことに始まる漆器店黒江屋は今もあります。福島県の会津塗、石川県の山中塗・輪島塗などと共に全国三大産地の一つと言われているそうです。自分の故郷の有名な事を少しも知りませんでした。
 川端通リの「うだつ」のある建物が数か所観光名所になっていました(写真)。うだつ(梲)は、「うだち」が転じたもので、広辞苑によると「うだち」は、「江戸時代の民家で、建物両側に「卯」字形に張り出した小屋根つきの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたもののもあり、装飾と防火を兼ねる」と説明されています。
 「うだつが上がらない」は、それから由来し、広辞苑では「出世できない、身分がぱっとしない。富裕な家でなければ「うだち」を上げられなかったことから転じたといわれる。」と説明されている。
 故郷の海南市を離れ、東京にきてから50年を過ぎ、わが身を「うだつが上がらない」と嘆くことが多かったですが、まさかその「うだつ」が故郷にあったとは今まで考えもしませんでした。
 写真には津波避難場所の看板が写っています。黒江は、海岸に近いところです。昔は入江になっていて、牛が横たわっている姿に似ていることから黒牛潟と呼ばれる風光明媚な場所で、万葉集で読まれました。黒牛の名前は、今日本酒の銘柄につけられています。
 黒江はその昔、京都から熊野へいく熊野古道の途中でした。黒江の後は有間皇子が658年に処刑された場所で有名な藤白坂に続きます。藤白峠からみる海南の海岸は風光明媚で有名でしたが、戦後の高度成長期に埋め立てられ、火力発電所に変わり、昔の面影はありません。
 私が小学生のころは高度成長期にあたり、小学校の先生から海南市は埋め立てで人口は5万人から倍増して発展すると、説明されました。海南市は、平成の合併で面積は増えたようですが、人口は5万人です。
 ふるさとにまた行きたいとつぶやく学長です。







平成31年4月5日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 4月1日に本学共立講堂で、入学式が挙行されました。前日の天気と異なり、青空の見える平成の最後の入学式でした。近隣の桜は満開で、青空に桜の映える日で良かったです。午前と午後に分かれた入学式にて、大学、短期大学、大学院の入学生約1300名とその保護者の方々が集いました。
 私にとっては学長として2回目の入学式ですが、平成最後の入学式にあたり、式辞でも平成の時代を振り返ることになりました。
 個人的には、臨床医学の立場から予防医学の立場に変わったのが平成元年2月でした。そして、平成15年に本学の家政学部食物栄養学科に奉職し、平成30年に学長になりました。社会の変化の早さに圧倒される平成時代でした。特にIT関係の進歩には、遅ればせながらついていく感じでした。私は団塊の世代の最終ランナーですが、平成が終わろうとして、昭和の怪物のようであった団塊の世代が去っていくのだろうと思います。平成を総括したくて、「平凡社新書 保坂正康著、平成史 2019年3月15日発行」を一気に読みました。平成とは、と考えながら読むことができました。
 午前の式のあとに新元号が令和に決定したと聞きました。午後の入学式の時には、新元号が平成から令和になるとだけ、言葉を添えることができました。人生で2度目の改元に立ち会うことが出来ました。前回の昭和から平成への改元は、何となくあわただしく思いましたが、今回の改元は落ち着いた感じで良かったと思いました。これからじっくり新元号のことを考えていきます。
 入学式の直前に写真のような本学のボードが完成しました。早速ボードの前で写真を撮影しました。入学式の日には、入学生たちがこのボードの前で記念撮影をしている様子も多く見られ、良かったです。
 今後、様々ないい場面で活用したいとつぶやく学長です。