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学長ブログ ~学長のつぶやき~

令和元年6月25日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 神田駿河台は、意外に本学と近いと思います。JRお茶の水駅を通学に使っている学生もいます。私も、たまに神田錦町から荒川土手行のバスにのり、駿河台下、お茶の水駅を通って自宅近くの東大農学部前まで行くことがあります。
 駿河台は、千代田区の町名由来版によると、1616年家康が隠居していた駿府(静岡)で没すると、家康直属の家臣だった旗本(駿河衆)がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。
 駿河という名前は和歌山県人にもなじみがあります。和歌山市には駿河町があり、また江戸時代からの銘菓として駿河屋の羊羹が和歌山では有名です。
 前回のブログで述べた御三家紀州藩の祖、徳川家康の10男の頼宜が1619年に和歌山に来る前は、駿河国駿府藩にいたので、和歌山にも駿河の名前がついた地名や銘菓がある可能性が考えられます。そんな訳で、駿河は和歌山県人になじみがあると思います。
 お茶の水橋から明大通リを下ったところの駿河台1丁目、杏雲堂病院の玄関先には、写真のように大久保彦左衛門屋敷跡の石碑があります。
 大久保彦左衛門は、徳川家康から家光まで3代の間徳川家に仕えた旗本です。その屋敷跡が駿河台にあります。将軍家光に対する「天下のご意見番」として後の講談話として有名です。その話は映画になり、東映映画「一心太助シリーズ」として1958年(昭和33年)から1963年まで5本公開されました。当時は、日本映画の全盛期であり、小学生の私も見に行った記憶があります。中村(萬家)錦之助演じる魚屋の一心太助と、月形龍之介演じる大久保彦左衛門が活躍する時代劇です。月形龍之介は、戦前から活躍する剣劇役者ですが、私の好きだった役者の一人で、水戸黄門や新選組の近藤勇、忠臣蔵の吉良上野介を演じるのがうまかったです。2018年10月30日のブログで、映画姿三四郎の中で、姿三四郎が桧垣源之助と右京が原で決闘する場面を書きました。映画の中で桧垣源之助を演じたのが、月形龍之介です。不敵な笑みを浮かべる敵役としての役が好きでした。
 写真に写る石像は、杏雲堂病院第3代院長佐々木隆興先生のものです。杏雲堂病院は、病院のホームページによると、明治15年(1882年)に杏雲堂醫院として設立されたとあります。本学の共立女子職業学校より早い設立です。駿河台や隣の湯島台には多くの歴史ある病院があり、本学の学生もお世話になっています。
 神田駿河台は意外に近いとつぶやく学長です。







令和元年6月11日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 令和元年6月1日に、中学校3年生の同期会のために和歌山市に行ってきました。中学卒業時は1964年で、東京オリンピックの開催された年でした。私たちは、今年で70歳を迎えることもあり、同期会を企画して頂きました。
 私は4月16日のグログに書いたように、小学校は海南市でしたが、中学2年次に和歌山市の中学に編入しました。海南市から和歌山市までは、市電で通学していましたが、今はもうその市電はありません。中学3年生の時に良く勉強したことは、2018年9月19日のブログに書きました。
 同期会では、3クラス150人中44人が集まりました。昔の思い出より、今の生活や仕事の状況、自分の体の不調のこと、孫の面倒のこと、などが話題になります。二次会では、カラオケで自慢の喉を聞かせるものが多い中、私はウイスキーの水割りでした。
 翌朝は、胃部不快感を我慢しながら、和歌山県立博物館と和歌山城を見学しました。県立博物館では、特別展「仏像と神像へのまなざし」が開催されていました。5月12日放送のNHKの日曜美術館アートシーンの中で紹介されていたので是非見たいと思っていました。
 和歌山県下では、文化財の盗難が問題となっていて、それに対する県民の意識を向上させるのが目的の特別展でした。人口の高齢化により、寺社における文化財の管理が十分でなく、盗難が多い現実に悲しくなります。県立博物館は初めて見学したような気がします。
 和歌山県立博物館の裏手には、私の卒業した中学校があります。ちょっと覗いてみると昔の面影がないくらいに新しくなっていました。
 道路を超えると和歌山城公園です。
 和歌山城は、久しぶりに見学しました(写真)。写真の映りが悪いのは、天気が悪かったからで、案の定、見学後に雨となり、和歌山城の売店で傘を買いました。
 史跡和歌山城の案内パンフによると、1585年に羽柴秀吉が紀州平定後に、弟の秀長に命じて創建したとあります。4月15日のブログで記載した、根来寺の焼き討ちのあとです。城造りで有名な藤堂高虎が手掛けた最初の近世城郭(平山城)です。1600年の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が領主となり、城下町を整備した。1619年に徳川家康の10男の頼宜が55万5千石を拝領して、御三家紀州藩が成立しました。
 紀州徳川家では、八代将軍となった吉宗が有名で、和歌山県民の誇りでもあります。吉宗の騎馬像が、県立博物館前にあります。
 和歌山城の天守閣は、1850年のものが明治期に残り、国宝に指定されていましたが、昭和20年1945年の和歌山大空襲で焼失し、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されました。そう言えば、私が、小学校の頃に遠足できた時は、まだ天守閣の無い和歌山城址公園でした。天守閣の運命は、同じ徳川御三家尾張名古屋城の天守と同じです。
 和歌山城天守閣に登るのはこれが最後かなとつぶやく学長でした。







令和元年5月28日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 令和元年5月25日には、本学近くのすずらん通リにて、神田すずらんまつりが開かれました。本学では、神保町の商店街との社会連携活動として、毎年様々なボランティア活動をおこなっています。すずらん通リは、銀座、荻窪など都内に多くありますが、大正14年頃に神田神保町がすずらん型の街灯をつけて命名したのが始まりらしいです。
 今年は、看護学部教員と学生による酸素飽和度測定と吹奏楽団の演奏が行われました(写真)。酸素飽和度は、パルスオキシメータと呼ばれる機器を指尖部に装着し、動脈血を流れるヘモグロビンに酸素が何%結合しているか測定するものです。普通は98%の値が測定されます。これが低下している状態は、血液の酸素運搬能力が低下している状態ですので、大変な状況です。
 また、今年は、写真のような「共立女子大学の幟(のぼり)」をたてることができました。丁度、直前の24日に完成したものです。すずらんまつりには、近辺の専修大学、明治大学、法政大学などがそれぞれ幟を掲げて、ボランティア活動をおこなっていたので、本学にも幟ができたのは広報的な意味合いからも、良かったです。
 本学の吹奏楽団(写真)は、炎天下での演奏、ご苦労さまでした。当日は、30度を超える直射日光があり、本学 家政学部 建築・デザイン学科作の神保町応援ゆるキャラ「じんぼうチョウ」も大変そうでした。
 5月26日には学園の本館で、在学生家族懇談会が開かれましたが、ロビーに4本の「幟」が飾られ、なかなかよい風景でした。
 学生・教員の皆さんもっと見に来てくださいとつぶやく学長でした。







令和元年5月9日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 平成31年4月27日に学習院創立百周年記念会館で開催された「華ひらく皇室文化-明治宮廷を彩る技と美-」展関連シンポジウムを聞いてきました。本学家政学部の長崎巌教授が彬子女王殿下と共に登壇されました。
 本学の博物館では、「和と洋が出会う博物館 共立女子大学コレクション・5 ―宮廷の服飾-」が開かれ、明治天皇の皇太后である昭憲皇太后の大礼服が展示されており、平成31年3月31日に彬子女王殿下がお出ましになりました。
 今、皇室ゆかりの展覧会が開かれているのは、新天皇が即位し年号が平成から令和に改元されるからと思われます。学習院でのシンポジウムでは、皇太子殿下が天皇即位前としてお出ましになられたようでした。明治期の華やかな皇室文化の様子を伺うことができました。
 学習院と本学との関係は、案外深いことを今回の展覧会をきっかけに知りました。本学近くの神田錦町2丁目には、「学習院(華族学校)開校の地」の石碑(写真)があります。学習院は明治10年(1877年)に開校しました。共立女子職業学校が、文京区の本郷弓町から神田錦町2丁目に移転したのは明治19年で、学習院と共立女子職業学校が隣り合わせであった時期がありました。丁度今の学士会館のところに東京大学の前身があり、その裏手に相当します。しかも、学習院の同窓会は本学の同窓会と同じ桜友会と呼びます。目白の学習院には、明治42年の図書館(写真)が保存されているのは、うらやましく思いました。
 本学と皇室とのご縁についても、「共立女子学園百三十年史」より伺い知ることができます。明治20年に神田錦町から神田一ツ橋に移転し、校地及び校舎を文部省から無償貸与されますが、その校地を明治25年に宮内省より下賜されました。その地は、丁度今の2号館のところです。
 明治21年、昭憲皇太后より200円を下賜され、その利子は卒業生のなかで優秀なものの表彰に当てられました。明治22年4月12日には、昭憲皇太后の行啓がありました。昭和3年(1928年)11月10日に昭和天皇の即位式(御大礼)が行われ、これに関連して共立女子職業学校は、同年4月に開かれた御大礼記念国産振興東京博覧会に、裁縫・編物・刺繍・造花・洗濯色染料の各科から製作品を出品し、10月27日、同様の製作品を皇室に献上するなどして、学校として祝意を表しました。
 平成から令和に元号が変わる時期に、本学の博物館にて皇室ゆかりの品を展示できたのは本学の歴史を鑑みてもよかったと思います。
 令和の令は、命令・指令の令ではなく、令名・令月の令だと考える学長でした。







平成31年4月16日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 3月の中旬に法事で、和歌山県海南市に帰省しました。時間があったので、海南市黒江の川端通リを散歩しました。ここは紀州漆器(黒江塗)の店が並ぶ、海南市の観光名所です。子供のころは、住まいの地区と離れているために来ることがほとんどありませんでした。紀州漆器のホームページを見ると、その由来が書かれています。紀ノ川に近い根来寺の僧侶が織田信長に反旗を翻したところ、信長は秀吉に命じて、根来寺に焼討ちをかけました。難を逃れた漆器作りの得意な僧侶が黒江に流れ着き、黒江に漆器づくりが広まったといわれています。また、黒江から元禄二年(1689年)に江戸へ出てきた人物が、日本橋に漆器店をおこしたことに始まる漆器店黒江屋は今もあります。福島県の会津塗、石川県の山中塗・輪島塗などと共に全国三大産地の一つと言われているそうです。自分の故郷の有名な事を少しも知りませんでした。
 川端通リの「うだつ」のある建物が数か所観光名所になっていました(写真)。うだつ(梲)は、「うだち」が転じたもので、広辞苑によると「うだち」は、「江戸時代の民家で、建物両側に「卯」字形に張り出した小屋根つきの袖壁。長屋建ての戸ごとの境に設けたもののもあり、装飾と防火を兼ねる」と説明されています。
 「うだつが上がらない」は、それから由来し、広辞苑では「出世できない、身分がぱっとしない。富裕な家でなければ「うだち」を上げられなかったことから転じたといわれる。」と説明されている。
 故郷の海南市を離れ、東京にきてから50年を過ぎ、わが身を「うだつが上がらない」と嘆くことが多かったですが、まさかその「うだつ」が故郷にあったとは今まで考えもしませんでした。
 写真には津波避難場所の看板が写っています。黒江は、海岸に近いところです。昔は入江になっていて、牛が横たわっている姿に似ていることから黒牛潟と呼ばれる風光明媚な場所で、万葉集で読まれました。黒牛の名前は、今日本酒の銘柄につけられています。
 黒江はその昔、京都から熊野へいく熊野古道の途中でした。黒江の後は有間皇子が658年に処刑された場所で有名な藤白坂に続きます。藤白峠からみる海南の海岸は風光明媚で有名でしたが、戦後の高度成長期に埋め立てられ、火力発電所に変わり、昔の面影はありません。
 私が小学生のころは高度成長期にあたり、小学校の先生から海南市は埋め立てで人口は5万人から倍増して発展すると、説明されました。海南市は、平成の合併で面積は増えたようですが、人口は5万人です。
 ふるさとにまた行きたいとつぶやく学長です。







平成31年4月5日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 川久保 清

 4月1日に本学共立講堂で、入学式が挙行されました。前日の天気と異なり、青空の見える平成の最後の入学式でした。近隣の桜は満開で、青空に桜の映える日で良かったです。午前と午後に分かれた入学式にて、大学、短期大学、大学院の入学生約1300名とその保護者の方々が集いました。
 私にとっては学長として2回目の入学式ですが、平成最後の入学式にあたり、式辞でも平成の時代を振り返ることになりました。
 個人的には、臨床医学の立場から予防医学の立場に変わったのが平成元年2月でした。そして、平成15年に本学の家政学部食物栄養学科に奉職し、平成30年に学長になりました。社会の変化の早さに圧倒される平成時代でした。特にIT関係の進歩には、遅ればせながらついていく感じでした。私は団塊の世代の最終ランナーですが、平成が終わろうとして、昭和の怪物のようであった団塊の世代が去っていくのだろうと思います。平成を総括したくて、「平凡社新書 保坂正康著、平成史 2019年3月15日発行」を一気に読みました。平成とは、と考えながら読むことができました。
 午前の式のあとに新元号が令和に決定したと聞きました。午後の入学式の時には、新元号が平成から令和になるとだけ、言葉を添えることができました。人生で2度目の改元に立ち会うことが出来ました。前回の昭和から平成への改元は、何となくあわただしく思いましたが、今回の改元は落ち着いた感じで良かったと思いました。これからじっくり新元号のことを考えていきます。
 入学式の直前に写真のような本学のボードが完成しました。早速ボードの前で写真を撮影しました。入学式の日には、入学生たちがこのボードの前で記念撮影をしている様子も多く見られ、良かったです。
 今後、様々ないい場面で活用したいとつぶやく学長です。