共立女子大学・共立女子短期大学

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学長ブログ

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平成29年9月9日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

「先生、半鐘の音を出すにはどうすればいいでしょうか」
「そうね、線路の切れっ端を縄で吊るして金づちでぶっ叩けば半鐘の音がするよ」
 こういう会話を学生と交わしたのは私が共立に勤めてまだ間もないころでした。
 そのとき私は学内の英語劇サークルの顧問をしていました。もっぱらシェイクスピアを原語で上演するサークルで、その年は『オセロー』をやることになっていました。私もそのリハーサルになるべく顔を出すようにしていました。
 劇中で、夜営の兵士のあいだで喧嘩騒ぎが起き、半鐘が打ち鳴らされる場面があります。学生はそれをどうするかで困っていたようでした。
 私はいい加減な答えをしたつもりはありませんが、でも、線路の切れっ端などどこにでもあるわけでもないので、ほとんど冗談のつもりで答えたにすぎませんでした。
 でも、翌日のリハーサルに行ってみて、びっくりしました。なんとそこに線路の切れっ端があったのですね。30センチほどの長さで、両端をきちんと切りそろえてありました。
「これ、どうしたの」
「ああ、私が今朝、家の近くの駅でもらってきました」
 前日に私に質問した学生が答えました。その答え方が、いかにも何でもないことをしただけという調子だったので、そのことにも私は強い印象を受けました。他の学生にも、特に驚いた様子は見られませんでした。
 持ち上げてみると、わずか30センチとはいえ、鉄の塊なので、とても重く、女子学生が持ち運ぶのはさぞ大変だったろうと推察されました。横に開いている穴に縄を通して吊り上げ、用意された金づちで叩くと、もの凄く大きな音がして、そこにいあわせたすべての学生が両手で耳を塞ぎました。
 私は、女子学生が駅に行って「線路の切れっ端をいただけませんか」と言い、駅員がそれに応じてどこからか線路の切れっ端を持ってきて彼女に渡すまでのプロセスを思い描こうとしたのですが、どうしてもうまくいきませんでした。どうしてそんなことが可能だったのか、というところで私の考えが止まってしまって、先に進まないのですね。
 何よりも、その学生のさりげないたくましさが私を打ちました。
 そのとき私は、女子大学という所はこういう所なんだ、という強い思いに駆られていたように思います。そのときの線路の音は今でも私の耳に鳴り響いています。
 その年の公演で、半鐘の音がけたたましく場内に響きわたったことは言うまでもありません。









平成29年8月25日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 本学や他の多くの大学は長い伝統を持っていますが、それぞれの大学にとって重要なことは伝統の長さではなくて、現在どういう教育をしているかであることは言うまでもありません。
 しかし、現在の教育を語るうえで、大学の歴史に触れることが重要になることもあります。
 これからそういう話をします。
 本学は戦後の新しい教育制度のもとで、それまであった共立女子専門学校を発展的に解消するかたちで、昭和24年に発足しました。そして、この共立女子専門学校の元をただせば、明治44年に共立女子職業学校に付設された高等師範科にさかのぼります。
 高等師範科を付設するにあたっては当事者の並々ならぬ意気込みがあったものと思われます。というのも、明治19年に共立女子職業学校が創設された際の教員の多くは、それまで御茶ノ水駅近くにあった官立の東京女子師範学校の教員だったからです。
 東京女子師範学校と同じ敷地内にあった東京師範学校はそれまでは男子だけの学校だったのですが、明治18年に東京女子師範学校を合併して男女共学にする話が持ち上がり、それに反発した教員たちがそこを出て新たに共立女子職業学校を設立したのです。反発した理由についての詳細は伝わっていませんが、共立女子職業学校の設立趣意書には女子教育に対する強固な信念と理想が読み取れます。そして、そのわずか4年後に、共学になったばかりの東京師範学校から女子部を分離して女子高等師範学校が設立されたことを思えば、本学の創立者たちに先見の明があったと言わざるをえません。
 中学校以上の教員を養成するには高等師範科であることが必要とされていたので、当時の関係者はこれによってようやく当初の思いを達成したことになります。彼らの意識では、共立の高等師範科も明治18年までの東京師範学校の系譜を引くものとの自負があっただろうと推測されます。
 本学は今日に至るまで、創立者たちのこの熱い思いを引き継いでいます。時代に即して、しかも未来を見据えながら、断固たる信念のもとに女子教育を行わなければ、創立者たちに顔向けできないことになります。
 本学はどこまでも「風雪の歴史に映ゆる理想」*を守り、高めてゆかなければなりません。

*「共立女子学園歌」(中河幹子作詞、1957)









平成29年8月7日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 大学生の多くは高校を卒業してすぐに大学に入ってきた人たちですが、なかには社会経験を積んだあとで入学してくる人もいます。それらの人々が大学生活を送る過程で自分よりもずっと若い「学友」たちに与える良い影響には計り知れないものがあります。
 かつて私のゼミにいたある学生は短大を出て何年かキャビン・アテンダントをしたあとで本学に編入学してきました。その人柄や経験が他の学生にとって大きな刺激になったことは言うまでもありません。彼女は本学を出たあとはずっと高校の英語の先生をしています。彼女の人生設計のなかで本学が確かな役割を果たしたことを嬉しく思います。
 またある学生は彼女の娘さんが大学を出てお勤めを始めたあとで本学に入ってきました。他の学生がまるで同年代の友人のように彼女に接しながら、心の中では母親のように慕っていることがよくわかりました。彼女の卒業式には娘さんが父母席に座りました。
 世代の異なる学生に対して教員はどう接するべきか、迷うこともありますが、原則的には他の学生に対するのと同じ態度で臨むことになります。言葉づかいも同じです。でも、学生の保護者と話すときは、たとえ世代が同じであっても、相手の立場に最大の敬意を払って、極めて丁寧な言葉遣いになります。
 それで困ったことがあります。
 ある学生が4年生になって私のゼミに属したその年に、彼女の娘さんが本学の同じ学部に新入生として入学してきたのです。私はそのゼミ生と話すとき、当然若い学生に話すのと同じ気楽な話し方をしていたのですが、ある日、彼女と卒論について話していたとき、彼女が突然「娘のことでちょっとご相談が…」と言い出したのです。私はとっさにどういう話し方をすればいいのか分からなくて、言葉が詰まってしまいました。どこからか「へんしーん!」という声が聞こえてくるようでした。「急に学生から母親に変身しないでよ」と私は心の中で話しかけたことでした。
 でも、大学という所はもともとそうした所なんだ、という思いが私にはあります。もっとたくさんの多様な学生が入ってきて、キャンパスがさらに豊かになることを願っています。







平成29年7月20日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 6月から7月にかけては夏休み前のあわただしい時期でしたが、この間にも学内ではいろいろな催しがありました。
 6月半ばの昼休みに「留学生ランチパーティー」がありました。海外からの長期・短期の留学生が本学の学生や教職員とささやかな懇親会を催しました。学生たちは日常的に留学生と学生寮や学生食堂で私的な「懇親会」を催しているわけですが、そこに私が顔を出すわけにもいかないので、こういう機会があることをとても有難く思います。国際情勢はいつも波乱含みで何も問題がない時期などありえないのですが、若い人たちには「今」の問題をきちんと理解したうえで手をつなぐことが求められます。そのことが将来の平和の基礎となるのです。いろいろな国籍の学生たちのはじけるような笑顔を見て心強く思ったことでした。
 6月末には短大文科主催の英語スピーチコンテストが実施されました。海外留学経験者を含む20人ほどの学生が社会問題や関心事について英語で、そして笑顔で、語りました。私も採点者の一人でしたが、どれも優れているので採点に苦労しました。英語も内容も態度もしっかりしていて、本当の意味で「聞かせる」ものばかりでした。参加した学生はそれぞれ努力したことと思われますが、参加した意義は大きく、その効果はおそらく生涯に及ぶだろうと思われます。この意欲と能力と笑顔が国際社会では必要とされているのです。
 7月始めの3日間は「浴衣デー」でした。この間には学生が浴衣を着て授業に出ても「ふつうのこと」とされます。多くの学生が浴衣姿で学内を歩くのは日常性を打破するに十分でした。学生ばかりでなく教職員も浴衣を着ることが奨励され(男性の場合は、許容され)、それぞれが少しばかり高揚した気分を楽しむことができました。外国系の学生の浴衣姿は独特の魅力にあふれていて、一緒に写真に写ろうと友人たちが集まっているあたりは笑顔の花園のようでした。浴衣は最近では気軽に着られる和服として外国人旅行者にも人気だと聞きます。「留学生ランチパーティー」も浴衣でやればいいのに、と私は気軽な感想を抱きました。
 インターナショナルな笑顔をたくさん見ることのできた1か月でした。







平成29年7月6日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 本学は皇居平川門から約300メートルのところにあります。外国からのお客さんに「皇居はすぐそこですから帰りにお寄りになったらどうですか」と言うと、皆さん、目を輝かせます。
 これだけ近いと、どうしても「厳粛」とか「静謐」とかの気分の中で日々を過ごすことになります。学生も、「襟を正して」勉学に励まないわけにはいきません(学生諸君、大丈夫ですか?)。
 皇居は昔は江戸城だったわけで、近くの三崎神社は参勤交代の大名たちが道中の無事を祈って参拝したとされます。本学から世界に向けて「旅立つ」学生にとって、まことに恰好の地と言えます。
 神社といえば、やはり神田明神が有名ですね。本学は幾人かの教授が学生を動員して神田明神と地域文化振興のためのコラボを楽しんでいます。少し足を伸ばせば湯島天神や東京大神宮もあります。神田明神の隣に湯島聖堂があり、さらに神田川を挟んだこちら側にニコライ堂があり、もっと本学寄りのところにこれも古い歴史を誇る神田教会があります。また、「こんにゃく閻魔」の通称で親しまれている源覚寺もあります。数え上げればきりがありません。本学は特定の宗教とつながりを持たないだけに、ますますこういう環境にあることを幸福に思います。
 しばらく前に東京大神宮を訪れたところ、若い女性がたくさん参拝に来ていたので驚きました。なんでも若い女性に大人気とか。そういえば、神田明神のすぐ近くの妻恋神社も若い女性に人気があると聞いたことがあります。神様もいろんなことを期待されて大変だなあと年配者は思うのです。
 そういう話をある女性の教授にしたら、「いやいや、神田明神だって若い人に大人気なんですよ」と言われました。なんでも「アニメ聖地」として有名だとか。さらに、このあたりにはアニメ聖地と呼ばれる場所が多くて、全国から大勢の「巡礼者」が訪れるとか。
 いつのまにか、この地域はいろいろな意味での「聖地」になっていたようです。
 でも、そうなると、「厳粛」とか「静謐」とかはどうなってしまうんでしょうね。







平成29年6月8日

共立女子大学・共立女子短期大学 学長 入江和生

 本学は神保町のいわゆる古書店街から徒歩で数分以内のところにあります。古書店街であると同時に新刊書店も多く、また大小出版社の密集地でもあるので、文字通り「本の街」と言えます。
 私がはるか昔に都内のある大学に入学したとき、ある先生が「テキストは神保町の書店に注文しておいたから買いに行くように」と言われました。それが私が神保町に足を踏み入れた最初でした。その書店の前を通る度にそのことを思い出します。あれはその先生の教育的配慮だったのだということがよくわかります。
 縁あって本学に奉職してから長い年月が経過しましたが、この間に神保町の書店の店頭で懐かしい顔に出会うということを何度も経験しました。神保町を「心のふるさと」と感じている人はとても多いのですね。
 文芸評論家の小林秀雄は、学生時代に神保町の古書店でフランスの詩人ランボーの作品に出会った感動を、「向うからやってきた見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」*と書き記しています。神保町は本との衝撃的な出会いの場でもあるのです。
 私もそれなりに教育的配慮を示そうと、学生を連れて古書店巡りをしたことが何度かあります。20人ほどの女子学生がぞろぞろと入って行くと、ふだん若い女性があまり来ることのない古書店内にただならぬ気配が立ちこめて、「な、なにかあったの?」とささやきかわす声が聞こえたものでした。
 いつだったか、共立の本館のすぐ前にある地下鉄神保町駅の階段を下りていたら、下から学生時代に教わった先生が上がってきたことに気づきました。
「ああ、先生、お久しゅうございます。お元気でいらっしゃいますか」
「いや、それがね、癌になりましてね。明日入院するんです」
 それからまもなくその先生は亡くなられました。
 あのとき先生は生涯親しんだ神保町に最後のお別れを言いに来られたのだということが痛いほどにわかります。
 私はこの地の大学に勤めていることに、限りない喜びと誇りを感じています。

*小林秀雄「ランボオIII」
(『作家の顔』新潮文庫、1961)