更新日:2016年04月10日
日本語・日本文学専修
受験生へのメッセージ(岡田 ひろみ)
大学2年生のときに『源氏物語』のおもしろさを知り、それ以来どっぷり『源氏物語』に浸っています。おそらくこれからもそれは変わらないでしょう。興味のおもむくままに、『源氏物語』の音楽、特に作中で演奏され、謡われる催馬楽(昔の歌謡です)を読み解いたり、和歌や漢籍の引用表現が物語の構造とどのようにかかわっているか考えたり、物語の作中和歌(登場人物が詠んだ和歌)の特質、平安時代の人々がさかんにおこなった和歌と「物」によるコミュニケーションを想像したりしながら、研究をすすめています。
これまで執筆した論文は、『源氏物語』に関するものが最も多いですが、『竹取物語』や『うつほ物語』、『狭衣物語』といった平安時代の作品だけでなく、『しのびね物語』『今物語』などの中世に作られた物語、女流仮名日記や私家集の和歌についても書いています。
現在(2015年度)、担当している授業内容を記します。
上記の授業はほとんど演習です。学生が主体となって、調査し、発表し、まとめます。授業のすすめ方ですが、通年の授業の場合、前期は作品の注釈、後期は各自のテーマ発表という形でおこなっています。発表したことを更に深め、年度末にレポートとして提出します。
2004年度より源氏物語研究会を主催し、在学生・卒業生、教員を中心に『源氏物語』好きの老若男女が集まり、年に8~10回ペースで読書会を行っています。これまで、若紫巻、賢木巻、葵巻、花散里巻、須磨巻、明石巻、玉鬘巻、初音巻、胡蝶巻、蛍巻、常夏巻、篝火巻と11年かけてゆっくりと読みすすめてきました。現在、野分巻を読んでいます。
読書会だけでなく、学生の要望に合わせて実地踏査に行くこともあります。これまで奈良の長谷寺・京都の宇治や宮城(光源氏のモデルの一人、源融ゆかりのお寺がありました)にでかけました。近々、『源氏物語』第3部のヒロインの一人である浮舟が、幼少期から成人するまで育った「常陸」(茨城のあたり)をたずねたいと思っています。
『新譯栄華物語』与謝野晶子(金尾文淵堂 大正三年)
古典文学は好きですか?私は以前あまり好きではありませんでした。古典文法がちっともすっともわからなかったからです。単なるゆる~い読書好きだった私が、ここまで『源氏物語』に、古典文学にはまるとは想像すらしませんでした。そういう想像すらしない道が開かれてくるのが、「大学」です。私の場合、大学の授業で『源氏物語』と出会い、おもしろさを知りました。もちろん、これまで知識として、教科書や問題集の本文として、マンガを通して『源氏物語』を知っていましたが、大学の授業を通して作品を「読む」ということがどういうことか「初めて」知りました。目から鱗が云々とはこういうことを言うのか、と思ったのを今でも覚えています。読むためならば、文法の学習も苦にならなくなりました。文法が読みと密接に繋がることがわかったからです。
では何がおもしろいのか、ということになりますが、真っ先に一つあげれば、「語句の空白」を読むのがおもしろい。古典文学が苦手になる要因の一つに、主語がわからない、ということがあるかと思います。主語の不明については現代の文章や会話でも指摘される日本語の特徴の一つですが、書かなくてもわかるから、という理由があげられます。それは、古典文学にもいえることですが、逆に書かないことで複数の主語を示す、という場合もあるのです。目的語の場合もそうです。「何を」の部分が書いていないことがあります。そういう場合、「何を」にあたる語句の空白を読者は想像し、その空白を読むのです。それが物語の方法として、ふんだんに作品内に用いられているのです。
もともと「言葉」の二重性は「掛詞」にもあらわれている古典文学の表現方法の一つですが、「語句の余白」は二重性どころではありません。文脈や作品全体の構造とゆるやかにかかわりながら、豊かな物語世界を、言葉を書かないことで書く以上の表現世界を生み出しているのです。
具体的にどのような世界なのか知りたい人は、ぜひ共立女子大学文芸学部に入学してみませんか。一緒に作品を読み、語り、深めていきましょう。