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更新日:2021年09月14日

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【国際学部】リレーエッセイ(1)八十田博人「ベルギー・マルシネル炭鉱跡:イタリア人鉱夫たちの記憶の場」

ベルギー・マルシネル炭鉱跡:イタリア人鉱夫たちの記憶の場


八十田 博人


 コロナ禍のために海外になかなか行けなくなり、過去に行った旅を思い出している人も多いと思う。特に世界に旅立つことをミッションにしているような国際学部の教員や学生には辛い日々である。しかし、今は、きっとまた行くぞと強く念じて、過去の写真などを引き出し、過去や未来の旅先についての本を読むなどして、沈潜するチャンスだと思って、時間を有効に使いたいものである。

 今回、私は10年前の、あの東日本大震災が起きる2か月前の2011年1月に、ベルギーのマルシネル炭鉱の跡を訪ねた冬の旅を思い出して、書こうと思う。ただし、この旅は、グルメだ、名所めぐりだと陽気に騒ぐ旅ではなく、静かに歴史の声に耳を傾けるような旅だった。


 私はイタリアを主たる研究領域にしているが、EU研究も専門で、プライベートでもできるだけ多くの欧州諸国を回ることをライフワークにしている。とりわけ、ベルギーは英語もフランス語もよく通じ、カトリックが多く、イタリアとも文化的な親近性があって、食事も美味しく、大好きな国である。マルシネルの炭坑跡、別名「カジエの森」の博物館群を訪ねることにしたのも、そこに多くのイタリア人鉱夫たちが働きに行っていた歴史があったからである。

 ブリュッセルから南西方向に1時間ほど列車に乗ると、ワロン圏(フランス語圏)最大の都市で、ブリュッセル、アントウェルペン(アンヴェルス、アントワープ)に次ぐベルギー第3の都市でもあるシャルルロワに着く。駅前が改装中で落ち着かなかったが、バス停に捨てられた吸い殻の多さに、ああ、イタリアと同じラテン圏に来たな、と思った。というのは、同じベルギーでもフラマン圏(オランダ語圏)は、ドイツやオランダのようにすっきりした通りが多く、ここと好対照だからである。

 シャルルロワの交通の中心である南駅からバスに乗って20分ほどで「カジエの森」の最寄りのバス停に着くのだが、郊外にある炭坑跡なので、近くに着いたら教えてくれと頼んでおいた運転手に「プロフェッサー、ここで降りなさい」と言われないと気づかなかった。マルシネルという小さな町の中心ですらないようだ。ちなみに、フランス語でいう「プロフェッサー」は大学教授だけでなく、リセの先生なども含む。私は職業を名乗っていないが、地味目の紳士ものコートを着てきたことや、産業遺跡などを訪れる物好きなアジア人はそうに違いないという予想、あるいは、そう呼んでおけば違っていても失礼ではないということだったのだろう。

 実際、バスを降りても、何の表示もない。目の前にあるのは、よく衰退産業地域にある低所得者向けの高層集合住宅が数棟のみ。やむなく散歩中のお年寄りに聞くと、ここから遠くない、バス停から見て斜め後ろに戻る道を行って右に曲がるとよいからと言うのでその通りに行くと、すぐに丘のように高くなっているところに炭坑特有の鉄塔が見えてきて安心した。



 カジエの森は、マルシネルの地名が知られるようになった炭鉱事故の記憶だけでなく、ワロン圏全体の産業史全体を振り返る複合施設(といっても、ドイツのルール炭田のツォルフェライン炭鉱跡のように巨大ものではないが)になっていて、その保全にはEUからの補助金が出ていて、入口にそれを示す大きな看板があった。いちばん手前の産業博物館には、重化学工業の大きな機械類が数多く置いてあり、ワロン圏の工業化の歴史がたどれる。現在のベルギーではフラマン圏のほうが経済的にも勢いがあるが、ベルギー工業化の先駆けはむしろワロン圏であり、フランス語の国際的影響力もあって、文化的にも優位にあった。ただし、その繁栄は炭鉱の衰退とともに終わったのである。

産業博物館の奥がガラス博物館で、エミール・ガレなどのガラス作品や鍛冶屋のアトリエがあり、さらに奥にあるのが、その名も「1956年8月8日館」である。この日に起きた炭坑事故で262人の炭坑夫が死んだのだが、出身国別で最も多かったのがイタリア人で、死者は136人に及んだ。


 

 この日の8時10分に事故が起きたので、それを示す大きな時計のモニュメントがある。狭い坑道を再現したところや、炭坑夫たちの日常を撮った写真のパネル、そして地下1000メートル以下までに下っていく作業用エレベーターの地上部分が、サイレンやベルの音も付けて再現されている。私はふだん映像資料は熱心に見ることがないが、ここでは当時のニュース映像を使ったドキュメンタリーを最初から最後まで見た。


 

 この事故は使用者の責任を問う裁判になったが、有罪となったのは現場監督のみで罰金のみの執行猶予、企業側には刑事上の罰はなかった。そのため、「マルシネルの犠牲者は2度殺された」という表現もある。当時の新聞記事や映像から、残された248家族、遺児417人の悲痛な思いが伝わってくる。この事故の後、炭坑はいったん操業停止となり、安全強化後に再開するも、ほどなく石炭は衰退産業となり、1967年には完全に閉山となった。


 

 1946年から1963年の間にマルシネルを含むベルギー各地の炭坑で死んだイタリア人は合計890人に上る。そのなかで最大の事故が起きた1956年8月8日は、2001年にイタリア政府により、「海外イタリア人労働犠牲者追悼国家記念日」に指定された。イタリアがまだ貧しかったころ、イタリア人たちは世界中に出稼ぎ、あるいは移民として、働きに出た。マルシネルだけが悲劇の場所であったわけではない。しかし、この事故は、戦争が終わった後、ヨーロッパ各国が経済復興から国境を越えた共同市場を作る段階に進んでいた矢先に起きただけに、余計に悲劇性が増したのである。



 マルシネル炭坑の事故は、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が稼働してから数年後、翌年には欧州経済共同体設立条約(ローマ条約)が締結されるというときに起きた。もちろん、イタリアからイギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなどへ向かった労働移民はそれ以前から始まっており、特にベルギーの炭鉱で働くイタリア人鉱夫は、欧州統合初期の労働移民のなかではもっとも目立つ存在だった。


 

 先に述べた三つの産業遺跡施設は高台にあって、炭坑事故追悼の場は階段を下りたところにある。この階段とは別の、事故当時からある幅の狭い鉄の階段は、死傷者を担架で運んだ歴史的な記憶を留めるために、使わずに保存されている。階段の下にはイタリア人炭坑夫の記念碑と追悼の鐘がある。イタリア政府の肝いりで作られたため、すべてイタリア語表記である。ここには、事故の50周年だった2006年に当時のイタリア大統領チャンピも来ている。ここも、ある意味でイタリア史の一部なのである。ずっとイタリアの歴史を研究してきた私も、イタリア人の足跡を感じて胸が熱くなった。



 学者の悪い癖で、帰り際に売店でたくさん本を買ったのだが、レジに紙幣が足りないからと、手のひら一杯の硬貨でお釣りをもらったが、そのほとんどがイタリア発行のユーロ硬貨なのである。ユーロ硬貨は人々の手を経て国境を越えて流通するが、それでもここはベルギーであるから、通常はベルギー発行の硬貨が多くなるはずである。おそらく、イタリア人が多くここを訪ねて来ている間接的証拠ではないかと思った。

 シャルルロワは炭坑によって栄えた街だ。南駅に戻ってから市内の見物に出たが、駅前を流れるサンブル川にかかる橋の両端に炭坑夫と製鉄労働者の像がある。週末で川辺には屋台が並んでいて、熱々に焼けたソーセージとビールを買って、しばらく現在のシャルルロワの人々の様子を眺めていた。この中には結構、ベルギーに住み着いたイタリア人移民の子孫もいるはずだと思いながら。


 

 実は、この旅でベルギーがとても気に入り、2013年9月に再訪している。そのときは、ブリュッセルでベルギーのマンガ祭りが行われていた。フランスやベルギーには、「バンド・デシネ」と呼ばれる独特のマンガ文化がある。ここベルギーも、古くはタンタンの大冒険、近年では世界各国でアニメがテレビ放送されたスマーフなど、人気キャラクターに事欠かない。



 見本市会場のようなところで色々なイベントが行われていたが、マンガ家が本にサインしてくれるイベントがあって、私はマルシネルの事故を描いた『マルシネル 1956』というマンガを購入して、作者のセルジョ・セルマ氏にサインしてもらった。名前からして明らかにイタリア系ベルギー人である。この日は漫画家のサインに添えて好きな絵を描いてもらえる。私はこのマンガの主人公である、事故で死んだ炭鉱夫の父と残された息子の絵を描いてもらった。会場に飾られている各漫画家の名刺代わりの一枚(テーマは、自分の「冒険」を描く)には、セルマ氏が働き疲れた父親に「漫画家になる」と言った子どもの頃の思い出が描かれていた。その年の初めに逝った私自身の父への思いもあって、それ以外には思いつかなかったのである。セルマ氏の許可を得ていないので、残念ながら、その絵を写真でお見せすることはできないが、私の研究室を訪ねて来られる方には、求められればお見せする。

  このマンガには事故そのものは最後に少し描かれているだけで、しかも決して大げさに描いてはいない。むしろ8月8日以前の数か月の炭鉱夫一家の日常が事細かに描かれ、苦労しながらも家族が愛情深く寄り添って過ごしていた日々が回想される。それが急に失われたことを描くことで、声高の告発よりも、静かに強く読者の心を打つのである。