国際学部

Faculty of International Studies

ニュース一覧へ戻る

国際学部ニュース詳細

更新日:2019年12月03日

研究紹介

【国際学部】リレー・エッセイ2019 (20) 阿部圭子「オリンピックといえば・・・」

オリンピックといえば・・・

阿部圭子


いよいよ2020東京オリンピックまで半年強となった。先日、本学の多くの学生さんが大会ボランテイアに登録されていることをうかがい、はるか昔のロスアンゼルス・オリンピックを思い出した。当時、アメリカ留学中であった私は、夏休みの一月間をオリンピックのプレスセンター内にあるブラザー工業のブースでアルバイトをさせてもらったからである。ブラザー工業はミシンや編み機で有名であったが、LA大会では同社のタイプライターをプレスセンターに無償で提供したのである。


それまでのオリンピックは開催のための施設の建設費その他で開催都市はその費用の負担が大変で、開催を希望するところは年々少なくなっていた。そんな中、LA大会は旅行会社を経営していたビジネスマンのピーター・ユベロス氏を大会組織委員長に据え、それまで赤字続きだったオリンピックを放映権料やスポンサー収入などで黒字に転換させた民営五輪となった。一部では「商業オリンピック」と揶揄されたが、ある意味で画期的なオリンピックとなった。


ユベロス氏は開催するために必要な費用を、1.テレビ放映権料、2.一業種一社に絞ったスポンサー協賛金、3.入場料収入、4.記念グッズの売上で費用を捻出した。企業の参加方法は賛助金を出すスポンサー、物品を提供するオフィシャル・サプライヤー、五輪マーク使用料などを払うライセンスの3種類があった。参加企業は全部で150社で日本からはスポンサーやサプライヤーとして12社が参加した。ブラザー工業はオフィシャル・サプライヤーとして約4000台のタイプライターを大会事務局その他に提供した。中でもプレスセンターには約100020か国語のタイプライターが提供された。大会終了後は大会関連グッズは、通常は廃棄するところを何もかも、ポスター一枚までもがすべて売りに出された。


たとえば柔道の山下選手が金メダルを獲得し、上った表彰台はリトル・トーキョーの日本人相手の土産物店が落札し、オリンピック後しばらくは日本人観光客の評判となった。


ブラザー工業のタイプライターも無償で提供されたが、大会後はその品質の良さを実感した多くのジャーナリスト達が購入して各国に持ち帰った。こうして最終的にはおよそ400億円の黒字で終了し、オリンピックはアマチュアのスポーツという点から離れ、儲かるものというものに転換した。


一番印象的な思い出はピンバッジである。オリンピックでは各国の選手団、企業や団体が独自のピンバッジを作成しており、200種類以上に上ったそうである。それをコレクションすることがブームになっていた。それぞれのピンバッジの発行数や種類などを写真入りで解説した専門のパンフレットが出回ったり、ブローカーやバッジ交換市場まで出現した。どこに行ってもピンバッジが話題にのぼった。





私のアルバイト先のブラザー工業でも独自のピンバッジを2万個作成し、当初は宣伝のために大会開催前からプレスセンターのブースで連日、欲しい人に配布していたところ、毎朝、ピンバッジを求めて配布時間前から長蛇の列が出るほどの人気となった。あまりの人気に朝一番で配布することにし、また1日50個に配布する数を限定する事になった。また全米各地から欲しいので送って欲しいという手紙や電話がかかり、その後、15ドルで販売することにしたが、注文は1000個以上になったそうである。


ある日、ロス警察の警察官から折り入って話しがあると言われ、私一人が休憩時間に呼び出された。警備のことなどに関する注意を受けるのかと思い、緊張して出向いたところ、彼の息子がブラザー工業のピンバッジがどうしても欲しいと言っているがどうにかもらえないかという個人的な依頼だった。ブラザーのピンバッジの配布時間は彼の勤務時間中でどうしても列に並べないという理由だった。ロス警察の黒の制服を着た、大きな体の警察官が必死に懇願する姿に驚いた。


すぐにこのエピソードを上司に話して許可を取り、後日、特別にピンバッジを取り置きし、休憩時間に取りに来た彼に渡したところ、大喜びされたのは言うまでもないことである。そのお礼にとロス警察のピンバッジを持って来てくれた。警察官である前に一人の父親である個人を優先するアメリカ人気質を実感した。



 またブラザーの宣伝のためにオリンピック期間中はずっとピンバッジをつけていたが、どこに行っても大評判であった。たとえばレストランに入るのを待って、列に並んでいてもウエイターからピンバッジについて話しかけられたり、特別に早く席をサービスしてもらったりと、オリンピック期間中のピンバッジの威力は絶大であった。


アジアからの一留学生であった私がピンバッジ一つで見知らぬ人々から声をかけられ、まるでコミュニケーションの通行手形を渡されたような気がした。そしてオリンピックに参加しているという意識がアメリカの中に居場所を与えられたような特別な思いに変わり、その後の私のアメリカ生活の大きな自信となった。 


 オリンピック終了後、しばらく経ってからピーター、ユベロス氏から一通の封書が届いた。中を開けると短いメッセージと一緒に「Gracias! 」(スペイン語でありがとうの意味)と、一言書いてあるだけのピンバッジが入っていた。それを見るたびに夏の一月間をオリンピックの裏方として過ごし、多様な国々のプレスの方々と交流できた経験を思い出し、30年以上たった今でも胸が熱くなる。



みなさんにも是非、2020東京オリンピックで良い出会いを経験して頂きたいと願ってやまない。