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更新日:2017年07月31日

【国際学部】永井清彦先生(1935~2017年)を偲んで

永井清彦先生(1935~2017年)を偲んで

西山 暁義

 

 2017714日、本学(国際文化学部)元教授である永井清彦先生がご逝去されました。享年82歳。ここ数年、闘病生活を続けられるなか、肺炎を併発されて帰らぬ人となられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

 永井先生の歩まれた足跡や築かれた業績については、私よりも紹介に適任の方が多くいらっしゃいます。ここでは先生の国際文化学部での最後の4年間を、同じドイツを専門とする「同僚」として親しくさせていただいた立場の人間として、以下に追悼の言葉を述べたいと思います。

 

 1958年に東京大学文学部を卒業された永井先生は、朝日新聞、ドイチェ・ヴェレ、タイムズと国内外での報道の最前線で活躍されたのち、大学での研究、教育への道へと進まれました。今でこそ、ジャーナリストの経歴をもつ大学教員は少なくありませんが、先生はまさにその先鞭を付けた方の一人といっていいでしょう。桃山学院大学、玉川大学を経て、共立女子大学国際文化学部に赴任されたのは、1996年のことでした。

 

 私が永井先生にはじめてお目にかかったのは、その6年後、20024月に国際文化学部に着任した時のことです。上述のように、そこで私は永井先生の34歳年下の「同僚」になりました。当時共立には、国公立大学を定年でお辞めになった後に移られてきた先生も少なからずおられ、なかには丸山松幸先生(中国文学)や、永井先生と同じ年生まれである文芸学部の柴田翔先生(ドイツ文学)のように、私自身が学生として学んでいた大学で当時教鞭を執られていた方々もいらっしゃいました。

 

 直接お目にかかるのは初めてであったものの、永井先生は日本語で『荒れ野の40年』と題された、終戦40周年(1985年)に当時のドイツ連邦共和国大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが行った演説の格調高い翻訳と丁寧な解説によって、すでに高名なドイツ研究者でした。さらに、ヴァイツゼッカーやヘルムート・シュミット(元首相)の回想録、ラルフ・ジョルダーノ『第二の罪―ドイツ人であることの重荷』など、戦後ドイツ史にかんする貴重な証言や省察を数多く翻訳されるとともに、ご自身も『緑の党』や『現代史ベルリン』など、多くの啓蒙的な著作も公刊されていました。そして198911月のベルリンの壁崩壊とその後東西ドイツ統一にいたる展開が日本でも日々報じられるなかで、当時大学生であった私は、テレビ画面で解説者としてそのお姿を何度も拝見していました。


 そのような先生と同じ学部で、同僚として働くことになり、当初私は興奮とともに少なからぬ緊張を抱いていました。しかし、永井先生は非常に温かく、親身に接してくださいました。おそらく、先生の大学時代の親しい友人が私の大学院時代の恩師の一人(坂井榮八郎先生)であったことも、最初から距離を縮めることができた要因かもしれません。八王子キャンパスでは授業の後、一緒に食事に行くことも多く、そこでは、先生の学生時代からヴァイツゼッカーやヴィリ・ブラント(元首相)らにインタビューした際のオフレコ話にいたるまで、いろいろと聞かせていただきました。また、何度かご自宅にも招いていただきました。永井先生はその謹厳実直な風貌も相まって、たしかに頑固な面や礼儀に厳しい面もありましたが、私にとっては「父親的な同僚」とも言うべき存在でした。

 

 先生との一番の、そして共立時代最後の思い出となったのは、2006年春、先生の定年退職直前にご一緒した、学生を引率してのヨーロッパへの研修旅行でした。ジャーナリストとして若き日の活躍の舞台であったベルリンで、変わりゆく様を脳裏に刻み付けようとするかのように、何度も立ち止まってじっと街並みを眺め続ける姿が今でも思い出されます。もしかしたら、それは同時にベルリンへの惜別の眼差しであったのかもしれません。

 

 この旅行の最後に訪れたのが、ドイツ南西部のフライブルクでした。ここでは、永井先生の長年の友人であるアンドレアス・メッケルさんのご自宅を訪ねました。メッケルさんは、明治時代日本陸軍の近代化に寄与したプロイセンの軍人ヤコプ・メッケルの子孫であり、長編小説『坂の上の雲』にも著者司馬遼太郎と若きメッケルさんの邂逅が描かれています。メッケルさん夫妻はフライブルクで、「躓きの石」(ホロコーストで殺害されたユダヤ人がナチによる強制連行以前に住んでいた家の前の歩道に、彼らの情報を刻んだ真鍮の石を埋め込む市民運動)の活動をされており、訪問の際には短時間ながら、学生たちとともに参加させてもらいました。他にも、アウシュヴィッツの見学では、先生の口利きでユダヤ人たちが収容所で描いた絵画のコレクションを見せていただくなど、永井先生のおかげで研修の視野がぐっと広がりました。


2006327日、フライブルクのメッケルさん宅にて。

メッケル夫妻の間に座る在りし日の永井先生(撮影:西山)


 ご退職後は、キャンパスが神田・一ツ橋に移り、学務も忙しさを増したこともあり、なかなかお目にかかることができず、次第に賀状でのあいさつだけになってしまいました。そして先生が病気と闘われるなか、ドイツの政治も世代交代が進みました。2015年には、先生がインタビューし、また演説や回想録を翻訳したヴァイツゼッカーとシュミットが相次いでこの世を去りました。また、ドイツ統一の立役者であったヘルムート・コールも、先生に1か月ほど先立つ今年6月に亡くなりました。一方、統一直後駆け出しの政治家であったアンゲラ・メルケルは、永井先生の共立最後の年度であった200511月に首相となってから在任期間は12年に及び、今年9月の選挙で4期目も有望視され、もはやドイツのみならず、ヨーロッパを代表する人物になっています。こうしてここ10年の間、「ベルリン共和国」がさまざまな試練のなかで定着し、「ボン共和国」がますます歴史となっていく様を、先生はどのように感じておられたのか、お聞きする機会は永遠に失われてしまいました。

 

 先生が退職時、最後のライフワークだとおっしゃっていたのは、東方外交を推進した西ドイツ首相ブラントの伝記でした。いろいろと書き溜められていたものの、これもまた、病魔によって断念されることになってしまったのは大変残念なことです。しかし、もし「来世」があるとするなら、今ごろブラントへの追加インタビューの準備をされているのではないかと想像します。私としては、「安らかにお休みください」というよりは、むしろお礼とともに、「先生、そちらでも、お元気でご活躍ください」と声をかけさせていただきたいと思います。


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