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更新日:2017年06月15日

【国際学部】リレーエッセイ(8)宇野直人「日本人の原形質」

日本人の原形質

宇野直人


1 一つの潮流

 近年、日本史関連の書籍の出版や、映画・テレビ・コミックの分野での、歴史もの(時代劇)の増加が目立つようです。

 それとともに、さまざまの分野で、復刻・リメイク・リバイバルの企画も目につきます。「江戸ブーム」に至っては、この語が現れてからもう三十年になりますが、三十年も経ったらもはや「ブーム」ではなく、持続的な潮流と言うべきでしょう。

 また、若い女性たちの間では、戦国時代の甲冑(かっちゅう)や、囲碁、神社仏閣、刀剣などへの関心が高まっているとも聞きますが、これらは長続きするのかな?

 いずれにしても、こうした傾向は、昨今の日本人が改めてみずからの心のふるさとを見つめようとしていることの現れと言えそうです。


2 元をたどれば

 なぜそうなったかを考えるには、ちょっと大きな目で歴史を振り返り、二十世紀全体をおおっていた思潮を顧みる必要があります。

 二十世紀は「革命の時代」と言われ、その背後に「歴史は進歩する」「改革こそ善」というような(今では通用しない)考え方がありました。

 その結果、社会・文化のさまざまの面において、従来長い時間をかけて築かれて来た体系が、一様に「旧秩序」という烙印を()され、破壊されてしまいました。

 今となっては、これは決して良い結果を生まなかった、というのが公正な判断でしょう。文化面に限っても、例えば西洋音楽(クラシック音楽)、美術、ともに十九世紀までの完熟した体系が大きく崩壊しましたが、それとともにそれらは鑑賞者の共感、つまり広汎な社会的支持を失い、「同業者」にしか理解されない内向きの活動に変質した感があります。


3 江戸時代にまなざしを

 初めに述べた日本の近年の傾向は、そうした二十世紀的思潮がもたらしたものへの違和感、ならびに、それを補正しようとする精神に発していると言えましょう。そうした場合、目が向くのはやはり歴史であり、伝統であり、古典であるのでしょう。

 その精神を実りのあるものにするには、まずは、今日の日本の基礎を作った江戸時代を見つめることが肝要です。「日本の近代の始まりは明治時代ではなく、江戸時代から」というのは、もはや定説化されつつあります(これについてくわしく述べる暇はありませんが、たとえば今日の私たちがふつうに用いる「細胞」「酸素」「溶解」「珈琲(コーヒー)」などの語は、江戸後期の蘭学者の考案であることを挙げておきましょう)。

 そして、江戸以降の日本人に決定的な影響を与えているものとしてあげなくてはならないのが「儒教」です。「日本は儒教の国ではなく、武士道の国である」という人もいますが、武士道に儒教が流れ込んでいることは申すまでもありません。


4 儒教の役割は絶大——御伽草子から『シン・ゴジラ』まで

 江戸時代初期、幕府は儒教を奨励し、教育を振興しました。その成果は江戸中期以降に現れ、日本全国にさまざまの教育施設――藩士の子弟を主たる対象とする藩校、庶民の子女が通った寺子屋、私塾などーーが多数設けられ、活発な教育・学習が行われました。そこでそのころの日本人の識字率は非常に高かったことは、今日ではよく知られていると思います。

 そして、それらの場で例外なく、『論語』『孝経』など儒教の古典が学ばれていたのです。

 このようにして学ばれた儒教の道徳観、価値観は、学校での授業科目の域を超え、日本人の生活の中に溶け込み、受け継がれてゆきました。「江戸しぐさ」はその一例ですが、それはさらに進んで、当時の娯楽・芸能、つまり読本(よみほん)、芝居、講談、そして御伽草子や影絵芝居など、子供向けの娯楽の内容にまで浸透しました。

 人々はそのような娯楽の中で、儒教によって説かれた「人の道」=思いやり、愛、忍耐、勇気などが織りなすさまざまの悲喜劇に心を寄せ、涙を誘われ、浄化され、糧(かて)を得ていたのです。 

 こうして江戸期の儒教は、次第に日本独自の要素も加えつつ、ほとんど土着化の域に達しました。

 そしてその影響は、明治維新以来百四十年以上を経過した今日にまで及んでいるのです。

 わかりやすいのは少年少女向けの娯楽ですが、特に「NARUTO」「ONE PIECE」など『週刊 少年ジャンプ』の作品に明らかのようです。

また、話題になった『シン・ゴジラ』にしても、話が解決に向かう流れの中に、儒教で重視する「あきらめない心」「主流ではない者たちのグループワークの大切さ」がはっきり投影されていました。


5 結び

 上野の不忍池(しのばずのいけ)の畔(ほとり)には、亀田鵬斎(かめだぼうさい=1778〜1853)の文を刻した石碑が建っています。江ノ島の奥津宮近くには、服部南郭(はっとりなんかく=1683〜1759)と佐羽淡齋(さばたんさい=1772〜1825)の詩碑が並んでいます。

 また、これは私が発見したのですが、新宿の花園神社の境内にある石造の水槽の側面には、大窪詩佛(おおくぼしぶつ=1767〜1837)自筆の銘文が刻せられています。

 私はこうしたモニュメントに遭遇するたびに、ふだん隠れている日本人の原形質に触れたような、不思議な感慨を覚えずにはいられません。



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