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更新日:2017年01月30日

【国際学部】リレー・エッセイ 「ドイツで妻とともに過ごした二年間の留学生活」:西山暁義先生

ドイツで妻とともに過ごした二年間の留学生活  


西山暁義


 私が海外で長期間暮らしたのは二回、合わせて約三年間(1995-1997年、2013-2014年)のことで、滞在先はともにドイツ(とフランス)である。ここでは初回であったドイツ留学の話をすることにしたい。


 この留学は、ドイツ学術交流会(DAAD)の奨学金によるもので、いわば国費留学であった。歴史学科の大学院生であった私にとって、主たる目的は論文のための資料集めであった。もちろんそうした院生は毎年、日本、そして世界から数多くドイツにやってきていたが、おそらく二つの点で、私の留学はやや特殊であったと思う。


 一つ目は、留学先がドイツとフランスの国境の町(ザールブリュッケン)であったことである。これは、両国の関係やその国境地域のことをテーマとしていた私にとって必然的な選択であったが、大学自体は第二次世界大戦後、フランスによって設立された歴史の浅い大学であり、EU法や情報科学などではドイツでも有数の大学として知られる一方で、歴史関係の私の周囲や先輩たちのなかで、この国境の大学に留学した人間は皆無であった(もちろん、歴史研究のレベルが低いという意味では決してない)。


 ただし、私がテーマとする地域(アルザス・ロレーヌ)は現在フランス領であることから、ドイツに渡って半年後、公文書館での史料収集に集中するために、100㎞ほど南に引っ越すことになった。しかしドイツの奨学金であったため、フランス(ストラスブール)に直接住むことは認めてもらえず、ライン川をはさんでドイツ側にある小さな町(ケール・アム・ライン)にアパートを借り、毎日橋を渡って国境を越えていた。わずか一年半のことではあるが、国境を横断した回数では、日本人の中でもかなり上位になるのではないかと思う。もっとも国境とはいっても、シェンゲン協定、マーストリヒト条約を経て国境を越えた移動は頻繁であり、検査を受けることはほとんどなかった。ただし、当時はまだユーロがなかったので、財布のなかにはいつもドイツ・マルクとフランス・フランが混ざっていたが。


 引っ越し後は、大学には月に2,3回、専ら大学院ゼミの時しか行かなくなったが、学期に二回ほど、フランスの大学(メッス大学、現ロレーヌ大学)との合同ゼミがあった。それぞれの国の学生が自分の国の言語で話し、議論をしても意思が疎通するというのは、国境地域ならではの光景で、貴重な体験であった。留学1年目が終わるころ、私も一度そこで報告をする機会があり、ドイツの先生や友人たちのみならず、フランスの専門家、大学院生たちを前にドイツ語で報告し、フランス語の質問にも答えなければならなかった。おそらく今までで一番緊張した時間ではなかったかと思う。これを乗り切ったことが自信となり、苦しい時の支えにもなった。


 二つ目は、大学院生であったにもかかわらず、結婚して妻帯者として渡独したことである。幸運にも、ドイツの奨学金は配偶者手当までわざわざ支給してくれる、ヨーロッパ随一の手厚さであった(ちなみに最初の半年、同じ大学の宿舎に居住していた中国人の研究者は、奥さんに加え子どもも同伴での留学であったが、彼らには子ども手当も支給されていた)。私としても、家に帰れば妻の炊いたご飯(それも妻の実家でとれたコシヒカリ)や味噌汁が待っている生活は、まるで「どこでもドア」のようで、好き嫌いの激しい私には正直ありがたかった。当時単身でヨーロッパに留学していた友人たちは、遊びに来ると口をそろえて「お前のは海外留学ではなく商社マンの海外赴任だ」、「食生活で苦労してはじめて本当の留学だ」、と羨望に満ちた非難の声を挙げた。


 たしかにそうだと思うし、このような「男女分業」は、女性の社会的自立を学是とする本学の教員にあるまじき経歴かもしれない(もちろん、この時点では女子大に就職することになるとは思っていなかったのだが)。実際、妻自身はそれまで縁もゆかりもなかったドイツに同行してきたため、初めのころは私が大学で勉強している間、近くのザール川のほとりのベンチに座り、水の流れをぼーっと眺めていたこともあったらしい。


20138月、留学時に世話をしてくれた大学の友人とその家族たちと、

18年前に妻が水面を眺めていたザール川沿いの公園にて

 

 だが、転機はほどなく訪れた。心配した大学の友人たちが、妻が剣道四段であることを聞き、町の道場を探してくれたのである。二人して訪れてみると、教えているのは初段のドイツ人で、妻は初日から先生になった。その道場の紹介で、引っ越してからも、フランスの道場で五段のフランス人とともに教えつつ、アルザス・ストラスブールのチームのメンバーとして、フランス全国剣道選手権にも出場した。そのおかげで、私はヨーロッパで剣道という、高校時代嫌々ながら授業で稽古した日本の武道のことをはじめて詳しく知り、それに対するフランス人やドイツ人の情熱にも接することができた。大学の研究者たちに偏っていた私の交友関係は、それによってずいぶん広がった。


19977月、イタリア・トスカナ地方のサン・ジミニャーノのぶどう栽培農家の

民宿にドイツ人の剣道友達夫婦と滞在、慣れない手つきで料理をする筆者

 

 二年余りの留学生活を終え、いざ日本に帰国することになった際、友人たちとの別離を悲しんでいたのは、私よりもむしろ妻の方であった。ちなみに、私たちが当時地元アルザスの新聞で紹介された唯一の記事は、妻が五段の昇段審査に合格したことを伝えるもので、私の研究についてではなかった。


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