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更新日:2022年08月09日

研究紹介

【短大・文科】菅野扶美名誉教授が、NHKーBS『英雄たちの選択』に出演しました

 本学の名誉教授・菅野(すがの)扶美(ふみ)先生は、2019年度まで文科 日本文学・表現コースで教鞭をとられていました。ご専門は中世歌謡の研究で、文科では「古典文学を読むⅠ・Ⅱ」「古典文学の研究Ⅰ・Ⅱ」等をご担当されました。

 今回、NHKーBS『英雄たちの選択―「“日本第一の大天狗” 後白河法皇」』へのご出演を機に、後白河法皇や中世歌謡のおもしろさについてお話いただきました。

 番組HP:https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/PK198GRKY7/



  

 菅野先生がご出演されたNHKーBS『英雄たちの選択―「“日本第一の大天狗” 後白河法皇」』、拝見しました。まずは本学の研究室を撮影場所にご指定いただき、大変光栄です。

 今回話題となった「英雄」・後白河法皇(後白河院)は、皇位についた直後の保元の乱、院となってすぐの平治の乱で平家を重用し、その後、平清盛(たいらのきよもり)の義妹と結婚、お互いの子(高倉天皇と(けん)礼門院(れいもんいん)徳子)を結婚させるなど、平家とは大変親密な仲となりました。いま「古典文学の研究Ⅰ」(日本文学・表現コース2年生選択必修科目)で『平家物語』を読んでいるのですが、物語中の後白河院は、権勢の増してゆく平家が不満で、木曽(きそ)(よし)(なか)源頼朝(みなもとのよりとも)義経(よしつね)らを利用して平家を滅亡へと導いてゆきます。一見すると「策略家」で、まさに「大天狗」と呼ぶにふさわしい人物のように見えるのですが、番組ではけっこう…「いきあたりばったりの人」、「木を見て森を見ずの人」なんて、ボロボロに言われていたのが意外でした。


―菅野(敬称略) いやもう、そのとおり「いきあたりばったり」の人です(笑)。こんな人を天皇に戴いた当時の貴族たちも大変だったでしょうね。

 ただ、一方で後白河院も大変だったと思います。というのも、この時代、もともと配下として使うだけだった武家(源氏や平氏)の勢力が、乱での活躍をきっかけに自分たち貴族と対等になったでしょう。それをどう(ぎょ)してゆくかという課題は、それまでの為政者たちにとっては経験のないことだったんですよね。


 番組メインキャスターの磯田氏も、後白河院でなければあの局面は乗り切れなかったのではないかとまとめていらっしゃいました。


―菅野 うん、そうかもしれない。確固たる信念とかぶれない軸の持ち主だったら折れてる。その場しのぎだけでなんとか(まっと)うした、本人的には。周りは大迷惑ですよ。あの時代は大飢饉もあって、戦争もすごくしたでしょ。戦争が始まれば男たちはみんな兵隊に取られていくから、当然、経済もストップしちゃう。

 番組でも紹介されていたように、後白河院は最勝光院(さいしょうこういん)とか三十三間堂とか、自分の御所(ごしょ)内にはいろんな宗教施設を作るんだけど、曾祖父(そうそふ)・白河院や父・鳥羽院のように、御所外にさまざまな宗教施設を林立させることはなかった。たぶん、お金の問題が大きかったんだと思う。

 そうはいっても院は当時最高権力者だから、莫大な荘園も持っていて、そのめぼしいものは自分の建てた「長講堂」っていうお堂の荘園にして、末娘の(せん)陽門院(ようもんいん)に相続させるんだよね。そしてそれが、北朝の天皇家の経済的基盤になってゆくの。そういう意味において、後白河院は鎌倉・南北朝期にかけて天皇家にとってだいじなご先祖様になってゆくんですよ。


 それは大きな功績ですね。ぜんぜん「いきあたりばったり」には見えません(笑)。

 番組でも触れられていましたが、後白河院は幼い頃から母の影響で今様(いまよう)に親しみ、それを謡う(傀儡(くぐつ)(遊女)から直接指導を受けていたそうですね。それだけでなく、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様の歌詞や()、歌謡の歴史などを記した全二十巻の、世にも珍しい歌謡集を編纂しています。


―菅野 はい。今様は、平安中期の『紫式部日記』や『枕草子』にも言及されていますが、当時はそこまで高くは評価されていません。『紫式部日記』では、「読経(どきょう)今様(いまよう)など」というふうに、「読経」と併記された歌謡でした。


 今様は、現代ではほとんど耳にすることがありませんが、どのようなものとして捉えればよいでしょうか。


―菅野 和歌は五七五七七の三十一文字だけど、今様は七五を四回くりかえして一曲になる歌謡。五で始まる和歌と違って七・五タイプは七で前に進み、また上昇し、五で呼吸を整えるというリズムで、この時代に新たに生まれたものです。「今様」とは「現代風(モダン)」ってことで、すごく新鮮だった、その印象がずっと続いたことになるね。

 今様は、芸能民たち、具体的には遊女たちが本来管理していたものです。だから庶民の仕事から生まれた民謡じゃないんですよね。貴族たちの歌でもないし、お坊さんたちの歌でもない。プロの歌い手(芸能民)の歌う芸謡。それが社会のあらゆる階層に広がっていったわけ。


 さきほどのお話に、『紫式部日記』で今様は読経と併記されているとありましたが、つまり「読経」はお坊さんたちのするもの、「今様」は遊女がするもので、まったく別物ということですね。



―菅野 いやいや。お経って全部漢文で意味はわからないんだけど、何人ものお坊さんの声が重なって唱えられると、音階は単調なのに声のゆれやふるえを伴なった旋律が美しい。それと今様が並べられてるってことはやっぱり今様も、メロディアスで、音の連続がきれいだってことになる。流行歌なんだけど、声を聞かせるっていうところにおもしろさがあったんじゃないかな。今様のなかにも、たとえば釈迦(しゃか)如来(にょらい)、つまり釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)を「せいきょーぼーぢーぶー」って、わざわざお経言葉、つまり梵語(ぼんご)で発音するのが残ってたりするんだけど、梵語って異国の言葉でしょう。


 


 「山寺(やまでら)(おこ)なう(ひじり)こそ あはれに(とうと)きものはあれ 行道引声(ぎょうどういんじょう)阿弥陀(あみだ)(きょう) (あかつき)(せん)(ぽう)(せい)(きゃう)(ぼう)()()」(『梁塵秘抄』巻二・僧歌)ですね。

〔*大意:山寺で修行する高徳の僧は しみじみと感動するほどに貴いお方だよ 夜の行道(読経しながら仏像等の周りを廻り歩く仏教儀式)では声に高低・緩急をつけた『阿弥陀経』を唱えているのがすばらしいし、明け方の法華懴法(『法華経』を読んで懺悔し滅罪を願う仏教行事)で最後に「釈迦牟尼仏」と読んでいるのもすごくいい〕


―菅野 そう。だから今様って、歌詞は漢語でも梵語でも和歌で使う美文(びぶん)でも庶民の話しことばでもOKで、それを典雅(てんが)な女性の声で歌いあげる歌謡だったんじゃないかな。


 現存する『梁塵秘抄』には、仏歌も多く残っていますね。


―菅野 「遊びをせんとやうまれけん…」が教科書にも採られていて有名だけど、じつはああいう歌よりも、「千手の誓いは頼もしき(あらゆる人間を救ってくれるという千手観音の誓いは頼もしい)」みたいな、仏教性の強い歌が当時は普通に受け入れられていたんだと思います。後白河院は、今様の上手な遊女からそれらを直接教わるんだけど、「どこそこの遊女は口調がちょっとちがう」とか、「今風なのは品がない」とか書いていて、とくに「美濃(みの)(あお)(はか)(現在の岐阜県大垣市青墓町)」っていうところの傀儡()(遊女)の集団の歌を正統だって認定していて、その曲調に自分の歌を全部、習いなおすんだよね。


 まさに、遊女こそが今様を管理していたということですね。「遊女」というと一般には春をひさぐイメージが強いように思うのですが、ちょっと違いますね。


―菅野 遊女には長い歴史があるけれど、平安時代には「歌える遊女」が流行ったんです。『更科(さらしな)日記(にっき)』にも、足柄山に3人の美しい遊女が登場する場面があるじゃない。作者の菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ)は遊女たちの歌を聞いて、「空にすみのぼりてめでたく歌をうたふ」って書いていますよね。それで、遊女たちに「すばらしい声ですね」っていうと、「いえいえ、難波(なにわ)のあたりの遊女さんにはかないませんよ」って謙遜も今様にして歌い返される。つまり、今様っていうのは、土地々々の遊女が集団で管理していて、彼女たちを介して、貴族にも庶民にも伝わっていったんだと思う。


 なるほど。今様という文化のありようが少し見えてきたように思います。今様の流行はおよそ200年間とされていますが、後白河院がその文化の基盤を作ったと考えてよいでしょうか。


―菅野 どちらかというと、基盤を成したのは曾祖父・白河院時代。父・鳥羽院時代が一番隆盛して、後白河院の時代は固定期。座ってじっくり喉を聞かせるという歌い方が少し時代に合わなくなって、歌いつつ舞う白拍子という芸(とそれを演じる遊女)が出てくる時代です。


 先日『鎌倉殿の13人』にも登場していた(しずか)御前(ごぜん)が「白拍子」でした。


―菅野 白拍子って「(おとこ)(まい)」と言われていて、烏帽子(えぼし)水干(すいかん)、刀を携えた格好で今様を(うた)って舞うのね。『徒然草』には、最初に白拍子を舞ったのは静御前とその母親だって書かれているんですよ。


 なぜ、その時代に白拍子による「歌って舞う」今様が流行しだしたのでしょうか。


―菅野 うーん。それは世の中にあわせて出てきたんだって、よく言われています。

  武士の台頭によって、世の中が、動きを欲するようになったんでしょうね。戦があったりして、その前の穏やかな緩やかな時間が流れていた時代から、時間が早くなり、動きが激しくなる時代に移り変わっていった。そういうスピード感のある時代には、ただ座って声だけをじっくり聞かせる芸っていうのが飽きられてくる。もう少し動きが欲しい。そもそも白拍子の「拍子」には「音を刻む」という意味があって、そこにはやはり「動き」があるでしょう。動きが求められてくる時代に敏感に反応したのが遊女たちで、彼女らが新しく芸能を作り替えていったんですね。


 つまり今様の流行には、武士の台頭と、白拍子という遊女、そのパトロンとなって今様を育ててゆく天皇や院、貴族たちが必要不可欠だったということですね。後白河院は自身もパトロンになり、今様を育てつつ、各地で歌われるそれらを、宮中の儀礼の中に閉じ込めていき、同時に、『梁塵秘抄』という書物の形で保存していった。


―菅野 天皇とか院という存在は、文化を考える上でとてもおもしろい存在ですよね。そもそも遊女たち芸能民は被差別民であり、身分制度というルールに縛られることがない。だから、身分的にはとても低いんだけど、天皇や院のような、至上の存在とも直接かかわることができる。白拍子はじめ芸能民は「推参(すいざん)」といって、自らの芸能を披露するために、呼ばれもしないのに客の邸宅に出かけていくことができたんですよね。

 そうした貴族制度のトップにいる天皇や院-つまり天皇制って、そうやって外側からやってくる文化を吸収したり吐き出したりできる機関なんだろうね。だから政治的にも経済的にも弱体化するのに、なくならないんだろうな。彼らは自分からなにか生み出すってわけじゃないんだけど、何かを取り込んで咀嚼して、戻す。そうやって新しい文化を花開かせてゆく機関なんでしょうね。


 「いきあたりばったり」の後白河院の人物像の話から、天皇制と文化の関係というところまで話が発展してきました。院政期、その前後の歌文化について、大変興味深いお話をありがとうございます。文化を考えることは人を考えること、社会を考えることでもあるということを、改めて実感しました。

  2023年度から、「日本文学・表現コース」は「日本文化・表現コース」に名称変更し、これまで以上にさまざまな時代の日本文化や文学、また言語表現を学生に開いてゆくわけですが、さいごに菅野先生からも、これからの「日文コース生」に一言いただけますでしょうか。



―菅野 日本に住んで日本語を話していても、案外日本のことは知らないことが多い。

 何にせよ自分を知り、理解することが大事で必要だと気づき始めている皆さん。

 日本文化のさまざまを知り、そして自分のルーツ(根っこ)を理解することが、これからのあなたを育てます。

 日文コースにはその用意があります。学ぶ楽しさ、気づきの貴重な機会をここでたくさん得られますように。



共立女子短期大学 文科:https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/junior_college/bunka/