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更新日:2018年11月06日

【国際学部】リレー・エッセイ2018(18)西村史子「女子たちが発奮し、創って儲けて、発展した共立@神保町」

女子たちが発奮し、創って儲けて、発展した共立@神保町

西村史子

 1886(明治19)年、東京・本郷に、ある私立学校の設立が認可された。共立女子職業学校と名付けられたこの学校は、やがて神田一ツ橋に移転、共立女子学園へと成長してゆく。「職業学校」には、厳密な定義があるわけではないが、一般的には工員や職員になるための実用的な技能や知識を授ける学校を指す。共立女子職業学校の入学資格は、尋常小学校卒業あるいは15歳以上であった。つまり現在でいえば小・中学校を終えた程度の女子に、裁縫をはじめ職業訓練を施し、手に職をつけて収入を得られるよう育成することを使命とした学校であることが、校名に現れているといってよいだろう。

 しかし、共立女子職業学校には、一般的な職業教育の学校の枠に収まりきらない特色が、創設当時からあった。普通の学校とは、なぜ、どのように違っていたのか。この学校の創設に浅からぬ「因縁」をもつ二人の文部省の人物 森有礼(もりありのり)と手島精一 を手がかりに振り返ってみたい。

 

 共立女子職業学校の創設に関わった発起人は29名、うち18名が女性である。そこには東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の教職員や卒業生たちが名を連ねていた。さらに外部の有力支援者5名が加わり、設置申請がなされている。前年の1885(明治18)年は、日本で内閣制度がスタートした年である。伊藤博文を首班とする初めての内閣が発足し、初代文部大臣に森有礼(1847-1889)が就任し、諸学校令が制定され、近代日本の教育制度の骨格が固まっていく時期であった。

 さて、共立女子職業学校は女性の自立を創設理念に掲げ、教育プログラムは裁縫技能の習得を主としつつも、それにはとどまらなかった。当時の中等職業学校である徒弟学校・実業学校(甲・乙種)に相当する課程に加え、その上に師範科(高等女学校教員の養成課程)も設置されていく。単なる「職業学校」を超え、女性の幅広いニーズに応えようとする志向を当初からもっていたのである。こうした、教職課程というAP(Advanced Placement 上位教育機関の教科・科目の設置)プログラムまで備えた教育体制の策定には、当然創設メンバーである東京女子師範学校の教員たちの教育制度の将来的な見通しとアンビバレントな心情の交錯が、色濃く反映していると見てよいだろう。

 ではいったい、官立の教員養成に携わり、いわば当時国内最高レベルのエリート教師である彼女ら・彼らが、なぜ「共立」という新たな私立学校の運営を志したのだろうか? それは、一言でいえば森有礼への反発からである。

 森は英・米への留学を経て外交官として活躍、伊藤博文に見込まれて帰国後に文部省御用掛を経て、内閣発足とともに文部大臣に抜擢された。英語を公用語にしようと考えたほど英語教育に熱心で、実際森が文教行政に関わった時期には、小学校から大学まであらゆる種類の学校に英語の授業が導入された。

 また一方で、自らの主導する教育のあり方を実現させるため、既存組織の改変にも辣腕を振るった。人々が長年努力を重ねて築いてきた学校であっても、森の進める強力な改革の例外にはならなかった。1874(明治7)年創設の東京女子師範学校も、その一つである。日本最初の官立女子師範学校であり、女子教育のいわば頂点にあった同校は、1885(明治18)年にあっけなく東京師範学校に吸収統合され、その「女子部」となる(この状況は、5年後に「女子高等師範学校」として再び独立するまで続く。森暗殺の翌年)。「女子部」格下げに伴って、教員の一部は降格を強いられたり、東京高等女学校(お茶の水女子大学附属中学校・高等学校の前身)への転属を迫られたりした。森文相に煮え湯を飲ませられたこうした教員たちが、在野での新たな教育を志して共立女子職業学校に集い、その後の学校運営の中核を担うことになったのである。「女子職業学校」に不釣り合いな「英語」が学科科目として創設当初から置かれ(第1学年必修、第2,3学年選択 1893年に廃止)、後に教職課程が付設されたことには、官立の師範学校への対抗意識を見て取ることもできよう。言い換えれば、もし森がこの時に師範学校を強引に統合しなければ、現在の共立女子学園は無かったかもしれないし、あったとしても現在とは随分違った学校になっていたかもしれないのである。

 

 さて、大正期の女子教育普及の中で他の女子学校が専門学校へと昇格してゆくのを横目で睨みつつ、共立女子職業学校もやや遅れて1925(大正14)年に「専門学部」という課程を開設し、3年後にはそれを「共立女子専門学校」として独立させた。さらに、1936(昭和11)年には共立女子高等女学校(共立女子高等学校の前身)を新設した。また、全国全ての女性を対象とする通信教育を開設して、社会教育へと手を広げた。いわば総合制ハイスクールへと事業を拡大してゆくのに大きな役割を果たした人物が、ここで注目するもう一人のキーパーソン、文部官僚・手島精一(1850-1918)である。

 手島は米国・欧州視察を通じて近代的な技術者養成の重要性を痛感、1881(明治14)年の官立東京職工学校(東京工業大学の前身)の創設を主導した。1890(明治23)年、自らその校長に就任すると、1897-98年に本省へ復帰した以外は、実に通算24年間にわたってその職にあった。この間、東京工業学校、さらには(東京)高等工業学校へと改称を経て、短い期間のうちに高等教育機関へと育てていった。手島は、さらに付属機関として講習所を開設、学外一般にも技能教育の場を提供するなどして、近代日本の中等教育における技術者養成政策に大きな影響力を持つこととなった。一方で手島は、共立女子職業学校の創設発起人の一人であり、第2・4代校長を務めている(在職1891-1897、1903-1916年)。日本の技能教育の振興に力を振るい、同時期に方や官立の男子校、方や私立の女子校の運営を担い、しかも両校を高等教育機関へとブーストアップする道筋をつけたことは驚嘆に値しよう。

 共立女子職業学校で手島が行ったユニークな仕掛けの一つは、生徒の作品を外部に売り出す、というものである。シカゴ万博(1893)など国内外の博覧会に在学生の作品を出品、紹介冊子(参考文献)でも学校の指導力・教育力の高さをアピールした。反応は上々で、様々な賞を受け外国企業からも注文を受けるほどになった。また、生徒が製作した手芸・工芸品を学校バザーで販売させ、その収益を学校が生徒名義で貯金し、卒業時に手渡すという仕組みを導入した。「技術の習得によって収入が得られる=自立の実感」を狙ってのことだという。また、三越呉服店(三越伊勢丹の前身)への委託販売も行った。その技術や作品は当時の日本のトップモードと呼べるもので、学校は皇室の求めに応じて献上もしている。国際的に活躍でき上流階級相手に仕事をする職業婦人の輩出。華やかで洗練された雰囲気の一端は、その頃に学校が記念行事の際などに作成していた絵葉書などからも伝わってくるだろう。すべてエンボス加工が施されている。

 

 学校で学んだ知識や技術を用い、最先端で最高のものを創って認められ、在学中から収入を得、経済的・社会的自立を目指す。そんな女性を育てる。あらためて本学の教育理念をしかと受け止めたい。21世紀に入り、日本では高収入の女性が高収入の配偶者に恵まれる傾向にあるという。「良妻賢母」の良は、今や稼得力を加味しての評定らしい。学生には、伝統を引継ぎ活躍してほしい。


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(参考文献)

『共立女子学園百年史』 ぎょうせい 1986年

『共立女子学園百三十年史』 ぎょうせい 2016年

三好信浩『手島精一と日本工業教育発展史』 風間書房 1999年

橘木俊詔・迫田さやか『夫婦格差社会—二極化する結婚のかたち』 中央公論新社 2013年

The Japanese Woman’s Commission, “JAPANESE WOMEN,” A.C. McClug &Company, Chicago, 1893

https://archive.org/details/cu31924023437647/page/n9