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更新日:2022年07月12日

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【国際学部】リレーエッセイ(7) 西山暁義 「八王子・高尾~神田・一ツ橋~津山 国際学部のトポグラフィー(2)」

八王子・高尾~神田・一ツ橋~津山 国際学部のトポグラフィー(2)


西山暁義


【国際学部】リレーエッセイ(6) 西山暁義 「八王子・高尾~神田・一ツ橋~津山 国際学部のトポグラフィー(1)」

https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/undergraduate/kokusai/news/detail.html?id=3544の続きの記事になります。


2.国際学の源流を辿って:箕作阮甫と津山、洋学資料館
 蕃書調所の活動については、上田先生がミニ講義のなかで紹介していたように、オランダ領インドネシアの総督府の新聞を翻訳するなどして、対応する日本語のボキャブラリーの創出や世界の時事を伝える作業が行われていました。



『バタヒア新聞』第1巻、1862年:国⽴国会図書館デジタルコレクション
https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/R/075/075-002r.html
(上田先生ミニ講義資料より)


 この蕃書調所で「首席教授」として教鞭を取っていたのが、洋学者である箕作阮甫(1799~1863年)でした。彼は、1853年、ペリーが来航した際に携えていたアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を日本語に訳した人物としてよく言及されます。しかし、それだけではありません。箕作阮甫と箕作家は日本の近代学知を語るうえで欠かせない存在といえます。阮甫の婿養子、箕作秋坪(1826~1886年)も蕃書調所に勤務し、孫には数学者の菊池大麓(1855~1917年)、その弟には日本の西洋史研究の第一世代でもある箕作元八(1862~1919年)がいます。余談ですが、箕作元八の写真は、私が学んだ学科の学科長室に、他の歴代学科長の写真とともに並んでいます。学生が滅多に入ることのない部屋で、大学院試験の口頭試問ではじめて入室したときには、居並ぶ試験官の先生だけではなく、これらの写真にも睨まれているようで緊張がさらに増した記憶があります。しかし、あとでよく見ると、箕作元八だけは正面を見ておらず、本を読んでいる肖像画を撮影したものでした。


 この箕作家の血縁をたどると、菊池大麓の娘婿が法学者の鳩山秀夫(1884~1946年)であり、兄一郎の配偶者が鳩山薫(1888~1982年)ということで、間接的には共立女子学園の歴史にもつながっています。

 箕作阮甫の故郷は美作(岡山県)の城下町、津山であり、彼はそこで藩医を務めていました。彼が郷土の偉人とみなされていることは、駅前広場に彼の銅像が立っていることからも分かります。ちなみに銅像の向かい側には、もう一人の郷土の偉人、稲葉浩志さんのB’zの大きなポスターがあります。



津山駅前、箕作阮甫像(上)とその向かい側にあるB’zの巨大ポスター(下)。筆者撮影



 (私が津山を初めて訪れたのは、「乗り鉄」だった高校1年生の時、37年前のことでした。その時は、写真に映る、阮甫像の背後に静態展示されている蒸気機関車C11はありませんでしたが、津山駅そばのディーゼル機関車車庫と輪転台(現在、「津山鉄道まなび館」)を見て興奮していた記憶があります。また、当時愛読していた横溝正史の推理小説の舞台を列車の車窓などから見える風景から空想したりしていました。しかし、箕作阮甫という人物の名は知る由もありませんでした。)

 私が津山を訪れたのは2020年3月初め、コロナ禍が本格化する直前のことでしたが、それは当地にある洋学資料館を見学するためでした。洋学資料館は、桜の名所でもある津山城の東側、出雲往来に面した箕作阮甫旧宅の奥にあります。資料館周辺の街区は、当時の趣を残した景観となっており、観光名所にもなっています。箕作阮甫旧宅には、写真左の木製の看板にあるように「日本初の大学教授」という記載もあり、勝手ながら親近感をもってしまいました。

「日本初の大学教授」、すなわち大大大先輩の質素だが趣ある旧宅(訪問当時は中でひな人形が飾られていました)。筆者撮影



 津山洋学資料館は1978年(昭和53年)に別の場所に開館しましたが、現在の建物は2010年(平成22年)に現在の地に移転した際に新設されたものです。街並みに溶け込んだ、開放的で圧迫感のない、落ち着いた瀟洒な建物は、女性の建築家の設計によるものとのこと。このことも勝手な連想ですが、来年度建築デザイン学部が設立される共立との縁を感じます。



上:津山洋学資料館へのアプローチ、資料館は右奥、下:アプローチ左側にある案内板。筆者撮影



 常設展示には、江戸時代から明治時代にかけて、近代科学や学問がどのように発展したのか、そしてそこにおいて、箕作阮甫に代表される津山の洋学がどのような役割を果たしたのかが、展示品とともに詳しく説明されています。幕府や新政府があり、のちに共立の敷地となるなる江戸・東京の神田・一ツ橋の地において、蕃書調所や開成学校、大学南校、東京大学、東京外国語学校という日本の近代化を主導する研究・教育機関が置かれ、それが機能するうえでは、津山を代表とする各地の蘭学や洋学の基盤が不可欠であったことをあらためて考えさせられました。


             


左上:常設展示の入り口。江戸時代の蘭学を中心に、洋学の草創期の展示から始まります。
右上:展示室3「日本の近代化と津山の洋学」
下:同展示室の年表パネルと展示品ガラスケース
筆者撮影



 また、新型コロナ感染症が広がり始めた時期に訪問したこともあり、近代医学についての展示もたいへん興味深いものでした。この点でも、もともと蘭方医であった箕作阮甫は東京大学医学部の前身といわれるお玉ヶ池種痘所の設立に積極的に関わっており、また当時行われていた特別展示『資料が秘めた物語 Ⅱ』では、当時未知の病であったコレラに外国語の医学書の翻訳によって立ち向かおうとした医師たちの軌跡が展示されていました。

 なお、直前の特別展示では『英学事始』というテーマで、蘭学から英学へと移り行く際に使われた教材などが展示されていたそうで、現在の国際学部の英語授業のものと比較してみると面白そうだな、と思いました。そういえば、昨年から今年にかけて放映された、同じ岡山県が舞台だったNHKの連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』でも、戦前の英和辞典やラジオ講座のテキストが重要な小道具として登場していましたね(ちなみに、同番組で2代目の主人公、るいの夫役を演じたオダギリジョーさんも津山出身です)。




上:常設展示のお玉ヶ池種痘所の説明パネル
下:特別展示「資料が秘めた物語 Ⅱ」における「コレラに挑む~突如猛威を振るった未知の病に翻訳で挑んだ医師たち」のコーナー
筆者撮影



 さらに、博物館の施設そのものについても、天井の装飾画や常設展示室出入口などの演出が、見学を楽しませてくれました。


            

上、左下:屋外スペースや天井の装飾画
右下:常設展示出口の装飾
筆者撮影



 もちろん、国際学の源流は1つだけではなく、女子教育という点では本学を含めた明治以降の流れがあります。また、現在の国際学は当時の洋学のように一方的に西洋を模範とするものではありえません。しかし、異文化とどのように向き合い、それと格闘し、そこで産み出された知をいかに教育を通して社会に還元してきたのか、ということを歴史的に考え、そこから将来を展望するとき、津山の事例は大変興味深いものであることは間違いありません。

 2020年3月に訪問した際には、資料館の学芸員である田中美穂さんに展示の案内や説明など、大変お世話になりました。改めて心より御礼申し上げます。資料館を辞去する際に、「今度は学生を引率して研修にきたいと思います」と申し上げてから2年以上が経ってしまいましたが、コロナをめぐる状況がさらに落ち着けば、ぜひ実現したいと考えています。

津山洋学資料館HP  http://www.tsuyama-yougaku.jp/