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更新日:2019年06月17日

【国際学部】リレー・エッセイ2019(6)鰐淵秀一「アメリカでもう一つの国境を越えた時の話」

アメリカでもう一つの国境を越えた時の話

鰐淵秀一


 アメリカの国境と言われて、多くの人が思い浮かべるのは南のメキシコとの国境ではないだろうか。村上春樹の小説のタイトルにもなっているナット・キング・コールの1939年のヒット曲「国境の南」からトランプ大統領の壁建設をめぐる発言や議会との確執まで、アメリカ・メキシコ国境は常に注目を集めてきた。国境を舞台にした小説やドラマ、ハリウッド映画も数多く製作されている(すぐに思いつくのは映画の『バベル』(2006年)あたりだろうか)。それに対して、報道でも作品でもあまり注目されることがないのがアメリカのもう一つの国境、カナダとの北の国境線である。


 留学中に一度、家族で国境を越えてカナダへ行ったことがある。留学先であったボストンから車をドライブして北上し、カナダ東部の大都市モントリオールと古都ケベック・シティを訪ねた。ボストンのあるマサチューセッツから、ニューハンプシャー、ヴァモントといったニューイングランド北部の州を通り抜け、ヴァモント、ニューヨーク、カナダのケベックという二つの国と三つの州にまたがるシャンプレーン湖沿いのルートからカナダ入りするのである。


地図中央を横切る黒線がアメリカ・カナダ国境線



 行きは素晴らしいドライブだった。夏のニューイングランド北部の景観は非常に美しく、メイプル(カエデ)のような広葉樹がハイウェイの両脇に群生し、木々の緑が陽光に照らされて輝いていた。途中、お昼休憩に立ち寄ったヴァモントの州都バーリントンはシャンプレーン湖を望むこじんまりとした都市で、その落ち着いた雰囲気と湖畔の食堂のおいしい料理が印象的だった。(ちなみにヴァモント州は2016年と今度の大統領選挙で注目されているバーニー・サンダースのお膝元である。)


バーリントンを出発するとしだいに周りの風景も変化し始め、広々とした牧草地がひらけて、農家やカントリーエレベーターがぽつぽつと現れる。カナダが近づいてきた。国境に到着すると、いよいよ陸路でカナダに入国するため、高速道路の料金所のような入国審査のゲートを通過する。大したことも聞かれず、パスポートをチェックすると“Welcome to Canada!”と言われ、入国が許可された。アメリカからカナダへ入国するのはとても簡単だった。


国境付近の農家のカントリー・エレベーター


 目的地のモントリオール、ケベック・シティでは、言うまでもなく楽しんだ。モントリオールやケベック・シティの街並みは心なしかニューイングランドのそれよりもシックで、落ち着いた雰囲気であった。旧フランス領であるこの地域では現在でもフランス語と英語の両方が公用語として用いられ、カーステレオのラジオを回すとフランス語放送が流れたのが印象的であった。また、モントリオールのホテルで従業員が英語とフランス語の両方を流暢に喋っているのを見た時は、カナダの二言語主義の日常を目の当たりにした気がした。何より、フレンチ・カナダは食べるものが全ておいしかった。ケベック・シティの旧市街のカフェでガレットを食べながら、同じアメリカなのにどうしてこう違うものかと考えこんでしまった。


ケベック・シティの旧市街の街並み


英仏二言語表記とフランス語の標識


 と、ここまでは良かった。問題は帰りだった。フレンチ・カナダを満喫して帰路に着き、再びアメリカ・カナダ国境にやってきた。帰りも行きと同じようにスムーズに行けると思い込んでいたのが大間違いだった。アメリカからカナダに入国することとカナダからアメリカに入国することは、全く別の体験であった。アメリカ側の入国審査のゲートに着き、車の窓からパスポートとビザの書類を審査官に渡すと、怪訝な顔の入国審査官に「ちょっと事務所まで来てもらえるか」と駐車場と事務所の建物を指さされる。国境破りをするわけにもいかないので、指示に従って車を停めて事務所の中に入った。


 不安な気持ちで呼ばれるのを待っている間、まあでも確かにこちらの見せた書類も一風変わっているので仕方ないが、しっかり説明すれば問題無いだろう、と考えていた。というのも、その時は家族3人全員が全く違う見た目のパスポートを持っていて、自分は赤色で、妻は緑色(気になる人は調べてみてください)、ボストンで生まれた小さい息子に至ってはアメリカのパスポートである。訝しがられるのも仕方ない。


 と、覚悟はしていたものの、実際呼び出された際のやりとりは想像よりもずっと厳しかった。まず、カウンター越しには三人の入国審査官が待ち構えていて、いずれも180センチ以上ある強面の屈強そうな男性である。真ん中のスキンヘッドの審査官からいろいろな質問を受ける。書類の内容について、留学先について、カナダに行った理由等、明らかに質問というより詰問という調子で詳しく聞かれる。さらに、当時自分はフルブライト奨学生というアメリカの国務省と日本政府のジョイント・プログラムのステータスで留学していたため、ビザ書類(正確にはDS-2019)のスポンサーは通常の留学先の大学ではなく、米国務省(US Department of State)と記載されていた。この記載がアメリカ・カナダ国境の審査官には見たことの無いものであったらしく、問題視されてかなり突っ込まれた。自分史上、最も厳しい入国審査の一つであった。


 (記憶では)15分くらいの尋問を終えて、再び待たされていると、今度は白髪の優しそうな初老の男性がやって来た。「アンケートに答えてもらってもいいかな」と言うので応じると、「何か食べ物とか植物、酒とかタバコとかは持ち込んでいないかな」と聞いてくる。それはアンケートじゃなくて、入国審査の続きじゃないか!と心の中で突っ込むが、もちろん何も持っていませんよ、と落ち着いて答える。その後、ようやくアメリカへの入国を許可されたが、都合1時間以上は事務所にとどめ置かれたのではないかと思う。アジア人だからこんな目にあったのか、などとネガティブなことを考えつつも、とりあえずアメリカ側に戻れたことに安堵して帰路を急いだ。


 これは後に知り合いに聞いたことだが、一般的にアメリカでは空路よりも陸路での入国の方が厳しい審査が行われる。不法移民や麻薬の密輸など、空港のゲートでしっかりコントロールされている空路に比べて、陸路はこうした違法行為が横行しやすいという実態があるためだ。アメリカ・メキシコ国境は審査が非常に厳しいという話はしばしば耳にする機会があったが、アメリカ・カナダ国境も同じだということは全く想像もしていなかった。自分にとって生まれて初めての陸路でのアメリカへの入国だったのだが、それは慣れた空路での入国とは異なる体験だった。


 この旅行をしたのはトランプ政権が誕生する以前のことだった。日本人である自分が空路でアメリカに短期で入国する分には実感としてはあまり感じられないが、2017年以降、就労ビザ発給の審査は二転三転しつつも総じてオバマ政権期よりも厳格化され、昨年にはビザ申請者へのSNSアカウントの提出も義務づけられた。こうした管理強化は長期的な傾向で、特に2001年の9.11テロ以降、アメリカはボーダー・コントロール(国境管理)に非常に敏感になっていると言って良いだろう。


 そもそも、歴史的に見ると国境というものは地図上に示されているほど明確なものではなく、実際にはその境界は曖昧でその周辺地域(ボーダーランド)では人々は比較的自由に往来し、文化的には断絶よりもむしろ連続性の方が見てとれる。アメリカ・カナダ国境でも、ヴァモント州やニューヨーク州のアメリカ人がちょっとカナダまで足を伸ばしてショッピングや食事に行くのは日常茶飯事だそうである。(そういえば、ニューヨーク州北部ロチェスターという都市出身の友人が応援する野球チームは、カナダ・トロントに本拠地を置くブルージェイズであった。)同様に、南のアメリカ・メキシコ国境でも長い間自由な往来が可能で、多くのメキシコ人労働者が国境を越えて往復していたという。現在不法移民が大きな問題となっているが、移民取り締まりの国境管理が厳格化したのは1990年代に入ってからだと指摘されている。


 自分がアメリカ・カナダ国境で体験したことが、1990年代以降、あるいは9.11後のアメリカにおける国境管理の厳重化の流れの中に位置づけられる出来事なのか、にわかには判断できない。しかし、この時の経験は、本来は曖昧で、恣意的に引かれたものである国境線を厳しくコントロールしようとするアメリカ合衆国という国家の存在を自分にまざまざと感じさせた出来事であった。前回のリレーエッセイで、留学で学んだことは大学院の授業や課題で得た専門的知識だけでなく、実際に生活する中で得られた「実体験のアメリカ」とでも言うべき経験だと書いた。移民の歴史やボーダーランドの歴史について研究書を通じて学んできたつもりであったが、実際に陸地づたいに国境を越える経験をすることで、国境というフィクションのリアリティをあらためて思い知らされた、と言えばよいだろうか。人の移動が増加するグローバル化の時代にこそ、壁の建設を求める欲求は高まるのかもしれない。