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文芸学部取り組み・プロジェクト紹介

更新日:2016年04月10日

文芸メディア専修

受験生へのメッセージ(林 幹夫)

 

 

「教育とは何か、それはどうあるべきか」を問いつづけて
子ども、教育、教育哲学、教育史、教育思想史、教師教育、教育とメディア、文芸とメディア、音楽、K-POP、クラシック・バレエ、宝塚歌劇

 

専門分野

 私の専門分野は教育学/教育哲学です。教育の本質と教育のあるべき姿を探求する学問分野です。そのためには、「教育とは何か、それはどうあるべきか」について考え抜いた先人の思想に学ぶことから始めます。例えていえば、ルネサンス期の人文主義者たちが「人間性の再生」を求めて、幅広い分野でギリシア・ラテンの優れた作品を繙き読んで、愛知者たちといわば対話を重ね、自己の精神陶冶を期したように。(これが大変!)

 まずは「人類の教師」と呼ばれる古代ギリシアの哲人ソクラテスからです。以下『国家』という題の「教育論」を著したプラトン、帝政期ローマは『雄弁家教育論』の著者クインティリアヌス、中世キリスト教教育思想、ルネサンス期「人文主義の王」ロッテルダムのエラスムス、『エセー』で知られるモンテーニュ、17世紀「知は力なり(ものごとを正しく知ることは人間の幸福に貢献する力となる)」をモットーとして近代科学発達の号笛を吹き鳴らしたベーコン、30年戦争の経験から戦争の原因である人びとの無知を取り除こうと、汎知の立場から科学主義を背景として『大教授学』に直観教授理論を構築したコメニウス、『人間知性論』によって英国経験論のチャンピオンと目されるロック、啓蒙の世紀を代表する思想家で「子どもの発見者」の異名をとるルソー、ケーニヒスベルク大学の哲学教授として教育学を講じたカント、貧児救済の教育に生涯を捧げたペスタロッチ、「幼稚園の創始者」フレーベル、「目的を哲学から、方法を心理学から」援用し、カントの後任哲学教授として教育学の体系化に貢献したヘルバルト、そしてプラグマティズムの立場から児童中心・経験中心の教育を主唱し、その実践の成果は、戦後日本の教育にとってもかけがえのないものとなったデューイと、枚挙に暇なしです。

 各々の教育についての考え方を、それぞれの時代背景・社会状況との関わりにおいて、系統的に追いかけながら、「人間とは何か」、「どのような人間をよしとし、そのための教育はどのようになければならないか」の問いに自ら答えるためのヒントを求めて、気の遠くなるような前提的な作業が要求される、教育哲学とはそのような学問的営みです。

 その中で学びの主たる対象として目をつけたのはジョン・ロックとジャン=ジャック・ルソーです。ともに高校の教科書にも取り上げられる人物ですから蛇足でしょうか。ロックは、大陸の合理論に対するイギリス経験論の基礎固めをし、その経験論で裏打ちされた『教育に関する考察』を著していますが、その中で、持ち前の理性観を軸に、いわゆる「英国紳士の教育論」を超えて、人間に普遍的な理性主義教育論を展開しています。

 一方ルソーは、CD1枚(72分)では到底収まらない多くの楽曲(唱歌『むすんでひらいて』の原曲はルソーが作曲したオペラ『村の占者』の一節)を残している元来音楽家ですが、恋人同士の往復書簡を連ねる形で筋が展開するというフランス文学史上画期的な恋愛小説『新エロイーズ』を書いた小説家でもあり、『社会契約論』によってフランス大革命を思想的に準備した社会思想家、政治思想家でもある、まさに18世紀の代表的マルチ人間といってよいでしょう。


教育の発見双書『ルソーとその時代』
玉川大学出版部

 

 教育哲学でなぜルソーか。そのわけは、彼の教育論『エミール』が世に出る前と後とで、人びとの子どもを観る目が180度も転換されたとされるからです。ルソーは人呼んで「子どもの発見者」、ルソーが子どもを発見したのです。ルソーの時代まで、子どもは存在していたけれども、せいぜい「大人の、出来そこないのミニチュア」で無意味な存在と見做されていました。そこへ、ルソーが子どもは子どもである、子どもそのものに固有の意味・価値がある、子どもを尊重しなければならないなどと、当時としてはとんでもない非常識を、自宅に石を投げつけられながらも大声で叫んだ。教育は子どもが豊かな人間性を身につけるために手を貸すはたらきかけとして展開される、子どもをめぐっての営みであるという教育に関する今日のある種の常識はルソーを起点として辿りついたものであるといっても過言ではないと考えるからです。とまあ、こんなことについて、ああでもないこうでもないと思いを巡らせている次第です。

 そんなこんなで、前提部分を理解することに多くの時間を費やして来、いつまでも大学での研究教育に携わっていられるわけではないことに気づいてみれば、ようやく本題(教育とは何か)と向き合うことができるようになったかというところ(否、ここからがほんとの勝負なのかもしれませんが)。ただ、こうして曲がりなりにも手に入れられた教育の考え方を、授業を通じて学生に紹介し、学生自身が自らの問いと格闘してくれるならよしと、気を取り直しているようなことです。

 

大学と学問、あるいは研究と教育

 ここからは、受験生のみなさんに大学とはどういうところで何をするところかを考える際のヒントが提供できればとの思いを込めて、私の一言二言メッセージです。もちろんこれらも先に紹介した多くの優れた先人の知見から学ばせてもらったものです。

 「学校教育法」には「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。」そして「大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」(第八十三条)と規定されています。大学の、少なくとも日本の大学の任務は、第1項の目的を達するための、「教育」と「研究」であると。

 そもそも大学とは何か。手近にある『オックスフォード羅英辞典』に聞いてみました。答えはあっさりしたもので、universitas = the society of teachers and studentsとあります。大学はもともと学問研究生活を保持するために自然発生した「教授陣と学生達の共同体」であったということです。大学に籍を置いて学ぶということなら、まずこのこと、すなわち学生は大学の一方の主役であるという自覚をもっての学びでなければならないということ。その上で、学問研究と教育についてはどう考えればよいでしょうか。

 以前『文芸学部報』「大学随想」欄に「学問でルネサンス」(92号)「学問のルネサンス」(93号)と題して「大学と学問、研究と教育」について書いたことが思い出されます。おおよそ以下のようなことだったでしょうか。

 学生は大学に対して、学問を抜きにして、あれこれの教育を直接的に求めることはできない。立場を入れ替えていえば、大学は高校までのように教育を教育として与えることをしないということ。学生はたまたま他人よりは多少とも優れた知的性能に恵まれ、他の条件も適していたために、大学で学問に専念することが許されたにすぎない。学問的な営みはかなりの長期にわたって訓練を受けなければならないから、その間、他の社会的生産に従事することをいわば免除されている。やがていっそう完成された能力によって社会に奉仕することが期待されるからにほかならない。数年間大学で学生として生活することによって、進むべき道に関連する領域の知識の基礎を習得し、必要に応じてこれを深めたり拡張したりするための手立てを会得すること。これが大学で学生が自覚的に意識的に為すべきことのすべてといってよい。その過程で、おのずから、専攻する学問領域を中心として人生観や世界観が形成され、社会生活に必要な倫理的感覚や意思が陶冶される。そのような教育や教養が、およそ学問を通して与えられる機関、ものを生産することによってでも、スポーツや娯楽に便宜を提供することによってでもなく、学問によって社会に貢献することを目的とする機関、それが大学である。

 学問以外のことを指向してはならないというからといって、大学はすべての学生が学者になり、卒業後学問や研究に従事してくれることを期待しているわけではない。将来どんな職業に就こうと、どんな人生を歩もうと、それとは関係なしに、青年として過ごす一時期に、学問という価値に触れ、その意義を知ったということに意味があるのであり、それが学問研究を主要な任務とする大学の教育的機能なのである。真理に憧れ、探求する人間的な営みとその結果のすべてを「学問」と呼ぶことができるとすれば、人間の生活の仕方の本質に関わる一つの精神として、それに絶えず新しい生命を与えていくことが大学の使命であるということになるであろう。制度がどうであっても、この使命をうっちゃらかして、それとは別に教育が行われるわけではない。大学の教員も学生も、そして社会の人々も、「教育」の呪縛から自由になる。そうしてはじめて、学問の場所としての大学が蘇り、大学における教育がほんとうの意味を取り戻すことになる。

 ほんとうにそんなことなの?と、しきりに眉に唾を塗りつけながらこのメッセージを読んでいる、そうあなた、これらのことについて真剣な意見交換をしようではありませんか。

   
Kyoritsu Music Festival 2015

 

担当授業科目

 いずれの科目も、詳細は「共立シラバス」で。

教育学概論

 「教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」を扱います。具体的には、教育の意義や目的、人間の成長・発達についての基本を理解し、日本および西洋における教育の歴史的変遷を踏まえながら、そこにある教育思想や教育観に学び、現在の日本の教育について多様な観点から考察します。文芸学部の共通専門基礎に位置づけられている教職課程の必修科目です。

 教育の基礎的概念、理論、歴史、思想等について学び、教育の意義・目的を理解した上で、現在の教育の諸課題について多様な観点から考察を深め、これらへの対応について確かな認識をもつことをめざします。

 

メディア教育論

 ICT(情報通信技術)革新はメディア革命を急進行させ、情報伝達様式を急変させ、現代社会は制御不能なほどに巨大化するデジタル・メディアを抱え込むことで人々の感受・思考様式の本質的激変をもたらしました。このメディア環境を生きるほかない子どもの人間形成の営みである教育は、結局メディアの問題に直面し、そこでは人間形成に関わる「知の総合伝達メディア」として教育はどうあるべきかが問題となります。もとより文化の伝達が教育の主要な役割であり、教育は文化の伝達を通してこそ人間形成に与って力あるものとなりますが、ここでは、各回授業テーマの下に、現代社会、とりわけ子どもの成育環境を瞬く間に浸食する新たなメディアと子育て・教育との関わりの中で、家庭は何をしなければならないか、何ができていないか、学校での情報・メディア教育では何が目指され、どのような教育が行われているか、そこに何が欠け、求められているかを突き止め、情報・メディアに主体的に関わる者を社会参画へ導き、支援するメディア教育の明日を展望します。

 

文芸メディア演習ⅠC(子ども、教育とメディア)

 〈前期〉は子どもと教育、そして止まるところなく進展する子どもの成育環境としてのメディアについてパラレルに理解した上で、これらにまつわる諸問題を扱った資料を取り上げ、意見交換しながら読み解いていきます。

 〈後期〉は子ども、教育とメディアについていくつかテーマを立て、テーマごとに編成されるグループに分かれて調査・研究し、成果を報告します。これを全体討論につなげ、子どもとメディアの未来のために、われわれに何ができ、何をしなければならないかについて、確かな認識をもつ機会としましょう。子どもの成育・教育環境としてのメディア、その光と影について確かな認識をもち、子どもとメディアの未来を想望しながら、これに主体的・積極的に関わることができるようになることをめざします。

 

卒業論文ゼミナール/卒業論文指導

 卒業論文作成のためのクラスです。子ども、教育、メディア、クラシック・バレエ、宝塚歌劇、音楽、K-popと、分野は一定しませんが、それゆえに刺激し合える卒論ゼミナールを目ざしています。

〈これまでの卒業論文題目例〉

  • メディア社会を生きる子どもたち
  • メディアリテラシー教育の在り方
  • メディアと児童虐待~日本における新たな虐待の姿~
  • 学園ドラマと実際の教育現場における教師と生徒の関係
  • 子供の遊びの変化から見るコミュニケーションの変化
  • 教育現場のデジタル化に関しての研究
  • 中村一義にみるパラフレーズと歌詞の言葉遊びによる音楽のメッセージ性
  • メディアとポピュラーミュージック~初音ミクがもたらす新アイドル像~
  • K-POP論-独創性を追求したパフォーマンスとその魅力-
  • 「韓流」の視点から見るブームとメディア
  • バレエ『ジゼル』から見るロマン主義とその魅力
  • バレエ『くるみ割り人形』~クララの見る夢物語の意味と表現~
  • 宝塚100年の歴史と男役~明日海りおに見るこれからの男役像~
  • メディアが演劇を変える

 

教育実習Ⅰ・Ⅱ

 Ⅰ(中・高免許用)とⅡ(高校情報科)の合同授業です。各自2~4週間の現場実習を挟んで、事前と事後とに行われます。

 

教職実践演習

 教職実践演習は、全学年を通じて得たすべての学び、とりわけ教職課程での学びの軌跡の集大成として位置づけ、「教科に関する科目」及び「教職に関する科目」の知見を総合的に結集するとともに、学校現場の視点を取り入れながら、学生として身に付けた資質能力を、教員として最小限必要な資質能力として有機的に統合し、形成する機会です。