Faculty of International Studies
更新日:2025年10月10日
学生の活動
【国際学部】手仕事をめぐる旅~エストニア旅行記~③
学生広報委員2年生の西田倫子さんがエストニアに関する記事を執筆しました。
前の記事はこちらからご覧ください。
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② Tartu(タルトゥ)
【タルトゥとは?】
ドイツのリューベックを中心として発展した北海・バルト海商業圏で、ハンザ同盟を結び、中世時代の北ヨーロッパの交易の拠点として栄えた都市の一つである。1632年に、Dorpat(ドルパト)*を支配していたスウェーデン王のグスタフ・アドルフ2世が、「農民は神の言葉を読めねばならない」というルター派の教えに従って設立されたタルトゥ大学があり、現在も若い学生が多い街として知られている。市庁舎前の広場にある噴水にも若い男女カップルがキスしあっている銅像が若者の情熱を表す街のシンボルになっている。
エストニア文化の中心地としても知られ、現在、5年に1度開催されている「歌と踊りの祭典」という大規模な歌謡祭のもとになった「全国歌謡祭」もこの地で最初に開催された。
注)ドルパト…タルトゥのドイツ語で、かつてのタルトゥはこの名称で呼ばれていた。
・Eesti Rahva Muusium(ERM)(エストニア国立博物館、エストニア民族博物館)
【エストニア国立博物館とは?】
エストニア最大の博物館で、国立博物館として1909年に設立された。
現在の建物は、日本人の 田根剛も設計に加わり、かつてソ連の飛行場だった場所に建てられ2016年に開館した。博物館内には民族衣装や歴史的な展示、民芸品や農具などが沢山展示されていた。また、先進的なITシステムも使われており、展示の解説パネルの保存マークに博物館チケットをかざすことで、その展示の情報をチケットに保存し、そのチケットのQRコードをスマートフォンやパソコンで読み込むことで、その保存した情報をいつでも自由に見ることが出来る。
《エストニア各地の民族衣装について》
本記事の冒頭で述べた「エストニアの民族衣装の種類の多さの謎」について、この博物館の展示を通して各地方ごとに異なる背景があることが分かった。
エストニアの民族衣装は、大きく北部、西部、南部、諸島部の4つの区分に分けられる。これは多くの、エストニアの民族衣装を説明する本や、ホームページでも使われている区分である。更に細かい「教区」という区分に分かれており、その教区それぞれに異なった民族衣装がある。(個人的にはエストニアが独立する前、長い間各地でバルト・ドイツ人貴族が、彼らの荘園で農民のエストニア人支配していたことがその教区に繋がるのではなかと推測しているが、筆者自身がこの細かい教区についてまだ詳しく理解できていない為、詳しく説明が出来ない。なので、今後更に勉強して理解できるようになりたい)
画像:この博物館が出版した民族衣装に掲載されている本元に筆者が作成した地図
4つの区分について簡単に説明すると、北部は、ハンザ同盟で交易が盛んだったタリン(旧レヴァル)を中心に当時の流行が民族衣装にも影響されてい た。南部は北部と比べると伝統に保守的で昔ながらの伝統を大切に守っていたことが民族衣装にも表れている。西部では、その中でも北側と南側で違いがあり、北側は前述のように流行で、南部は伝統に保守的な傾向があった。また、エストニアの西部の地域の中では、この記事で今後紹介する予定のLihula(リフラ)のように、他には見られない植物の刺繍スカートやチェック柄のスカートも着用されている所もあった。
諸島部の民族衣装は島によってそれぞれ違いがある。かつてスウェーデン人が多く住んでいたSaaremaa(サーレマー島)、Ruhnu(ルフヌ)島、Pakri(パクリ)島、Vormsi(ヴォルムシ)島はスウェーデン独特の黒いスカートがその島の民族衣装にも反映されている
右:サーレマー島の民族衣装(筆者がエストニア国立博物館で撮影)
※天使の橋の由来は橋の傍にあった説明板、悪魔の橋の由来はガイドさんによる
次回に続く