国際学部

Faculty of International Studies

ニュース一覧へ戻る

国際学部ニュース詳細

更新日:2022年07月12日

その他

【国際学部】リレーエッセイ(6) 西山暁義 「八王子・高尾~神田・一ツ橋~津山 国際学部のトポグラフィー(1)」

八王子・高尾~神田・一ツ橋~津山 国際学部のトポグラフィー(1)

西山暁義


 コロナ禍となって2年半近くが経ち、まだまだ予断は許さないものの状況は以前よりは落ち着きつつあるようです。それにともない、マスク越しのコミュニケーションとはいえ、キャンパスも以前の賑わいを取り戻しつつある今日この頃。この間(2020年度)30周年を迎えた国際学部では、紙媒体で記念の冊子を作成しましたが、ホームページではそのことに関係する記事がこれまでありませんでした。2年遅れとなりますが、その穴埋めをしたいと思います。



1.国際学部の「帰郷」:神田・一ツ橋キャンパス


 上に述べたように、国際学部の設立は冷戦終結直後の1990年であり、共立女子職業学校からはもとより、新制大学としての共立女子大学の歴史のなかでは比較的新しい学部といえます。ただし、八王子・高尾のキャンパスに開設され、当初は入学から卒業までの4年間、自然豊かな環境の中で学んでいたのに対し、2007年度(新入生はその前年)からここ神田・一ツ橋キャンパス、都心の真ん中へと移転するという変化は、国際学部だけが経験したことです。


 その意味で、国際学部にとって神田・一ツ橋キャンパスは「第二のふるさと」であり、どちらかといえばその立場は「新参者」というべきかもしれません。しかし、視野を広げれば「帰郷」ともいえます。なぜなら、神田・一ツ橋キャンパスには今から160年ほど前に「蕃書調所」が置かれていた場所だからです。


 ここで少し、本学専任教員の上田美和先生(日本近現代史)が、2021年度オープンキャンパスで行われたミニ講義に耳を傾けることにしましょう。「蕃書調所」とは、江戸幕府の洋学翻訳所であり、旗本の子弟や諸藩の藩士が英学、蘭学、科学技術を学ぶ教育機関でもありました。1811(文化8)年の蕃書和解御用にさかのぼるこの機関は、日米和親条約締結の翌1856(安政2)年に「洋学所」と改称され、さらに1856(安政3)年には「蕃書調所」となります。


 この蕃書調所はもともと九段下にあり、下の写真のように、現在でも九段下交差点を少し日本武道館の方に上がった、歴史博物館「昭和館」の脇に記念のプレートが設置されています。


「蕃書調所跡」記念プレート、筆者撮影



 この説明文には、1862(文久2)年に「神田一ツ橋通り」に移転したとあります。これが具体的にどこであったのかは、1863(文久3)年の江戸切り絵(古地図)と現在の地図を比べてみると特定することができます。

* 著作権の関係で切り絵を表示することができません。こちらに当時と現在の地図が掲載されています。


 この文久3年の蕃書調所の位置は、現在はわが共立女子大学の4号館から共立女子中高の体育館・校舎(1号館)のあたり、ということになります。4号館と狭い道路を挟んで反対側の2号館(当時は丹後田辺藩主牧野讃岐守誠成の屋敷)では、国際学部の授業も数多く行われており、私も授業で使っています。


             

      左:本学2号館(左)、本学4号館(右奥)

      右:狭い道路の両側に立つ共立の施設。2号館(左手前)、4号館(右手前)、体育館(4号館の奥)、本館(体育館奥の高い建物)

      筆者撮影



 さらに1867(慶応3)年の『万寿御江戸絵図』では、現在の如水会館、学術情報センター、そして本館から4号館にかけての共立の区画ほぼ全体に当たる部分が「開成所」となっています。この「開成所」とは、1862年の「蕃書調所」から「洋書調所」への改称の後、翌1863年にさらに改称された際の名称です。

       『万寿御江戸絵図』1867(慶応3)年、国立国会図書館デジタルコレクションを拡大したもの、赤で囲んだところが「開成所」

        https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542735

       (上田先生のご教示による)



 すなわち、国際学部の学生のみなさんが日々学んでいる場所は、近代日本における洋学の出発点の地の1つということになります。「開成所」はその後明治維新とともに「開成学校」、「大学南校」、そして「東京大学」へと発展していきます。これらの教育機関の場所も開成所と同じ場所(拡大した敷地)にありました。東京大学が現在の本郷キャンパスへと移転するのは1885(明治18)年、共立女子職業学校設立の前年のことでした。



白山通りをはさんで共立の反対側にある学士会館には、

「東京大学発祥の地」の碑石(上)と「我が国の大学発祥地」(下)のプレートがあります。筆者撮影。


          『明治東京全図』(1876(明治9)年刊)における、神田・一ツ橋周辺部を拡大したもの。

          中央に位置する現在の共立の敷地のなかで、共立講堂と本館、1号館(中高)にあたる部分が、「東京外国語学校」

            となっています。また、その下、皇居内堀と日本橋川の間の「女学校」(現在の毎日新聞社に当たる)は、

          「東京女学校」(通称竹橋女学校)を指しており、共立女子職業学校創設者の一人、鳩山春子(1861~1938年)

          が通っていました。同校は1877(明治10)年、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)に事実上吸収される形で

          廃校となります。

          国立公文書館デジタルアーカイブ

          https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0201100000/0000000037/00




 一方、語学の教育については、上述の開成学校に英仏独など6か国語の語学課程が設置されますが、これが東京外国語学校となり、のちの東京外国語大学につながっていくことになります。その校舎もまた、東京商業学校(のちの一橋大学)とともに神田・一ツ橋にあり、現在の本学とその隣接施設にあたるところであったことは、先ほど述べたとおりです。如水会館と学術情報センターの境目には、竹橋駅から通う目ざとい学生の皆さんは気が付いていると思いますが、以下のような碑があります。


                         「東京外国語学校発祥の地」の碑。筆者撮影



 このように、国際学の歴史という観点からみれば、神田・一ツ橋への移転はまさに本拠地に戻ってきた、と言うこともできるのです。


【国際学部】リレーエッセイ(7) 西山暁義 「八王子・高尾~神田・一ツ橋~津山 国際学部のトポグラフィー(2)」

https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/academics/undergraduate/kokusai/news/detail.html?id=3536の記事に続きます。