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更新日:2019年12月26日

研究紹介

【国際学部】リレー・エッセイ2019 (20)橋川俊樹「日本アニメのモラルバックボーン ―高畑勲―」

日本アニメのモラルバックボーン ―高畑勲―

橋川 俊樹

 

 アニメというものにモラルバックボーン、固く訳せば道義的支柱のようなものが必要かと言えば、そうだと答えるのは難しいであろう。実験的・芸術的な作品はもちろん、ほとんどのアニメ作品はその必要性を感じて作られたものではないだろう。

 

 しかし、必ず明確なモラル(倫理観・道徳意識)をもってアニメーションを制作したのが、高畑勲(1935~2018)というアニメ監督である。

 

 そこには、高畑勲がフランスのアニメ映画『やぶにらみの暴君』(監督ポール・グリモー、1953年日本公開)に刺激されてアニメーションを志し、東京大学仏文科から東映動画に入社したという背景がある。『やぶにらみの暴君』はのちに改作され『王と鳥』として1980年に公開されるが、高畑は元の『やぶにらみの暴君』への感銘を一冊の本(『漫画映画(アニメーション)の志―「やぶにらみの暴君」と「王と鳥」』)にして熱く語っている。

 

 〈『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)のような作品をつくろうとしたこと自体、『やぶにらみの暴君』の存在に励まされたからですし、そこに社会構造を持ち込んだり、微妙な心理描写に挑戦したり、つたないながら隠喩や象徴を散りばめたのもその影響でした。〉

 

 アニメに社会構造や心理描写を持ち込む意欲は、高畑勲が主体となって作った作品すべてに見られる。『ホルス』の興行的失敗により東映動画を去ったあと、Aプロダクションを経て日本アニメーションに移って作った『アルプスの少女ハイジ』(1975年)・『母をたずねて三千里』(1976年)・『赤毛のアン』(1979年)、それに『じゃりン子チエ』(1981年)・『セロ弾きのゴーシュ』(1982年)、ジブリ作品『火垂るの墓』(1988年)・『おもひでぽろぽろ』(1991年)・『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)・『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)・『かぐや姫の物語』(2013年)に至るまで、社会的視点と人間心理の洞察を欠いた作品は無い。

 

 高畑勲が『やぶにらみの暴君』から受けとったものは多様なものだっただろうが、冷酷・非情な「暴君」に対する義憤と抵抗の精神への共感が最も大きかったのではないかと、私は考える。その感覚がよく現れているのが『ホルス』であり、『火垂るの墓』であると思う。

 

 『太陽の王子ホルスの大冒険』は、先輩アニメーター大塚康生の推薦によって初めて長編アニメ映画の演出を任された、高畑勲のデビュー作にしてその真価が遺憾なく発揮された作品である。のちにスタジオジブリの経営者となる鈴木敏夫は徳間書店の編集者であったが、雑誌『アニメージュ』の創刊(1978年)を任され、インタビューを取りに行った高畑勲・宮崎駿コンビの強烈な個性に魅せられた。すぐにたまたま名画座で上映されていた『ホルス』を見て、その素晴らしさに圧倒され、以後ふたりのアニメ作家のために尽力するようになる。

 

 ホルスは悪魔グルンワルドを村人たちと力を合わせ「太陽の剣」で討ち果たす少年ヒーローであるが、悪魔側のスパイの役割を担うヒロインの少女ヒルダの方がこの作品の要である。ヒルダは悪魔の心と人間の心の間で揺れ動き、最後はその身を犠牲にしても「人間」であろうとする。村人たちと打ち解けられない孤独な心の持ち主であるヒルダは、あくまで自分の従僕として卑劣な策謀を実行させようとする冷酷な悪魔と、ともすれば自分の欲望の充足や自己保身に走りやすい人間たちの中で苦悩し、葛藤する。どちらも自己中心的で利己心が強い。そんな中でホルスと一部の人間だけが「みんな」の幸せを願って行動し、戦う。その「みんな」の中にヒルダも入れてくれている。

 

 ヒルダのような、心に闇を抱えた迷える存在を受け入れる精神が、本当のモラル・道徳心と言えるものだろう。他人に優しく、平等に、正義の心をもって接する態度こそ「モラル」である。

 

 黒澤明も絶賛した、高畑勲の代表的傑作『火垂るの墓』にもこの精神、モラルバックボーンが如実に表れている。ただし、ネガティブな形を採って。

 

 「『火垂るの墓』監督するにあたって」という文章で、高畑勲は主人公の中学生・清太について次のように述べている。

 

〈厳しい親の労働を手伝わされたり、歯を喰いしばって屈辱に耐えるような経験はなかった。卑屈な態度をとったこともなく、戦時下とはいえ、のんびりとくらして来た部類に入るはずである。 (中略) 清太は未亡人のいやがらせやいやみに耐えることが出来ない。妹と自分の身をまもるために我慢し、ヒステリィの未亡人の前に膝を屈し、許しを乞うことができない。〉

 

 理不尽で冷酷な存在を前に、ホルスならば「太陽の剣」をふるって「みんな」と戦えば良い。しかし、居候の身の清太は、自分のため、幼い妹の節子のためには、歯を喰いしばって屈辱に耐え、ヒステリーの未亡人の前に膝を屈し、許しを乞う必要があったのだが、それがどうしても出来なかった。食糧難の時代に、幼い妹とふたりだけで暮らす道を選択し、そして文字通り自滅してしまう。

 

 けれども高畑勲は、そんな清太を責めているわけではない。「自分に完全な屈服と御機嫌とりを要求する、この泥沼のような人間関係」を拒否し、横穴の防空壕で暮らすこの兄妹に、美しいホタルの夢を垣間見せる。横穴に暮らす兄妹のことを周辺の人たちは知っていながら、救いの手を出さない。心が冷たいのか、手をさしのべる余裕がないのか、いずれにしろ他人のことより自分のことで済ましている。この冷酷さは、戦争のせいなのか、人間の本性なのか。

 

 高畑勲は、現代に生きている「どれだけの少年が、人々が、清太ほどに妹を養いつづけられるだろうか」と述べて、清太を心から憐れんでいる。

 

 清太のような、真に憐れむべき存在を掬いあげ、アニメーションにして、観る人々の心に刻みつける。高畑勲のモラルバックボーンとは、そういうものである。