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更新日:2017年07月10日

【国際学部】リレー・エッセイ (11) 黒澤 啓 「サラエボの思い出」

サラエボの思い出

黒澤 


1990年代半ばから、当時勤務していた国際協力機構(JICA)において、内戦などの武力紛争が終わった地域の平和構築支援を担当するようになり、ミンダナオ、カンボジア、パレスチナ、レバノン、アンゴラ、モザンビーク、コソボ、ボスニア等の様々な紛争終結地を訪問した。

 

初めて紛争終結地を訪問したのは、1992年から1995年まで内戦状態にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都、サラエボであった。それまでも、海外出張中に、車が崖から落ちそうになったり、アフリカの国際空港で空港職員に別室に連れて行かれて脅されたり、アフリカのサバンナで象に追いかけられたりというような目にあっていたので、危険なことにはある程度慣れていたつもりではあったが、さすがにサラエボ訪問に際しては、テレビの映像などで紛争当時の悲惨な状況を見ていたため、いったいどうなるのかと不安でいっぱいだった。

 

サラエボと言えば、1914年に第一次世界大戦勃発のきっかけとなったオーストリア皇太子の暗殺事件があったことで有名だが、1984年には冬季オリンピックが開かれた都市でもある。周りを山に囲まれ、旧市街はオスマントルコ統治時代の雰囲気を残し、ヨーロッパ文化とイスラム文化が融合した美しい街である。しかし、紛争が終わって1年後の19971月、ウィーンからの飛行機を降り立ったサラエボ空港は未だあちこちに土嚢が積まれ、壁には無数の銃痕があり、紛争の爪痕が残されていた。空港から市内に車で向かうと、外灯もまばらで街全体がうす暗く、重苦しい印象があったが、それは単に暗さのせいだけではなく、街のいたるところに残されていた廃墟のせいであった。紛争中にサラエボを取り囲む山の上からセルビア兵に多数の市民が狙撃されたことから「スナイパー通り」と名付けられた通りを進むと、道の両脇には、車の残骸や、おびただしい数の廃墟となったビルがあった。1984年の冬季オリンピックの時に選手村として使われ、その後住宅として使われていた高層アパート群には、一つとして無傷のビルはなく、窓の明かりもほとんど見えなかった。

 

30分ほどして旧市街の一角のホテルに到着したが、当時はホテルの数が不足していたため、粗末なベッドがひとつだけで、スーツケースも開けられないような狭い部屋でも12万円近くもした。狭いだけならまだしも、夜は零下10度近くまで下がることもある厳しい冬のサラエボで、お湯がでないばかりか、窓ガラスが割れていて、代わりにビニールが貼られていた。窓を開けると、砲撃で1室が完全に吹き飛んだアパートが目の前にあった。暖房もなく窓から寒風がふきそそぐ寒い部屋で、とんでもないところに来てしまったと思いながら、セーターを2枚着込んで寝るはめとなった。


サラエボ空港周辺のアパート(19972月撮影)


翌日から約10日間、サラエボを中心として復興支援のニーズを調べるために、中央省庁や病院、保健所などを訪問するとともに、紛争被害を見るために、様々な廃墟を見て回った。街の中心は、議会ビルをはじめとして、ほとんどのビルが骨格を残して黒く焼け焦げていた。紛争中も地下で新聞を発行し続けていた新聞社のビルは、あとかたもないほどに崩れ落ちていた。激戦地の周辺には、単に1回の砲撃だけで壊れたのではなく、壊れたあとも恨みを晴らすかのように執拗に砲撃や銃撃を繰り返されたためか、無数の弾痕の跡が残されている建物が多くあり、民族紛争の怖さを実感した。


サラエボ市内のアパート(19972月撮影)


紛争の爪痕が街のあちこちに残されていたサラエボ。しかし、予想していた以上にサラエボの人々の表情は明るく、紛争が終わってほっとしている様子が伺えたのは心の救いであった。街なかのカフェには、楽しそうに談笑する多くの市民が見かけられた。公園には無邪気に遊ぶ子供たちがいた。旧市街の歩行者天国では、多数の若者たちが楽しそうに歩いていた。訪問する前にはこうした市民の姿が想像できなかったので、紛争で壊滅的な被害を受けた街であっても、人々は希望を持って普通に暮らしているのだということが認識できた。

 

その後、幾度となく出張でボスニアを訪れるとともに、2009年から2012年までは、隣のセルビアに在勤し、数ヶ月に一度はサラエボを訪問した。20142月に、国際学部の研究旅行で学生30名と一緒にサラエボを訪問した際には、直前に、反政府デモによりサラエボでは政府ビルが焼き討ちに合うなどの事態に発展したため、サラエボ訪問が危ぶまれたが、日本大使館の助言なども踏まえて予定通り訪問した。暴動の様子しか報道されていなかったため、どれほど危険な状態なのかと心配したが、実際に行ってみたら、子供達が焼き討ちにあったビルのすぐそばの屋外スケートリンクで楽しそうに滑っていたり、真冬にもかかわらず好天気に恵まれたためか、旧市街には今まで見たことのないくらいの多くの人々が繰り出していて拍子抜けした。


サラエボは訪問するたびに街の様子が変わり、今では街中で廃墟を見かけることもほとんどなくなった。3民族が激しく戦った内戦ではあったが、紛争が終わって22年。3民族共同による政治体制は未だ脆弱で、国家レベルでの信頼醸成を完全に成し遂げるためにはまだ時間を要するであろうが、一般の人々の間では着実に民族和解が進んでいると信じたい。


サラエボ旧市街 (20142月撮影)


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