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更新日:2018年07月13日

【国際学部】リレー・エッセイ2018(13) 黒澤啓「コソボの思い出」

コソボの思い出

 黒澤 啓

 19998月、初めてコソボを訪問した。

 セルビアの自治州だったコソボがセルビアからの分離を求めて独立闘争を開始し、それをセルビアが武力で抑え込もうとしたことから、コソボ紛争が勃発。19993月から2か月半にわたりNATO(北大西洋条約機構)軍による空爆が行われた。その結果、セルビア軍はコソボから撤退し、コソボは国連の管理下に置かれることとなった。

 

 日本政府としても、紛争後の復興を支援していくこととなり、どのような支援をするかを調査するために、外務省が政府調査団を派遣することになった。当時、JICA(国際協力機構)で紛争終結国の平和構築支援を担当していた私も参加することになったが、JICAの規則では、外務省の定める危険度4であったコソボへの渡航は認められないことから、JICA総裁の特別決裁をとって参加することとなった。出発前日には、総裁室に呼ばれ、総裁から直々に、くれぐれも無理をしないで危険を感じたらすぐに退避するようにと言われ、それほどまでに危ないところに行くのだという意識が高まってきた。

 

 翌日、成田空港に行くと、テレビ取材がはいるため、特別待合室に通され、そこで出発まで待機した。時間になり、航空会社の職員の案内で出国ゲートに向かうと、そこにはNHKのカメラが。空港から海外に向かう要人のニュースをテレビで時折見ることがあるが、まさにこれがそうかと思い、緊張で顔をこわばらせながらも平静を装いゲートに向かう。カメラは当然、先頭の外務省高官の姿を追うが、少しでもテレビに映ろうと、同行者とさりげなく争いながらカメラに映る位置を確保。後日、録画したニュース映像を見ると、「コソボ自治州の今後の復興支援策を検討するための日本政府の調査団が成田空港を出発しました」というナレーションとともに、しっかりと二番手の好位置につけカメラに映る私がいた。

 

 当時、コソボに乗り入れている航空会社がなかったため、まずはローマに向かい、そこから国連機でコソボ自治州の州都プリシュティナに向かった。国連機といっても、旧型のプロペラ機で、搭乗前には「事故があっても国連に責任は問いません」との誓約書に署名させられ、そんなにも事故があるのかと不安にかられた(実際、私が乗った同じ路線の国連機が、2ヶ月後に墜落するという事故があった)。



ローマから乗った国連機

 

 なんとか無事にプリシュティナに到着すると、街のいたるところに、空爆されて崩れ落ちた建物があり、NATO軍による空爆の激しさを目の当たりにした。街中は、レストランや商店もまだ数えるしかなく、車もまばらで、夜になると、停電が多いため街全体が暗い雰囲気であった。夕暮れ時から、街中の目抜き通りのマザーテレサ通りを多くの人がゾロソロと歩いているため、最初はお祭りでもあるのかと思ったが、サラエボでも、アルバニアのティラナでも同じような光景を見たことを思い出し、家にいてもすることがないので、皆、夜になるとこうしてあてどもなく通りを歩くというバルカン共通の夜の過ごし方であることがわかった。



空爆で破壊された政府庁舎


 さて、コソボに到着後、連日、国連機関やUNMIK(国連コソボ暫定行政ミッション)などを訪問したり、空爆現場の視察をし、日本政府として今後どのような支援ができるかの検討を行ったが、コソボには既に日本のNGOが数団体はいって活動していることから、3日目の夜に、その人たちを集めて話を聞くことになった。集まったNGOの人たちを見て驚いたのは、10人ほど集まったNGOスタッフの半数が20代から30代の女性だったことである。危険なのでわざわざ総裁の特別許可をとって出張することとなり、しかも初めての政府調査団ということでテレビのニュースにまでなって来てみたら、実は、日本人の若い女性が何人も普通に働いていて、拍子抜けするとともに、NGOや、日本人の女性のたくましさを実感した。

 


破壊された建物の修復作業

 

 その後、紆余曲折を経て、コソボは20082月に、セルビアから独立を宣言した。未だに、セルビアを始めとして、ロシアや中国はセルビアの独立を認めていないため、不安定な状況が続いているが、着実に独立国家として進展を続けている。アメリカとともにいち早くコソボの独立を承認した日本は、様々な形で復興支援を行っており、200910月からセルビアのJICA事務所に勤務することになった私は、セルビアを拠点として、コソボ支援にも携わることになった。

 

 200911月、10年ぶりに訪問したプリシュティナの街並みは、大きくさま変わりしていた。空爆の面影はもはやどこにもなく、街には商店やレストラン、カフェが立ち並び、街は独立国家としての活気と喜びで満ち溢れている感じがした。しかし、日本政府が支援を開始する際の政府調査団のメンバーであり、現在はJICAバルカン事務所長として、コソボ支援の現場の責任者である私を待っていたのは、コソボ政府の冷たい一言だった。「セルビアのJICA事務所のスタッフには、コソボに出入りして欲しくない」。事情を聞いてみると、紛争中にセルビア軍の攻撃で家族を失ったコソボ外務省の高官がかたくなにセルビアとの関係を拒んでおり、そのためにこうした発言をしたとのことであった。紛争が終結して10年が経っており、しかも紛争とは関係のない日本の政府機関がコソボの復興を支援するためにコソボを訪問するというのに、それを拒否するのはいかがなものかと粘り強く交渉をし、ようやくセルビアからコソボに出入りすることを許可された。

 

 こうして、20123月にセルビアから日本に帰国するまでの間、結果的に10回近くコソボを訪問することとなった。行くたびに新たな出会いや驚きがあり、コソボには深い思い入れを持つようになったが、これらに関しては、次の機会に述べることにしたい。


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