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更新日:2018年07月09日

【国際学部】リレー・エッセイ2018(11) 神田千冬「留学から得られるもの ―――私の中国留学―――」

留学から得られるもの―――私の中国留学―――

                                         神田千冬


 留学によって得られるものは何か?それは個々人によってさまざまな答があるでしょう。

外国語が上達したり、その国の文化や歴史に対する理解が深まったり、あるいはその国や地域の人々との交流で貴重な体験をしたということもあるでしょう。


 私が自身の留学を振り返るとき、その地域で生活者として何年か暮らしたことによって、地域の人々の日常の出来事に対する何気ない反応、社会的現象に対する考え方などを見聞きしてそこに流れている空気を感じることができたことが大きかったと思います。


 私が中国語を学ぶため北京の北京語言学院(現北京語言大学)に留学したのは1980年代初めでした。当時の中国は1966年~1976年まで続いた文化大革命(権力闘争を発端に中国全土を揺るがした大政治運動 。以下「文革」と略す)が終息したばかりで、人々の生活は現在より貧しかったものの、やっと自由を取り戻したという明るさがありました。


 文革中は文化的鎖国状態だった中国ですが、少しずつ日本や欧米・インドなど外国の映画・ドラマが見られるようになり、テレビでは手塚治虫の『鉄腕アトム』が人気を博し、近くの映画館では高倉健主演の『遠い山の呼び声』が上映され、観客が日本の庶民生活を興味津々で見ていました。大学内でも講堂でチャップリンの『サーカス』が上映され、盛況だったのを覚えています。


 当時、人々の服装はいわゆる人民服と呼ばれた紺・緑・グレーの上着(中国では“制服”と呼ばれていました)にズボンが主流でした。それは自由な服装が事実上制限されていた文革時代の名残りでもありました。文革中は女性がスカートをはいたり、おしゃれをすることは「資本主義的」とみなされ、批判の対象となったこともあったそうです。文革後4~5年経った当時でも、まだ多くの中国人は“制服”を着ていました。文革中、工業生産がストップしていた影響も残っていて、“制服”を買うにも、現金のほかに“布票”という衣料用配給券が必要でした。


 この“制服”は、しかし、留学生には便利でした。なぜなら、“制服”を着ていると一見、中国人のように見えるからです。欧米人は髪の色でわかってしまいますが、髪の色も肌の色も同じ日本人が着ると、中国語を上手に話せさえすれば、中国人の中にまぎれることができるのです。


 当時の中国では、外国人は、留学生は大学の留学生宿舎に、仕事で駐在する人は専用のホテルにと決まっていて、現在のように自由に下宿できませんでした。中国人のほうも、文革中に外国と関係のあった人はスパイ扱いされたため、外国人に関わることに慎重な人が多く、若い人を除けば積極的に親しくする人は少なかったようです。


 街なかで外国人として目立つというのはあまり気持のいいことではありません。知らず知らず緊張して自由に行動できなくなります。そのため、私は街に出る時は“制服”を着て、中国製の布靴(はきごごちがよく、愛用しました)をはいて行きました。


 蛍光灯が切れたので、大学近くのマーケットにスペアを買いに行ったときのことです。“灯管”という単語を辞書で調べずに行ったので「あの、蛍光灯の、ほら交換するやつ」と中国語でいうと、若い男性店員がジロッと見て「大人のくせになんで子供みたいな口をきくんだ?」と言いました。私が一瞬とまどっていると、そばにいた客が「この子は語言学院の留学生だよ」と言ってくれました。すると、店員は「なんで、こんなにそっくりなんだ!」とブツブツ言いながら“灯管”を出してくれました。


 また、街で信号待ちをしていると、隣にいた中年のおばさんが「そのズボンはどこで買ったの?」と話しかけてきました。その時、私は日本製のズボンをはいていたので「日本で買った」と答えると、おばさんはもう一度私を見直して、「ああ、日本人か、それならしかたがない」という顔をしていました。今のように自由に外国観光に行けなかった時代です。服装の制限が緩和されても物不足のなかで、おしゃれ心を取り戻した女性たちの目の鋭さは印象的でした。


 中国人の友達と遊びに行ったときも、一人で京劇を見た時も、外国人と気づかれないことで中国の人々の生の姿を多少なりとも見ることができたと思います。


 逆の例もありました。ある日本人の青年が中国で知りあった女性と結婚しようとしていましたが、その女性に上から下まで日本製の服や靴を身につけさせていました。当時、外国人用のホテルやデパートに出入りするとき、中国人は守衛にチェックされ、いちいち名前や住所を書かなければなりませんでした。(私も“制服”を着て日本大使館に入ろうとすると、警備の人民解放軍兵士に止められ、パスポートを見せてやっと入れました。)また結婚の手続も煩雑で、許可が下りるまで他人に二人の関係を知られない方がよかったのです。そこで、彼女は日本製の服を着て日本人に「変身」したのです。これなら、守衛は日本人のカップルだと思うのでチェックされないですむというわけです。


 中国には「上に政策あれば、下に対策あり」ということばがあります。政府の厳しい政策があっても、庶民は知恵をしぼって切り抜けると言うような意味です。上記の例はまさに庶民の対策でした。


 この他にも、中国人が入れない外国人専用のデパートがあって、しかも外国人専用の貨幣(外貨兌換券)でないと買物ができないしくみになっていました。そこには、街のマーケットにはない上質の商品が並んでいました。すると、中国の人たちは知りあいの外国人に頼んで買ってもらったり、人民元と兌換券を交換してもらって買ったりしていました。(街では人民元と兌換券を高いレートで交換する闇商売もあったようです。)若かった私にはこういう頼まれごとはわずらわしいと感じ、断ってしまったこともありましたが、今考えると、これも「対策」であり、このような「助け合い」は中国人にとってはごく自然だったようです。中国人の間でもお互い出張先で知り合いに頼まれた物を買って帰ると言う話はよく聞きました。後年になって、中国の人々はこのような人間関係のネットワークを大切にし、活用しながら生きているのだと理解するようになりました。


 いろいろな制約があり、奇妙な時代でもありましたが、人々のたくましく、生き生きとした姿は今でも深く心に残っています。


 留学中の2年間は中国語の学習だけでなく、中国の人々とのさまざまなつきあいを通して中国を肌で感じられた2年間でした。本やメディアで得られる知識も必要ですが、その国を理解するにはそこへ行ってみないとわからないことがある、日本社会の基準では測れないことがある、と実感できたことが留学の最大の成果であったと思います。


 その後、中国は改革開放政策によって経済が発展し、大きく変化しました。生活スタイルもすっかり変わり、人々は好みのファッションを楽しむようになりました。現在、中国には先進的なIT技術が溢れていて、そして、相変わらず、あの人々のエネルギーが渦巻いているようです。


 これから中国に留学する人たちはまた異なった体験をするでしょう。でも、中国であれ、どこの国であれ、「実際に行ってみないとわからない」と言う点は変わりません。それこそが留学の魅力であると思います。


                    “制服”を着た筆者と留学生の友人                    


街で見かけた“制服”を着た人たち


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