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更新日:2018年05月07日

【国際学部】リレー・エッセイ2018(3) 細野豊樹「趣味の切手と明治150年」

趣味の切手と明治150年

細野 豊樹


 私には、どれも中途半端な趣味・道楽がいろいろありますが、一番長く続けているのが切手の収集です。世界の切手を、小学生の頃から集めています。当時は、グリコが切手をお菓子の景品にしたことが契機となった切手収集ブームの末期で、記念切手が発行されると、朝から多くの人が郵便局に行列して買いました。こうした、手紙を書くのが目的でない退蔵需要に応えるべく、多い時には毎回3000万枚もの記念切手が発行されていました。やがてブームが去って、大量の未使用記念切手が退蔵される一方で、切手収集を始める子供が激減します。切手商の話では、今や日本の切手コレクターの平均年齢は60歳台なのだそうです。未使用記念切手が大量にあって、集める人が少ないわけですから、1960年代-1970年代に発行された記念切手の多くは、額面割れを起こしています。切手商を訪れてよく目にするのが、記念切手のシートを売りに来る姿です。提示される買取価格の相場は、額面の7割にすぎません。つまり、20円切手20枚のシートは額面で400円ですが、これが280円にしかならないのです。対照的に中国は切手収集が盛り上がっていて、希少な文化大革命期の記念切手などが高騰しています。1枚10万円以上の値を付けているものも少なくありません。近年、世界の切手がネットオークションで手軽に入手できるようになっていますが、アメリカや英国の初期のクラシック切手には、多くの人がビッドして人気があります。日本のクラシック切手の中で、私は明治初期の旧小判切手が好きなのですが、ネットオークションで買っているのは一部のマニアという印象を受けます。東京の切手商に聞いても、小判切手の需要はあまり無いようです。


 日本における大衆レベルの切手収集が育たなかった主因は、3000万枚といった多すぎる発行枚数と種類が多い乱発だと考えますが、欧米諸国との比較でみると、事なかれ主義に走る意匠の問題も無視できません。以下では、本年が明治150年であることと関連付けて、こうした記念切手の無難路線の中で、郵便事業創始者として、切手の意匠となっている回数が、おそらく最多である前島密に対する私なりの評価、本学との若干の接点などについて論じたいと思います。


日本の記念切手の事なかれ主義

  2018年は明治改元150周年であり、各地で記念行事が催され、10月には記念切手が発行される予定です。ネットで調べても、今のところどういう意匠になるかは分かりません。最近の記念切手に多いのは、1シート10枚の小型シートに、それぞれ異なる10種類のテーマをあてがうデザインです。もしそうなら、五箇条の御誓文や、前年の大政奉還あたりは有力候補でしょう。問題は残りの意匠です。歴史的には、薩長を中心とする討幕派の軍が、約3倍の兵力で臨んだ幕府軍を敗走させた鳥羽伏見の戦いは、有力候補であるべきだと思われます。この敗戦ですっかり弱気になった徳川慶喜が江戸に逃げ帰って恭順・降伏を選択したという、その後の展開の面でも、旗本や譜代大名が戦力として全く役に立たないことを、これに先立つ第二次長州征討での連敗と相まって証明したという意味でもです。フランス革命などと比べると、桁違いに推定死者数が少ないのが明治維新の特色ですが、そうなったのは、徳川慶喜が継戦意欲を完全に失うくらい、軍事力としての旗本・譜代大名が頼りなかったからであり、それが鳥羽伏見の戦い等で露見したのだと言えます。幕府は幕末に最新の武器を輸入し、歩兵隊を次々と組織し、フランスの顧問団による軍事教練を行ったわけですが、太平の世に慣れ切った旗本・譜代大名の危機意識が低い中で、有能な将官級の人材や将校が決定的に足りなかったのが致命的でした。鳥羽伏見の戦いについては、NHKが年始の特別企画で掘り下げており、幕府軍は近代装備で負けていたわけでなく、主たる敗因は指揮のまずさであったことが描かれています。


 しかし、事なかれ主義の行政文化の中では、鳥羽伏見の戦いは採用されない可能性のほうが高いと推察します。何しろ我が国の記念切手では、源頼朝を意匠にした記念切手が一応あるものの、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も今のところ記念切手になっていません。真田幸村とか武田信玄とかをモチーフにすれば、人気が出ると思うのですが、金輪際それは無理でしょう。1968年に発行された、2種類の明治100年記念切手の、地味で無難なデザインをみれば、推して知るべしです。



 歴史教科書的には些末でも、一部の人たちの間では意義があって、内外で文句を言う人がいない、行政××制度100周年みたいないテーマが、採用されやすいのが日本の行政文化です。ですから、本年に全国各地で行われる記念イベント関連や、殖産興業や文明開化の類のほうが、採択される可能性が高いと思われます。


 そういう中で、吉田松陰をモチーフにした195910月発行の「松陰100年祭 PTA大会記念」が、日本の記念切手の無難路線の例外として目立っていると言えます。行政のボトムアップで決まったとは考えにくい意匠ですが、当時の総理大臣がだれかを考えると納得できてしまいます。幕末・明治の主要人物は、テレビや小説では頻繁に登場しますが、吉田松陰以外でこれまで日本の記念切手に採用されたのは、1991年の「ふるさと切手」における坂本龍馬の例以外は見当たりません。もしも鳥羽伏見の戦いや、高杉晋作、勝海舟、西郷隆盛といった歴史的人物が明治150年記念で取り上げられるなら、従来の流れから逸脱したイレギュラー現象となるでしょう。



  実は諸外国でも、アート、文化人、歴史的建築物、動物、景勝地といった、政治的に無難な意匠が多いのは事実です。それでも、世界史の教科書に登場するような事件や人物は広くカバーされています。例えばフランスを例に取ると、ラスコーの壁画、シャルルマーニュ、ジャンヌ・ダルク、アンリ4世、リシュリュー、ルイ14世、フランス革命、ナポレオン、ガンベッタ、第一次世界大戦、第二次世界大戦、クレマンソー、ド・ゴールなど、教科書頻出項目はかなり網羅されています。官僚が強いという点で、フランスや日本は政治文化が似ているのですが、切手の意匠の政治性という点では対照的なのが興味深いところです。端的なのが第二次世界大戦後ですが、戦前にもある程度認められる傾向です。



 ドイツでも、フランスほどではないにせよ、ルター、ビズマルク、クラウゼビッツ、アデナウアーなどの歴史的人物が記念切手になっています。歴史の帰趨を決めた主だった戦いについても、特に海戦は、サラミスの戦いからミッドウェーまで、主だったものは関連する国が記念切手を発行しています。そういう中で、日露戦争の日本海海戦が抜けているのが目につきます。中国史関係では、唐太宗 宋太宗 元太宗 明太宗のセットが、台湾から出ています。人気のある切手で、ネットオークションにおいて結構な額で落札されていたりします。林則徐、太平天国の乱、辛亥革命といった切手なども中国から発行されていて、少なくとも日本史よりは歴史を切手でたどりやすくなっています。アメリカでは、死後に歴代大統領(死後に限る)を始め、労働組合幹部、軍人など日本では考えられない多様な意匠が、一定のルールに基づいて採用されています。


  



評価されてよい前島密の郵便事業創設

 少しでも政治問題になりそうなテーマは避ける行政文化において、通常切手も含めるとおそらく最も頻繁に切手の意匠となっていると思われる人物が、郵便事業創設者の前島密です。郵便事業関係者の身内びいきの面が無くもないでしょうが、掘り下げてみると、前島密は記念切手に採用に値する大きな仕事をしたことが見えてきます。前島密が登場する最初の記念切手は、1927年の「万国郵便連合(UPU)加盟50年記念」ですが、郵便事業がスタートした1871年から僅か6年後の1877年に加入を認められたのは、歴史的な偉業だと評価されるべきです。明治初頭の日本では、列強が勝手に郵便局を国内に開設していて、郵便主権が侵害されていました。これを是正すべく、前島密はサミュエル・M・ブライアンを雇って、1873年にアメリカとの郵便交換条約締結に成功します。1875年の国際郵便開始の際に、国際郵便専用に発行されたのが3種の鳥切手です。デザインがなかなか洗練されていて、私が好きな切手の一つです。米国に続いて英国との郵便条約にもこぎつけます。英国はアメリカほど好意的でなかったようですが、効率的な郵便事業の全国展開を前に、拒否する理由が見当たらなかったと言えるでしょう。フランスも英国に追従しました。こうして主要列強との郵便条約が先行する中で、万国郵便連合への加入が円滑に実現したわけです。隣の清国が万国郵便連合に加入できたのは1914年であり、外国に郵便を出すには、外国の切手を自国のものと一緒に貼らなくてはならない屈辱を長年にわたり味わっています。図10は、日本切手と中国切手が一緒に貼られた例です。


 



 明治維新における日本は、17世紀あたりのヨーロッパなどと比べても、郵便事情が恐ろしく悪い国でした。武士が隣の藩に手紙を出すには、まずは自藩の江戸藩邸に送ってから、当該の藩の定期便に乗せなければならなかったようです。前島密自身、薩摩藩への復職を断る重要な手紙(後述)が届かなくて、誤解を招き窮地に陥ったと回顧しています。対照的に英国では、郵便事業が早くから国家の収益事業になっていました。17世紀に民間人がロンドンで市内の郵便物を1ペニーで配達する事業を開始して大好評だったものの、政府に睨まれて廃業に追い込まれて、政府がこれを取り込むようなことも起きています。フランスでも郵便事業は絶対王政の独占事業として運営されていました。


 英国のローランド・ヒルが、郵便物に切手を貼る近代的な郵便事業に改める改革を1840年に行った時には、国家による郵便事業のネットワークがある程度確立していました。ヒルの偉業は、政府が独占利潤を追求する中で郵便料金が高くなり、ミドルクラスでも手が届きにくくなっていた問題に切り込んだ、郵便料金引き下げの行政改革という面が強かったと言えます。


 前島密が、本務の税制改正との兼任で駅逓権正に任命された1870年において、日本の郵便インフラは極めて限られていました。全国に郵便局を設置する必要があったわけですが、新政府にはその財源が全くありませんでした。そういう困難な状況で、1871年の創業からわずか5年くらいの短い期間に4000以上もの郵便局が設けられました(図10)。今日の日本では考えられるようなスピード感です。その秘訣は、今日の特定郵便局の制度でした。全国津々浦々の地元の名士たちが、郵便局長の名誉と引き換えに、局舎や人員を提供したのです。後知恵的には、当時の日本は識字率が高くて、膨大な潜在需要があったということなのですが、地方の名望家たちの食いつきをある程度予想できた見通しと大局観、そして彼のアイデアを周囲に売り込み、飛脚業者等の抵抗勢力を説き伏せた説得力は、高く評価されてよいと考えます。


http://www.stat.go.jp/data/chouki/11.html


 前島密は、南は九州から北は函館まで、日本列島を行脚した経験を持っていました。貧乏な母子家庭出身だったので、商船について学ぶべく江戸から函館へ旅した際は、野宿したり、お寺や地元名士の家に泊めてもらったりしました。前島密は、世話になった無数の人たちの世界観、学識、経済状況に肌で触れていて、郵便事業に対して彼らがどう反応するか、ある程度見当が付いたものと推察されます。少なくとも当時の大部分のエリートと比べて、世間を良く知っていたと言えるでしょう。また、全国を旅して地理や交通事情に明るかったことは、郵便局の配置や運営に大きく役に立ったはずです。


 ここで、前島密の半生について概観します。今日の新潟県長岡に生まれた前島密は、豪農の父親が早逝して、武家出身の母親により育てられました。お金が無い中で江戸に出て、写本などをしながら生活費を稼いで、いろいろな識者に弟子入りしています。幕府海軍操練所に所属する、ある機関士の見習いとなったことを契機に、機関士としての腕を磨きます。商船について学ぶべく函館に行き、函館奉行所の船に乗り組んで、測量と交易のため長崎との間を往復するなど、航海の経験を積んでいきます。江戸に戻った際には、外国奉行の随員として対馬に行っています(長崎までは陸路)。


 洋行したくなり、フランスへの条約改正外交団の通訳に任命された何礼之(が のりゆき)の従者となった1863年が、前島密の人生の大きな節目となりました。長崎から横浜に向かう船が汽缶の漏水に悩まされ、幕府の使節団の出航に間に合わず、失意のうちに長崎に戻る中で、何から英語をマンツーマンで教わる機会に恵まれたのです。そして長崎で何の手伝いをする中で、合宿所を開いて薩摩藩等の貧乏学生の世話をしたことが縁となり、薩摩藩に招へいされます。当時は巻退蔵を名乗っていた前島密は、やがて薩摩藩士に召し抱えられるのですが、薩摩の倒幕路線についていけなかったようで、休職して江戸に戻った際に復職を断ることを決意し、幕臣の前島家の養子になる道を選択します。それでも、薩摩藩時代にできた、大久保利通や西郷隆盛といった明治維新のキーパーソンとの人脈が、駅逓頭就任が36歳という若さで大いに活躍するうえで役に立ったと、みることができると思います。前島密は、大隈重信とも接点がありました。二人ともグイド・フルベッキに師事していたのです(前島は主に数学と英語を、大隈は英語を教わった)。


 前島密の経歴で見落としてならないのが、彼の行政経験です。前島密は1867年に幕府開成所の数学教授に抜擢されるという栄誉を手にします。ところが、彼は早々とこのポストを捨てて、新設される神戸奉行所管轄の税関の官吏を志願します。末端で構わないと頑張って、何とか採用されたのです。前島密は英語ができたので、翻訳などで活躍の場があったようです。それまで彼は、学問や船の機関学・航海学の蓄積はありましたが、行政経験はありませんでした。教授から係長クラスへの自主降格でしたが、後の徳川慶喜が蟄居した駿河藩における奉行等の経験と相まって、前島密が明治政府において財政や郵便事業の分野で大きな仕事ができた土台になったと言えるでしょう。前島密は渋沢栄一とともに1870年にヨーロッパに派遣されて、その一環として郵便事業も見分しているのですが、行政経験があるのと無いのとでは、見るところが違ったと思います。


 行政では、山のようにあるディテールの詰めが大事です。例えば、横浜、神戸、長崎および函館の郵便局の新築に当たっては、前島密しか分かる人がいなかったので、図案および立地設定を自分で行うなど、最初は細かいことまで自ら決めていく必要がありました。郵事業が立ち上がると、細々としたトラブルへの対処に追われます。例えばボロ布を原料にした国産の切手用紙の品質が悪くて、切手の目打ちをうまく打てなかったといった問題です。こうした課題に逐一対応するにあたっては、税関官吏や奉行として培った手腕が大いに役立ったと考えられます。



 政府における前島密の本務は税制改正だったので、郵便事業に割ける時間は限られていました。2つの重要な職務を見事にこなした前島密には、並外れたマネージメントの手腕があったといえます。


結びに代えて――前島密と本学の若干の接点など

 最後に、前島密と本学の若干の接点について触れたいと思います。上述のとおり前島密は幕府開成所の数学係に任命されましたが、開成所および後身の大学南校等が1863年から1873年まで立地したのが、一ツ橋校地でした。わずか1年くらいの間ですが、前島密が、今日私たちが学業に励むこの場所で働いていたのです。開成所は東京大学の前身の一つで、1873年に今日の白山通りの向かい側にある神田錦町に移転して、後に東京大学に改組されます。


 幕末の開成所およびその後身である開成学校、大学南校等は、外国語の教育などを通じて、多くの人材を世に送り出しました。貢進生といって、藩から派遣された秀才たちが集ったこともありました。岩倉使節団の派遣を具申するなど、明治政府に影響力があったお雇い外国人のフルベッキは、大学南校の教頭でした。小村寿太郎や、本学と関係のある鳩山和夫(共立女子職業学校第6代校長の鳩山春子の夫)は、大学南校で学んでいました。一ツ橋校地の歴史的意義については、東京大学関係者がまとめた詳しい資料があるので、そちらを参照してください。


 大学ランキングなど無い時代に、決められた学歴エリートの出世コースなど存在しない中で、前島密は長岡、江戸、函館、長崎などにて様々な人材に師事して、主体的に学んで、大きな仕事をしました。その後、帝国大学の卒業生たちが、先進国の中でも最強クラスの官僚機構を形成し、日本の西欧列強へのキャッチアップに大きく貢献しました。しかし、切手の意匠の事なかれ主義にみられるような弊害もみられます。共立で学ぶみなさんは、前島密に倣って、いろいろなソースからどん欲に知識を吸収する、行動的で主体的な学びを目指してほしいと思います。既存のシステムが制度疲労を起こしている中でのキャリアの模索という意味で、今日の日本と明治維新期は案外似ているのです。



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