共立女子大学・共立女子短期大学

クリックでメニューが開きます

HOME

進路

OGファイル

Vol.40 中村真奈紀(旧姓:菅家) 10回生

Vol.40 中村真奈紀(旧姓:菅家) 10回生

1.自己紹介

1999年に結婚し、2000年に第一子出産、令和元年は、私たちにとって結婚20周年の記念すべき年です。私は、放送局で7年、フリーになって7年、アナウンサーという職業を勤めてきましたが、第一子出産を機に一線を離れ、この20年間は、主婦業を満喫しつつ、二人の息子を通しての社会参加をして参りました。学校関係の役員はもちろん、謝恩会の司会、放課後児童のためのイベントの開催、町の小さな絵本屋さんでの乳幼児向け読み聞かせなど、子どもを見守りながら、自分の特技も生かすことができる充実した時間でした。
最近は、フリースクールや高齢者施設でのイベントに出演したり、視覚障害者に広報誌や図書を音訳したり、活動の幅を少しずつ広げています。夢は、身近な人の門出や記念日をプロデュースすること。結婚~金婚式、出版記念、個展などなど、司会のお手伝いをしたいです。

  • 発表会司会

  • 朗読風景

2.共立二高の良さ、今の自分のためになっていること

共立女子第二高等学校から、青山学院女子短期大学英文学科に入学、卒業後は都心の会社に勤めました。特に社会人としての目標もないまま入社し、OL生活を送っていましたが、その会社で出会った先輩の夢に刺激を受け、自分は何を目指していくのかを真剣に考えました。そして見つけたアナウンサーという職業、たまたま仙台の東北放送で一名採用の公募があり、後学のために受験したところ、約100倍の難関を突破し、未熟ながらも局アナという職業につくことになったのです。女子アナ人気の時でしたので、地方の放送局でも、東京で行われた一次試験は数えきれないほどの受験者でした。最終面接では学生時代のことを多く質問され、私は、高2の夏に登った燕岳登山の話をしました。「登山者は、どんなに疲れていても、すれ違う時はお互いに「こんにちは」と、挨拶を交わし、すると不思議に足取りが軽くなり、もう駄目だと思っていたのに、次の一歩が出るんです。」という内容だったと記憶しています。面接会場では、私の第一印象から登山の話が意外だったようで、その場が和やかに盛り上がりました。

実は、高校時代の私は、当時一番厳しいと言われていた運動部に入部したものの一年もたずに退部。時間を持て余して過ごしていましたが、空いた時間に、英会話教室に通うようになり、長期休暇には、共立二高ならではの、北アルプス登山やスキー教室に積極的に参加しました。結果として、その時の経験が生かされ、今の自分があるのだと、改めて感じます。行事だけでなく、普段の学校生活の中でも、生物や植物の恵みをゆっくりと味わうことができ、その環境が、貴重な経験となり、自分を支えてくれたのだと思います。明るい友達とお喋りしながらの、終点高尾駅までの通学区間、当時も今も、大好きな道のりです。

女子アナ時代のプロフィール写真

3.受験生へのメッセージ

今、目標を持って進学先を決めているのでしたら、それは大きなパワーになるでしょう。でも、特に目標もなく、何となく進学を考えていても、それは自然なことのように思います。自分の進むべき方向が見えてくる時期は、人それぞれ。今は、高尾山の麓の自然豊かな学校で伸び伸びとと過ごしてください。ここでなら、いつかきっと自分を導いてくれる何かに出会えると、私は確信しています。肩ひじ張らずに、しなやかに、貴重な時代を楽しんでください。

4.共立二高を一言で

元気な女の子たちが集まる、先生との距離が近い、アットホームな高校です。友人とも恩師とも、卒業してからも、ずっとお付き合いさせていただいています。

5.二高卒業後のプロフィール

1982年 共立女子第二高等学校 卒業
1984年 青山学院女子短期大学 卒業
1984年 (株)ニッポン放送プロジェクト 入社
1985年 (株)東北放送 入社 報道局アナウンス部配属
1992年 フリーアナウンサーに転向
     テレビ東京、テレビ神奈川、テレビ埼玉などで、情報番組のレポーターやキャスターを担当