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vol.19

共立の卒業生にインタビュー!

働き女子のホントのキモチ

「誰しも、何かをきっかけに今の職業を離れることがあるかもしれないけれど、大切なのは自分で次の道を考えることだと思います」

2018.02.06

アーティスト

ゴゼルスキー福間園佳(ごぜるすきー・ふくま・そのか)さん

国際文化学部・アメリカ文化コース・1997年度卒業

今回は、海外で活躍している先輩にインタビュー。お話を伺ったのは、舞台のセットデザイナーを経て、現在はセットデザイン・アシスタント、フリーのアーティスト、木工雑貨のクリエイターと三足のわらじを履く、ゴゼルスキー福間園佳さんです。
 
大学在学中に芽生えた夢を叶えるため、アメリカの大学で舞台美術を学び、フリーランスのクリエイターへ。そんな福間さんの人生について、たっぷりとお話を伺いました。

趣味の演劇鑑賞を仕事に! アメリカの大学で必死に学んだ日々

「大学3、4年の時に、演劇鑑賞にはまっていました。月に一度は大きな舞台を観ようと、帝国劇場へは頻繁に通いましたね」
 
「演劇の仕事がしたい!」と、国内の劇団から資料を取り寄せ、夢を実現するための道のりを模索していた、福間さん。しかし、日本で演劇の仕事に就く難しさを目の当たりにします。
 
「高校の時に美術部だったので、演劇に携わるなら“セットデザイナー”を目指そうと決めました。共立女子大学の文芸学部にも劇芸術コースがあり、舞台美術を日本国内で学ぶこともできるのですが、私の場合は、いっそのこと舞台の本場・ブロードウェイのあるアメリカに行ってしまおうと考え、アデルファイ大学に編入しました」
 
福間さんは共立女子大学を卒業後、ニューヨーク州ロングアイランドにある、アデルファイ大学の演劇学科に進みます。
 
「大学では、テクニカルシアターという、演劇の技術的な部分を学びました。入学当初、マイクロカセットに授業を録音して寮で聞き直していたほど、真面目な学生(笑)。苦労もあったけど、楽しい2年間でした」
 
福間さんは無事に大学を卒業。ですが、すぐ社会に出る自信は持てなかったといいます。
 
「編入で2年間しか学べなかったので、プロとして働くには知識不足だと感じていました。そこで、当時の担当教授に相談したところ、マスター(修士過程)へ行く道を薦められました」
 
教授の薦めを受け、1999年、福間さんはニュージャージー州立ラトガース大学のメイソングロス芸術校演劇学部へ進学。さらに高度な舞台美術の技術を必死に学びました。
 
「提出するプロジェクトが多くて、常に、睡眠不足(笑)。でも、教授がブロードウェイの経験者だったので、かなり本格的な技術が習得できたと思います。ラトガースで過ごしたあの3年間で、もう社会に出ても大丈夫だろうという自信が持てました」

▲大学の夏休み・冬休み期間は、アメリカへ短期留学していた福間さん。「アメリカへ渡ったのは、自然な流れでした」

演出家から罵倒されたことが、一線から退くきっかけに

2002年、ラトガース大学で修士課程を終えた福間さんは、フリーランスのセットデザイン・アシスタントとして活動を始めました。
 
「かけだしの頃、クララ・ジグレロワというセットデザイナーのアシスタントをしていました。彼女のアシスタントとして、多くの作品に携わりましたが、一番思い出深い作品は『ジャージー・ボーイズ』です。カリフォルニアのラ・ホヤ劇場から始まって、2005年にブロードウェイで公演。10年のロングランとなりました」

▲『ジャージー・ボーイズ』ブロードウェイ公演の模型。福間さん含め2名のアシスタントで、2週間かけて制作した力作 (C) Klara Zieglerova


「『ジャージー・ボーイズ』に関わっていた頃は、バックグラウンド・リサーチ(時代考証)や図面制作など、多岐に渡る仕事を担当しました。わたしは、調べものをする時は必ず、図書館を利用しますが、同僚から驚かれます。なぜ、そんなことまで調べられるの?と。わたしは共立女子の図書館が大好きで、在学中もよく利用していました。“調べものは図書館で”というのは、共立で得た、大きな学びの一つですね」
 
こうして福間さんは、ご主人と住む自宅があるロングアイランドとニューヨークシティを行き来しながら、堅実にキャリアを重ねます。そんな折、2007年に転機が訪れました。
 
「自宅から自転車で通える距離に、ジョン・エングマン劇場という商業劇場ができました。地元で舞台の仕事がしたいと劇場スタッフに応募。セットデザイン・アシスタントという役職はなかったものの、ペインターとして採用されました。その劇場では、ペインターだけでなく、セットデザインや大道具の制作など、幅広く仕事を任せてもらいました」

▲マンハッタンのフレドリック ロゥ 劇場にて上演された『成功の甘き香り』の一幕。福間さんがセットデザインを担当した


福間さんは、プライベートも仕事も充実していたと、当時を語ります。そんな折、突然の不幸が訪れました。
 
「2011年末に夫が急死しました。でもその頃、ブロードウェイ・ミュージカル『42nd Street』のセットデザインの仕事を控えていたため、悲しみに暮れる時間がありませんでした。夫を亡くした喪失感と、ジョン・エングマンのような小さな劇場でブロードウェイ作品を成功させなければというプレッシャーが重なり、不安定だったのだと思います。演出家との意思の疎通に行き違いが増え、状況は最悪に…。テックリハーサル(装置、照明、音響の稽古)中の私の失敗が原因で、俳優やスタッフ全員の前で演出家から罵倒されてしまいました」
 
その時のことを「怒りを通り越し、悲しみを感じた」という福間さん。とうとう、「(この仕事は)わたしに向いていない」とセットデザイナーの一線から離れることを決意します。
 
「元々、向いていないことはわかっていました。でも、奮起して何とかやっていたのだと思います。あの出来事で緊張の糸が切れたのかな…。次に進むタイミングだと自分に言い聞かせて、劇場と決別。セットデザイナーの仕事からも離れました」

自分の作りたいものを好きな時に作る、今の生活が好き

現在、ニューヨーク中央部に家を購入し、犬との田舎暮らしを満喫している福間さん。依頼があればセットデザイン・アシスタントは続けながら、ライフワークであるミクストメディアアートの活動(http://sonokacounty.com)や、木工クラフトの制作・販売を行っているそうです。
 
「自分の作りたいものを好きな時に作る…。そんな今の生活が気に入っています。今、自宅があるのは、ニューヨークシティから、クルマで5時間もかかる場所。時には、42インチ(約1メートル)も雪が降るんですよ(笑)」

▲「イージーコースではないけれど、後進への指導の道も検討中です」と、今後を語る福間さん


憧れた華やかな舞台の仕事に就き、煌めく表の部分も不条理な裏の部分も経験した福間さんに、今の思いを聞きました。
 
「やっぱり、(仕事に)向き・不向きはあると思う。ほとんどの人が、不安な気持ちを紛らわせて、仕事を何とか続けているのではないでしょうか。何かをきっかけとして今の職業を離れることは、決して悪いことではないと思います。大切なことは次の道を考えること。基礎さえしっかりしていれば、それを応用してまた新しい何かを始められる。わたしは、セットデザイナーの一線からは外れましたが、必要としていただければ、舞台の仕事は続けるつもりです。今は、自由に好きなことをしながら、気の向くままに生きていけたらなと思っています」
 
「これから、共立女子・サッカー部時代の友人たちと会うんですよ」と楽しそうに話す、福間さん。文化も言語もビジネスリテラシーも違う海外で、特殊なクリエイターの世界に身を置く苦労は、容易には想像できません。しかし、日本を飛び出し、懸命に足跡を残した先輩のひたむきさは、今迷いを抱えている学生への大きな勇気となることでしょう。

※ 記事中の情報は取材当時のものです。現在の状況とは異なる場合がございます。

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