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vol.7

共立のあの先生が解説!

キャリコ通信

文豪「夏目漱石」生誕150年記念! 神保町で青春時代を過ごした漱石の魅力を知ろう

2017.03.27

今年2017年は、国民的文豪・夏目漱石の生誕150年の年になります。
 
じつは夏目漱石は、共立女子大学があるこの神保町で、青春時代ともいえる11歳から21歳までの10年間を過ごしました。本学本館の前にある学士会館は、漱石が通った大学予備門(現・東京大学)の跡地に建っています。
 
漱石の価値観や、のちに生み出される漱石文学の礎は、この神保町時代に形作られたとも言われています。私たちとも深いつながりのあるこの「学生の街」神保町で、漱石はどんな10年間を送ったのでしょうか。共立女子大学 文芸学部 文芸学科で日本近代文学を教える、深津謙一郎教授に詳しいお話を伺いました。
 
「漱石が生きた明治時代、家は長男が継ぐものでした。夏目家の5男として誕生した漱石は、いらない子供として塩原家へ養子に出されます。ところが、9歳の頃に養父母が仲違いして離婚し、漱石は塩原姓のまま夏目家に戻されることに。その後、漱石が20歳になる頃、長男、次男が次々に結核で逝去。3男も頼りなかったため、夏目家は跡継ぎ候補として漱石をお金で買い戻します。こうして、子供の頃から物のように家を行き来させられた経験は、家族という当たり前のものを、当たり前に受け取ることのできない苦悩を漱石に与えます
 
このように、普通とは違う家庭環境を背負った漱石でしたが、実家に戻った後、大学予備門(現・東京大学)に入るために有利な錦華学校(現・お茶の水小学校)へ11歳から進学することに。ここから、神保町と関わりの深い10年間が始まります。
 
「錦華学校卒業後、同じく神保町にある東京府立第一中学校の正則科へ進学します。正則科とは、日本語で授業を行うクラスのこと。しかし大学予備門へ進学するためには英語で授業を行う変則科へ入る必要がありました。にもかかわらず、漢文学に慣れ親しみ、英語を嫌っていた漱石は、英語を避けるように正則科へ進んだのです」
 
結局、大学予備門へ行くためには英語を勉強すべきという兄たちの助言に従い、駿河台の成立学舎に転入。そこで苦手な英語と葛藤した末、17歳で念願の大学予備門へ合格します。
 
「神保町で学生生活を過ごした10年の間、漱石は普通とは違う家庭環境に翻弄され、いくら勉強しても本質が掴めない英語と向き合いながら、“どんなに突き詰めても理解できない存在=他者とはなにか?“という一つの疑問に行きつきます。小説家として執筆活動を行った38歳から49歳までの約10年間、漱石はこのテーマについて、視点を変えて様々な角度から書き続けました」
 
漱石の作品でよく知られる『坊ちゃん』や高校の教科書に載っている『こころ』なども、家族を主題に他者や自分とは何かを問うた作品です。若い頃の経験から、当たり前のことを当たり前として受け取ることができず、理解できないものと真摯に向き合いながら、「真実はなんなのか」を生涯作家として問い続けました。そんな漱石にとって、理解できないものの代表が女性だったのです。
 
「漱石にとって女性は自分とは違う理解しがたい存在だったはずです。一般に私たちは、理解しがたい他者に直面したとき、うわべだけの解釈でそれをわかったつもりになったり、あるいは、そもそも他者の存在を無視したりして安心を得ようとします。しかし漱石はそうしたことをせず、女性のわからなさに向き合い続けました」
 
実生活ではお見合い結婚で妻・鏡子と結婚した漱石。作品では鏡子を彷彿とさせる、ものをはっきり言う気の強い女性像が多く登場します。
 
「小説『行人』や『道草』など、漱石作品の主人公たちは、もっとも身近な他者である妻の本心を知りたがります。理解できないものへの怖れが女性嫌悪に転じる側面はもちろんありますが、妻の本心に執着するということは、それだけ妻を愛しているということでもあるのです。あるいは、漱石の鏡子の関係もそうだったのかもしれません」
 
そんな偏屈な面もある漱石ですが、“人格者で教養のある文豪”という現在のイメージは、死後、岩波茂雄(神保町の地で創業された岩波書店の創業者)など、漱石のお弟子さんたちによって作り上げられたもの。漱石は生前、朝日新聞社専属の作家として新聞小説を書いて稼いでいましたが、文壇からは商業作家と見なされ、純文学の作家たちからは認められていなかったのだとか。
 
「当時文壇では、シリアスに自分の心情を吐露する“自然主義”こそ、もっとも正統な純文学であるとされていました。代表的な作品では、被差別部落出身の主人公に自分の出自を物語の中で告白させる島崎藤村の『破戒』などがあります」
 
一方、漱石は新聞の売り上げのため、広範な新聞読者を楽しませる物語を創作し続けました。そのため当時の文壇主流派から漱石は“余裕派”などと批判的に名付けられていました。しかしこれまでお話ししたように、漱石の小説をしっかり読めばそれが単なるエンターテイメントではないことがわかります」
 
「漱石が商業作家の道を選択したのは、教員稼業に嫌気がさしたということもありますが、家族の影響も大きかったようです。浪費家と言われる妻・鏡子と5女・2男の子供たちに加え、成功した漱石に金を無心してくる養父母や義父たちの生活を支えるため、高額の報酬が期待できる新聞社の専属作家となったのです」
 
苦労が多い生活の中で、神経質で突き詰めすぎる性格も災いし、常に胃を病み神経衰弱に苦しみ続けた漱石。そのなかで生み出された作品には、漱石の苦悩や人生に対する疑問がぶつけられています。
 
大学生になってあらためて漱石作品を読み返してみると、中高生の頃にはわからなかった「読み」に出会えると、深津教授。ぜひこの機会に、漱石文学の魅力に触れてみてはいかがでしょうか?

▲深津教授に伺った、大人になってから読むべきオススメの漱石作品。昨年、二宮和也主演でドラマ化された『坊っちゃん』と、漱石の自伝的作品と言われる『道草』。ともに、自らの体験をもとに書かれた作品

取材にご協力いただいた先生はこの方!

共立女子大学 文芸学部 文芸学科

深津謙一郎 教授

研究分野は、日本近代文学。近代文学全般に詳しいが、なかでも戦争文学や村上春樹などに精通する。

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