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vol.1

赤裸々過去トーーーク

先生!二十歳の頃、なにをしていましたか?

大学の演劇部が私の原点。研究者への道を支えたのも舞台経験でした。

2018.09.28

▲徳島大学在学中の二十歳のとき、語学研修で1カ月間、中国を訪れていたときの1枚。紫禁城を一望する景山公園に立つ村井先生

文芸学部 文芸学科

村井華代 教授

愛媛県出身。1992年、徳島大学卒業。明治大学大学院文学研究科で西洋演劇の研究を始める。同研究科博士後期課程を経て、早稲田大学演劇博物館21世紀COEプログラム助手を務め、2008年より共立女子大学へ。近年はイスラエルにおける国家と演劇の関係を軸に研究を進めている。授業では「西洋演劇理論の歴史」を、ゼミでは「第一次・第二次大戦と演劇」を扱う。2015年度から3年間、舞台をつくる授業プロジェクトKALECO主宰を務めた。

「西洋演劇の歴史」の授業でおなじみの村井先生は、ゼミ生の間では“熱い先生”で有名。実は、大学時代に演劇に没頭していたことが、その原点だと言います。当時は、俳優志望だったそうですが、どのようにして演劇学研究者への転換を図られたのでしょうか? 二十歳の頃にさかのぼって、お話を伺いました。

二十歳の頃、なにをしていましたか?

「大学で演劇部デビュー、留学も経験、新しい世界に出会いました」

▲大学一年生のとき、清水邦夫『タンゴ・冬の終りに』の舞台で演じる村井先生。主人公の幻想の中に現れる幼なじみの少女の役


大学入学とともに念願の演劇活動に。何にでも体当たりで取り組んだ学生時代

「私が二十歳の頃、時代はバブルのど真ん中。でも、四国の徳島で大学時代を過ごした私にバブルを感じるような派手な思い出はなく、苦学生そのもの。上京した同級生がワンレン・ボディコンで帰ってきたときは唖然としたものでした。
 
大学では迷わず演劇部に入りました。実は幼い頃から関心があったのですが、実家は田舎で演劇を見る環境も作る環境もありませんでした。ようやく演劇を始めることができたのが大学だったのです。すべてが自由で面白く、俳優でも、スタッフでも、何でも全力で取り組みました。部活動以外にも、アルバイトでお金をためて東京の劇場やワークショップに行ったり、大阪の書店に演劇書を探しに行ったり、演劇のために動き回るようになりました」

海外留学で新しい世界を発見

「そんな生活でしたが、演劇以外でも大事な体験はありました。良かったと思うのは、海外留学です。3年次の夏、上海にある復旦大学へ1カ月間、大学の先生に引率されて語学研修に行きました。それが初めての海外渡航です。参加者は10人ほどでしたが、男女問わず募集されたのに、参加したのは全員、女子学生。やはり、女性のほうが行動力があるのでしょうか(笑)。私は中国語をまったく勉強したことがなく、“何となく”で参加したのですが、2週間くらいすると現地の人とそこそこ会話していました。20歳くらいの吸収力というのは、すごいと思います。
 
語学でなくても、理由は何でもいいのです。大学生のうちに海外滞在を経験することは大きな成長につながります。自分の知らない世界に身を置くと、それまで自分が気にしていたことが、とても小さいことだと気づくからです。それに世界を知ることは楽しい。自分という存在の発見にも、勉強すべきことの発見にもつながりますし、人間としてタフになれます。ぜひ、学生のうちに異文化に飛び込んでほしいですね」

その時、歴史は動いた!

「俳優志望から研究者の道へ。転機はふたりの師から与えてもらいました」

▲明治大学大学院・演劇学研究室時代の村井先生。研究室は、一人ひとりにデスクが与えられた恵まれた環境だった


俳優ではなく、演劇研究の道へ

「学生時代は、俳優になりたいと思ったこともありました。そうならずに演劇学の研究へと進むきっかけになったのは、徳島大学時代の指導教授の言葉です。『卒業後、東京で俳優になる勉強をしたい』、と言ったところ、『あなたは考えることが好きなんだから、大学院で演劇を見つめ直すという方法もある』という思いがけない言葉が返ってきました。もう一つは、当時私が通っていた、瀬戸内美八さんという元宝塚のトップスターが徳島で開いていたダンススタジオでのこと。ある日のレッスンの最中、瀬戸内さんの後姿に、『俳優というのはこういう人の職業だ。私がなっても凡庸な俳優が一人増えるだけだ』とはっきり思ったんですね。それで、「自分にしかできないことは何だろう」と考え、それを探すために大学院の道を選びました。
 
それで明治大学大学院の入学試験を受け、何とか合格して上京したのですが、折しも、東京は小劇場ブームが終わる頃。誰もが舞台に立つお祭りのような時代は過ぎ、新しい方向性が模索されつつありました。この演劇の転換期に、自分のやるべきことに確信が持てないまま、大学院の勉強を続けることになりました」

大学での活動が研究の基盤に

「研究生活も平坦ではありませんでした。何をやってもいいわけですが、何をやるべきかはわからなかったのですから。しかし、そこでヒントになったのは、大学時代の学びと演劇でした。大学での専攻だった哲学と、舞台に立っていた時の感覚を基に、演劇の現象学について、海外の文献を頼りに何とか自分なりの研究を始めました。
 
その後、研究のテーマも方法も、さまざまな出会いの中で変わりましたし、教員としても試行錯誤がありました。でも、どんなに遠回りしても、「自分にしかできないことは何か」、そう問いかけた若い日の延長線上にいると常に感じます」

村井先生のイタい話

「学生時代、演劇に夢中になりすぎて、授業がおろそかになっていました」

▲大学時代の演劇部の舞台。大人びた顔立ちの村井の先生のところへは、“老け役”がよく舞い込んできたとか


大学生活の中心は演劇!

「今でこそ、学生に教える立場で教壇に立っていますが、私自身はむしろ不良学生でした。専攻の授業が少なく、余り関心のない授業をたくさん取らなければならなかったのですが、演劇に没頭している私にとってほとんどの授業は眠いだけ。だから授業に出ないで、自分の気にかかったテーマについて大学図書館で勝手に勉強していました。そこで夢中で勉強したことは今でも役立っていますが、試験には関係ないので成績はボロボロでしたよ。先生から見れば、ふざけた学生だったでしょうね。
 
演劇部では、つかこうへいの『熱海殺人事件』の演出をしましたが、これはイタイというよりキツイ思い出です。演出家は、戯曲を理解するだけでなく、自分のイメージを乗せ、キャストやスタッフが自発的に動けるように説明しなければなりません。『熱海…』は笑いの要素も多い作品ですが、深遠な哲学を含んだ難しい戯曲です。独学でずいぶん勉強しましたが、他の部員の理解を得られず、リハーサルは難航、毎日が針のムシロでした」

自分が積み重ねた経験が、必ず出口を示してくれる

「二十歳の頃には、将来自分が大学の先生になるとは想像もしませんでした。でもあの時代が基盤となって今があるのは確かです。だから、学生の皆さんには、今、自分の人生を支える経験や勉強をたくさん積み上げてほしいと思います。結果はすぐには出ないでしょうが、それで当たり前です。人生は自分で切り拓くものですが、運命は向こうからやって来るものですから。運命が訪れるその日、自分にとって頼れる<自分>でいられるよう、勇気を出して、思い切り本気の経験を積んでほしいと思います」

取材後記

今回の取材に対して、20歳の頃を振り返りながら、熱を帯びた口調で当時のことを語ってくれた村井先生。若い頃に自分の道を模索し続けたことで、演劇学者として教壇に立つ現在があります。そんな経験から、「今、苦しんでいる若い人のため、自分に何ができるかをテーマにしている」ともおっしゃっていました。もし、自分を信じ続けることに迷いがある、そんな思いがあれば、村井先生の存在を思い出してみてください。きっと熱いエールを送ってくれることでしょう!

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