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更新日:2017年11月30日

【国際学部】リレー・エッセイ(24) 吉竹広次「アラビア半島の片隅で・・・幻の国での援助外交記」

アラビア半島の片隅で・・・幻の国での援助外交記

吉竹広次


 ゼミや開発経済学の受講生から、「大使館やJICAで、どんなことしてたんですか?」、「どうして中東?」と聞かれても、一口に答え難く、広報誌などでの断片的な紹介も中途半端でした。ここでは、少しまとめて応えたく、これまで言及しなかった南イエメンでの経験、考えたこと、思ったことを綴ってみました。ずいぶん前の話ですが、今デジャヴュのように、中東は再び、三たび戦乱の地となり、世界も新冷戦(第二次冷戦)に入っています。イエメンは内戦が泥沼化し、国連が「最悪レベルの人道危機」を宣言、世界食糧計画(WFP)は「前例のないレベルの飢えと食糧不足」を警告する状況です。これからの国際協力や途上国開発などを考える皆さんに、個人の限られた体験ですが外交や援助の末端、「現場」を感じてもらえたらと思います。



 

              図右:アデン市街


僕は二十歳(はたち)だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて、誰にも言わせない。

・・・ポール・ニザン『アデン・アラビア』の鮮烈な書き出しだ。


 偉大な哲学者サルトルと高校からの同級で、2人して進んだ入学者僅か24人のフランスのエリート中のエリート校にいながら、透徹した目でエリートの俗物根性や権力・権威を痛烈に批判したニザン(ダンケルクに迫るナチスとの戦いに戦死)・・・68年フランス「五月革命」の学生たち、そしてベトナム反戦、沖縄・成田、70年安保、学園紛争に揺れた日本でも反体制の学生に親しまれた。20歳前、僕も学校の片隅で、寝袋にくるまれて難解なマルクスを傍らに、回ってきたニザンを読んだ。共感した。サルトルが寄せた長文の追悼にも感銘し、またニザンが引用した、ドイツ人探検家ニーブル『アラビア記』の「快適な生活と繊細な食卓を好む、あるいは女性たちといっしょに心地よく時を過ごしたいと思っている若者たちは、アラビアには行ってはならない」という一文に挑まれた。とはいえ、アデンもアラビアも遥けき彼方だった。


 ・・・10年後、僕はアデンにいた。JICAから外務省に出向し、在外赴任先の希望をきかれ、迷わず「中東」をあげた。当時、イラン・イラク戦争は2年目に入り、前年エジプトではサダト大統領が暗殺された。開発協力課から中近東一課に異動した頃、イスラエルのレバノン侵攻が取りざたされ、動向を告げる極秘公電(電報)が次々に入り、課をあげてその影響の分析に慌ただしかった。米国務省は記者会見で頑(かたく)なにそれを否定していたが、そんななか「サッチャー首相官邸(ダウニング街10番地)で深夜の緊急閣議」という至急報が入った。こんな情報、どうやって・・・と思っていたら、ロイターがレバノン侵攻をアージェントで伝えた。中東は硝煙の中だった。


 赴任したのはエジプトの大使館で、経済担当の二等書記官だ(国際慣例の公称位に、外交官には大使、公使、参事官、一・二・三等書記官が、領事官には総領事、領事、副領事がある)。エジプトは南イエメン(イエメン民主人民共和国、アデンが首都)も兼轄していた。着任後間もなく、本省(外務省を大使館など出先はそう呼ぶ)から中東外交強化の一環として、情報の少ない南イエメンの梃入れに、エジプト大使館にも南イエメンの政務(政治のこと)・経済を担当する兼任書記官を指名するよう指示があった。環境の厳しい、日本との関係も希薄な小国に希望者はなかった。大使直属のポスト、中江要介大使から「大変だが」とねぎらわれ、新任の身軽な僕に役目が回った。アデン!・・心が弾んだ。初めて降りたった空港からの道すがらは今も鮮明だ。それ以降は三月(みつき)とおかず出張し、大使館オフィス(正しくはchancellery)を置いた『アデン・アラビア』にも記される、クレッセント・ホテルに1週間ほどの滞在を繰り返す。

注:エリザベス女王も宿泊。豪奢ではないが、世界有名ホテル449に紹介されている http://famoushotels.org/hotels/1079


 アデンはアラビア半島の西南端に位置し、旧約聖書やコーランのシバの女王で名高いシバ王国もこの辺りとされる。モカ・コーヒーの由来である紅海の積出港モカも近い。紅海の出口、バブ・エル・マンデブ(涙の門)海峡を抜け、インド洋アデン湾に入ってすぐの天然の良港で、シバ時代ともいわれるが詳細不明な立派な貯水ダムが残され、オスマン・トルコは城塞も築いた。英国が覇権をにぎった時代にはインドにつながる海路の要衝から1839年に東インド会社が購入、その後1869年にスエズ運河が開通するとアデン保護領(のち南アラビア連邦)とし、アデンは世界4位の貿易港として賑わった。岩倉使節も米欧からの帰路、ピラミッドに立ち寄ったのち、1873年8月1日アデンに入港した。トルコ初の日本親善使節、エルトゥール号が和歌山・串本沖で遭難、台風の中、灯台守と樫野村の人たちが必死の救出を行ったことは、両国を結ぶ絆となっているが、その生存者69人をコンスタンティノープル(イスタンブール)に送り届けるため、日本海軍の帆船(比叡と金剛)が1890年11月30日アデンに入港、それを英紙も称賛とともに伝えた。鴎外や漱石など、船の時代に渡欧した人たちも皆、寄港している。ニザンよりも前に、フランスの詩人ランボーも『地獄の季節』を書いた後、筆を折って武器商人となりアデンに滞在した。彼がエチオピア人女性と暮らしたランボー・ハウスに微かな名残を留める。ハドラマウト山脈から急峻に下る、緑のない土気色の殺風景な山々が、青いインド洋に迫る凄絶な地。港がなければ街はなかっただろう。クレッセントの窓辺で、モノトーンに暮れなずむ街並みを眺めながら、ニザンを始めこの地を訪れた人々を想った。


 当時の南イエメンはアラビア半島唯一のソ連の同盟国、つまり「東」側だ。米国はシリア、リビアとともにテロ支援国家に指定していた。アデン港にはソ連の原子力潜水艦隊が駐留し、ソコトラ島基地とともに、ペルシャ湾からの石油タンカーが通過する世界一重要な海峡、ホルムズ海峡を窺っていた。ディエゴ・ガルシア島の米軍基地に対峙(たいじ)するインド洋の「米ソ冷戦」最前線だ。


 中東の異端児・南イエメンは独立から未だ10余年、時代は海路から空路に移り、船足も伸び、英領時代の中継港の栄華はBP製油所のタンクに往時の面影を残すのみで、中東ながら石油資源に恵まれない最貧国、まさにニーブルのアラビアだった。サウジアラビアやクウェート、ア首連などペルシャ湾岸富裕国にありがちな声高で、傲慢な人たちに比べて、アデンの人々の物静かで質素、過酷な環境にじっと堪える姿を好感した。大使の信任状捧呈に随行して会った30代半ばの大統領を始め、この国の人たちからは貧しい自国の発展という困難な課題に淡々と挑む意志とひたむきさが伝わった。男女差別の厳しいアラビア半島でいち早く女性の参政権を認めた国でもある。もともと援助機関員であった僕は、この国の人々の役に立てればと思ったが、援助は理想主義、外交はリアリズム、政府開発援助(ODA)は外交政策の手段だ。「ソ連の手先」とされ、日本との経済関係も大手水産会社1社がインド洋で紋甲イカを採るだけの南イエメンにはODAは政策的に極めて限られていた。


 インターネットの時代ではない。情報公開の少ない「東」側の国では統計や情報の扱いは慎重だった(ソ連は国際収支さえ非公表)。アデン出張時は、本省からの訓令(国連での日本への支持要請や、当時採択が迫っていた国連海洋法条約の逐条的な任国対応確認など)のほかにも、各省庁、中央銀行の局長、次官、時に大臣を訪ね歩いた。こちらは未だ20代、「霞ヶ関」なら雲の上の肩書と歳の差にはじめは気後れしたが、日本では実務は担当官が一番詳しく、実質的決定は課長レベルと、組織は「下」からの積み上げだが、途上国では「上」に情報も権限も集中し、「下」では埒(らち)が明かない。先進国からの外交官は若手が多く、`政府代表′であれば先方は気にしない。彼らはいつも多忙で、驚くほど優秀だ。多くが「日本人と話すのは初めて」。最初のうちは、訝(いぶか)しがられもしたが、中東に共通することだが、日本が中東で手を汚していないこと、また戦火が絶えない中東では、日本国憲法の戦争放棄が尊敬と羨望をもって広く知られ、やはり南イエメンも、その意味で親日的で、海外ニュースなどが限られるなか、なんでも話題にし、エジプト訛(なまり)の下手なアラビア語も交え、手立てを尽くすうちに少しずつ情報をとれるようになった。


 それでも赴任前に受けた「東」側での防諜研修(スパイ対策)もあって、入手した資料はアタッシュケースにしまってカイロの大使館に戻って開く。断片的な情報をジグソーパズルのように組み合わせる。細切れの経済・貿易データ、国連出先機関や周辺国からの情報など雑多な情報を突き合わせていくと、全てが指し示す方向は一点に収斂(しゅうれん)することに気づきハッとした。「ソ連の手先」という固定観念やアデン港に並ぶ原潜とは裏腹に、ソ連との関係が年々弱まっていること、「南イエメンのソ連離れ」だ。モスクワの日本大使館に南イエメンとソ連の要人往訪の記録を依頼した。イズベスチア(政府系新聞)やプラウダ(党機関紙)が殆どだったが、そこからも交流の希薄化が追認されるものの、確たる「背景」がつかめない。フランスやイタリア、中国(80年代前半は日中関係の蜜月期)の外交官との情報交換でも、彼らは困惑するだけだった。これらをまとめて、大使に報告すると「面白い、やってみましょう」。早速、本省に意見具申が出された。・・・この機を逃さず、米英の影響力が及ばないなか、「出過ぎず、出遅れず」(大使の用語のまま)、ソ連離れの助長に先鞭をつける。援助政策を転換し、援助を目に見えるレベルに引き上げ、日本のプレゼンスを示し、出方を見る。・・・といったもの、今風に言えば、「封じ込め」からエンゲージメント・関与政策への転換だ。`テロ支援国家′、「ソ連の手先」への支援、一蹴されるのではと気を揉んだ。


 大使室に呼ばれ、館長直披(ちょくひ)と記された極秘公信(書簡)を手渡された。思ったより、遥かに高い、広いレベルで検討されたことに驚いた。・・・「それでは、JICA出身書記官ならではの援助案件をみつけてください」と微笑まれながら、ハードルをあげられた。「はい、必ず」と応じたものの、南イエメンの発展に貢献し、長期にわたって存続可能、かつ日本の援助としてモニュメントとなる優良案件を探すことは厄介だ。途上国でこうした案件を見つけるのは思うほど簡単ではない。ODAは「要請主義」、要請を受けてからが通例だが、独立後間もなく、「西」側のODAに不慣れな国に「要請」を委ねても期待できない。上手くいかなかったODAは山ほどある。一人でやらなければならない仕事を思うと援助政策転換の喜びも重圧に変わった。貧しい人びとに役立ち、資源が乏しいこの国に、できれば外貨収入(紋甲イカさえも毎年、水揚げがおちていた)をもたらす、自立して運営できるもの・・・大学やJICAで学んだ、開発経済学の技法も統計データがなければ蟷螂(とうろう)の斧だ。


 外交活動は幅広く、政務や領事(邦人保護)、文化交流以外は外務省だけでは手に負えないので、本省にも大使館にも、JICAをはじめ他省庁や銀行などから出向(一定期間、所属機関を離れ外務省員として職務に従事)している(開発協力課は課長、首席事務官、庶務以外の担当官12人は全員が出向だった)。公共事業などを所管しない外務省にはもともと事業のアイデアがない。事業官庁の財務省、経済産業省、国交省からの出向館員も助言してくれた。さらにカイロのJICA、商社の駐在員にも相談したが、どれも一長一短、来る日も来る日も考えた。車からアデン市街を眺めながら暗澹(あんたん)たる思いだった。


 そんな折、日本の水産会社がかつて試験的にエビ養殖にかかわった記録を見つけた。「技術的には可能性充分、採算性も高いと判断されるが、政治的リスクが高すぎる。」・・・「これだ!!」。カントリーリスク(戦争・内乱は勿論、資産接収・国有化、外国為替規制やコンテンツ規制など広く政策変更リスクも含む)は民間には無理でもODAならとれる。世界的に需要が拡大しているエビ(需要の所得弾力性が高い)、日本も東南アジアから大量の養殖エビを開発輸入しているし、バングラデッシュの輸出記事をル・モンドで読んだこともある。エビ養殖を事業化できれば欧州市場に出せる。投資基準となる内部収益率(IRR)も概算してみた。実施段階での主役となる水産庁国際部の知己に内々に打診すると、前向きだ。勿論、押しつけの援助は成功しない。受入れ国が当事者意識をもって、問題が生じても援助国頼りではなく、自ら解決する意志と能力が不可欠だ。   


 大使の承諾を得て、本省に根回し(事前了解を得る意味の官庁用語)の上、漁業資源省や財務省、アデン州政府を何度も回り、無償による水産養殖施設の建設と技術協力の可能性をサウンドして、外務省には要請から交換公文調印に至る外交手続きを詳しく説明、タイミングを待った。やがて彼らが必要な予算、候補地、人材を真剣に検討し始めた。責任者候補とも会った・・・これなら「GO」サイン。南イエメン政府から要請が出され、本省は即、受諾。実施はJICAの手に移る。


 ここまで進んだ後に、任期満了、JICA復帰となる。エジプトでもスエズ運河拡幅、カイロ大学小児病院、オペラ・ハウスなどに関わっていたが、カイロにはJICA 事務所がある。この小さな案件の行方が気掛かりで、この案件(「南イエメン水産養殖研究センター」:エビのほか2・3の魚種も加えた)を担当する部署への配属を申し出た。


 帰国後、水産庁や水産会社からなるJICAの設計調査団を編成し再訪すると、馴染みの人びとに、酒宴ならぬ`カート・パーティ′(飲酒は禁忌だが、イエメン人は麻薬の一種カートを噛む)で大歓待された。ソ連への不信もあり、始めは僕の話に半信半疑で取り組んだと、笑顔で内輪話もしてくれた。その夜、既に中国大使に転任されていた中江大使にクレッセントから手紙を書いた。北京から本省経由の私信で進捗を喜ばれ、「中南海(中国政府中枢。大使が親密にされた胡耀邦総書記のことだと直感した)にも南イエメンのことを話している」と付言された。


 JICAの設計調査で大事なのは前提となる最適な施設規模の策定で、JICA担当者の役目だ。過大だと、後に会計検査院の指摘を受ける可能性がある。他方、「水産養殖研究センター」が文字通り「研究」だけでは、収益が出ない。有償援助(貸付)と違い、無償(贈与)は収益性のない研究・教育・保健医療などが原則なので、「霞ヶ関」予算当局のとおりをよくするために、「研究センター」にしたのだが、研究が上手くいって、事業化したくても最貧国の南イエメンに資金の余裕はないだろう。貧しい南イエメンに収益をもたらす事業が狙いだ。そこで、「研究」の対象にパイロット事業による「事業化研究」を入れて、なんとか収益を出せる規模にした。設計までを見届けた後、米国大学院へ派遣留学となり、約10億円の施設完成には立ち会えなかった。僕の『アデン・アラビア』の終わりだ。


 さて、写真は調査報告書のパースと現在の姿(GOOGLE MAPの衛星写真)である。見比べると、λ形の取付道路の内側に、調査時の設計図どおりの施設が今も確認できる。


  

JICA調査団報告書(写真:筆者は右から4番目)



 

左:基本設計調査のパース / 右:GOOGLE MAP 衛星画像(基本設計図の取付道、施設が確認できる)


 1990年にソ連が混乱し(ソ連崩壊は91年)、支援が途絶えたことから南イエメンは自立を諦め、北イエメンと合併、現在のイエメンとなる。「南イエメンのソ連離れ」は現象としては事実だったが、意図した離間というより、ソ連経済の衰退が真の背景だった。冷戦の在勤時、ソ連情報はなんでも求められていたので、オデッサからの貨客船から降りてくるロシア人観光客について回ったこともある。彼らは観光より、外国人だけに買い物が許されるドル・ショップに向かう。服装は粗末で、品揃えの悪い店でも日用品を‘爆買’していた(交換性のないソ連ルーブルなのに、観光客はどうやってドルを入手するか知りたかったが、ロシア語の壁に阻まれた)。ここに既にソ連経済衰退の兆しが隠れていたのだが、ソ連崩壊8年前のその時・・・思い及ばなかった。もっとも、その時点でのソ連崩壊を人口社会学から断定した知の巨人エマニュエル・トッド(冒頭のニザンの孫、ちなみに著名な構造主義思想家ストロースはニザンの従弟)こそ例外で、ソ連専門家や国際政治学者のだれもソ連崩壊を予見していなかった。


 イエメンは2011年の「アラブの春」の政変で退陣した前大統領・ホーシー派(シーア派)と新大統領・スンニー派が武力衝突し、2015年からはサウジアラビアが前者を爆撃する一方、イランがこれを支援するサウジアラビアとイランの代理戦争の地と化している(両国の対立はシリア内戦の背景でもあるし、今後はレバノンで激化しよう)。日本大使館も閉鎖され、渡航情報は最高度の警戒情報、レベル4「退避勧告」がでている。内戦の混乱のなかコレラが大規模に発生し、食料危機が続いているが、国際社会の支援の手は伸びず、今この瞬間も人道危機が放置されたままだ。  

                  

 閉鎖前の日本大使とイエメン外務大臣の会談で先方の要請のトップに「水産養殖センターの復旧」が挙げられたこと、また衛星写真に養殖池の照り返しがないことから、センターは機能停止状態と思われる。すでに南イエメンもソ連も、‘幻の国’になった。中江大使も逝かれた。センターは今や、消えなんとしている。僕の関わりは冷戦下、援助外交の舞台回しにすぎないが、灼熱の現場では建設に、運営に多くの人々が尽力した。いつか戦火が止んだら、大使館やJICAの後輩たちが知恵を出してくれるだろう。センターが昔日の姿に戻ったら、再びクレッセントに泊まって、リトル・アデンの入り江を訪ねたい。アデン産のエビを食したい。そんな日が来て欲しい。・・・


 今はただ、なによりアデンの、そして中東の人々にアラビア語の挨拶のとおり

‛アッサラーマ・アレイコム’(「あなたの上に平安あれ」) と願う。



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