正八年から十一年までの実態を探った。この動きは、大正八年以前の新派劇や連鎖劇を重視した興行に対する反動でもあったが、観客が小芝居に求めるものを探求した結果でもあった。純歌舞伎のみの興行は芸の力で勝負をするという、歌扇の決意の表れのようにも見えたが、この座組は短命に終わり、歌扇は一時引退する。その後復帰を見せるも、最終的には純歌舞伎のみの興行に終止符を打つ決断をするのである。純歌舞伎に行き詰まりが感じられたためなのか、新しさを追求する青江の方針なのか、時代の要求なのか、方向転換の理由は分からない。「新星団」がどのような公演を見せたかは、方向転換の理由を知るひとつの手がかりになるだろうが、それはまた別稿で論じたい。(注)(1) 神田劇場の開場と初期の興行については、拙稿「神田劇場の開場 : 附、初期上演作品一覧」『共立女子大学文芸学部紀要』七一巻(二〇二五年二月、一~一六頁)に詳しく述べた。また、中村歌扇の神田劇場開場以前の活動については、拙稿「女役者、中村歌扇の娘芝居時代を中心に」同六八巻(二〇二二年一月、二五~四〇頁)、「大勝館の活動写真と中村歌扇」同六九巻(二〇二三年一月、四三~七一頁)、「中村歌扇の関西巡業と連鎖劇」同七〇巻(二〇二四年二月、二五~四〇頁)をご参照いただきたい。(2) 当時の東京の小芝居では、十日ごとに演目を変えて上演することが通常であった。一日から十日前後までで一区切りとし、十日前後から二十日前後を「二の替」二十日前後から月末までを「三の替」と呼んだ。(3) 中村歌江については、天野忠義『花形活動俳優内証話』(杉本金成堂、一九一八)、「女優歌江逝く」朝(一九一九年十月七日)、剣持国男『新旧俳優素顔と身上話』(愛文館、一九二〇)などを参照した。なお、『花形活動俳優内証話』には歌江に「かこう」とルビがあるが、本稿では他の多くの資料に倣って「うたえ」と読みたい。(4) 『銀行会社職員録』(商業興信所、一九一八、一六頁)に取締役として青江俊蔵、青江ひさと並んで「保原とく」の名があり、『官報』二二一五号付録(大蔵省印刷局、一九一九年十二月二十日)にも「神田歌劇場株式会社(変更)」の項に「取((文學藝術 第47号(2025)
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