文學藝術
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にしても、歌扇は一定期間、この温泉旅館の女将と女役者を兼業していた。ちなみに、この時の歌扇の引退については、義妹歌江の死のショックによるという見方もある((2(。旅館の女将としての歌扇の働きは不明だが、翌年一月になると歌扇の洋行計画に関する報道が出る。「歌扇は旧臘多年の舞台生活を退いて自分の経営する箱根の旅館成駒の帳場に坐つたが今度渡米見学に出る希望で十二日旅券の下附を願ひ出た。同行は義兄と約婚の某大学生であるといふ」(読1921/01/14)。しかし、歌扇は持病の腎臓病のため渡米をとりやめ、義弟の青江俊二のみが渡米することになった(右の記事の義兄は誤りか)(読1921/02/15)。青江俊二(当時二十八歳)は、渡米報道の直後に創設された活動写真会社の取締役となる(朝1921/03/06)。青江俊蔵の実子か養子かは判然としないが、青江や歌扇と深く関わって興行の世界にいたことは間違いない。結局、歌扇の渡米は実現しなかったわけだが、その年の五月に歌扇は二十日間ほど神田劇場に出演し、十一月には旅館の女将をやめて、正式に復帰する(読1921/10/06・読1921/10/29・朝1921/11/02)。結婚はしなかったらしい。旅館は大人気だったと言われているので((2(、復帰の理由は不明だが、復帰後も小芝居の歌舞伎俳優(男優)とともに純歌舞伎を上演した。菊右衛門、新十郎に代わって招いた俳優は尾上紋三郎である。紋三郎(本名、大橋七郎)は((2(、尾上幸蔵の息子として、明治二十二年(一八八九)日本橋浜町に生まれた。二十九年に尾上栄蔵の名で初舞台を踏むと、三十二年には幸之助と改名、四十一年に四代目として紋三郎を襲名した。小芝居で活躍し、「チャキチャキの若手役者らしい雰囲気、容貌、芸質を有ち」と描写される((2(。尾上紋三郎は五等俳優とあるので、六等俳優だった菊右衛門や新十郎よりも核としては上ということになる。神田劇場は歌扇と紋三郎を二枚看板とする興行を半年ほど続けたが、突如これを打ち切る。大正十一年(一九二二)四月、歌扇は、米国から帰国した義弟の俊二を舞台監督として、女優と新派俳優とによる「新様式の」歌舞伎を上演する「新星団」を組織し、新たな一手を打つのである。本稿では、女役者の中村歌扇が、男性の歌舞伎俳優たちとの共演により、旧劇(純歌舞伎)の上演で勝負をした大23自由テーマ・女役者、中村歌扇と歌舞伎俳優(男優)の共演

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