市川新十郎(本名、小川元之助)は((1(、慶応二年(一八六六)の生まれというから、歌扇や菊右衛門たちより一世代上の俳優である。神田劇場に招かれたときにはすでに五十を超していた。浅草の有名な料理茶屋、川升の息子として生まれたが、九歳の時に九代目市川團十郎(当時、河原崎権十郎)に入門し、市川福之助の名で河原崎座に出た。明治二十一年(一八八八)、二十三歳の時に新富座で市川團七と改名し、三十二年には歌舞伎座で『妹背山婦女庭訓』の官女と『勧進帳』の番卒を勤めて名題に昇進し、三代目市川新十郎を名乗った。この時は團十郎は大阪公演中だったため、五代目尾上菊五郎が口上を述べたという。得意な役として大森彦七、河内山、熊谷直実、吃又などが挙がる((1(。明治四十一年(一九〇八)からは東京俳優学校で教鞭をとった((1(。劇界でも一目置かれる博識で、六代目尾上菊五郎の信頼も厚かったという。歌扇の一座では老役や骨の太い役を担って、一座の上置き的存在になっている。開場時の上演では『木村長門守』では徳川家康に回り、『毛剃』では毛剃九右衛門を演じているが、その後も、神田劇場では『鬼一法眼三略巻』の鬼一法眼、『扇谷熊谷』の熊谷、『妹背山婦女庭訓』の鱶七などを演じた。菊右衛門、新十郎ともに大劇場にも出演する俳優だったことには着目しておきたい。例えば、菊右衛門は大正五年(一九一六)三月帝国劇場の『増補桃山譚』で井上大九郎という加藤清正の家臣を演じ、昭和五年(一九三〇)二月歌舞伎座の『船弁慶』では駿河次郎を勤めている。新十郎は、明治三十三年(一九〇〇)五月歌舞伎座の『島衛月白浪』で六代目尾上菊五郎の明石島蔵、市川八百蔵の松島千太に対して、野洲徳という脇役ではあるが重要な役を演図3:中村歌扇のお軽と市川新十郎の大星由良之助、神田劇場大正八年十二月上演『仮名手本忠臣蔵』(『花形』大正九年二月号より)(9自由テーマ・女役者、中村歌扇と歌舞伎俳優(男優)の共演
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