面への巡業以降で、京都夷谷座で『絵本太功記 十段目』の羽柴久吉や、『生写朝顔日記』の駒沢次郎左衛門などを演じている。神田劇場では大正四年の開場時から主な役どころで出演し、『明烏夢泡雪』では「歌扇の浦里と歌江の時次郎でこれまた大向ふを騒がせてゐた」(東京朝日新聞(9((/((/(()、『雪夕暮入谷畔道』では「歌扇の三千歳、歌江の直侍どつちも相当にこなしてゐた」(東京朝日新聞(9((/0(/(()といった具合に、歌扇の相手役として立役を主に演じ、「芸は兎に角人気の点に於てはおそらく歌扇の上にある。それは年の若いのと、容色の美しいからであらう(((」と、歌扇を凌ぐ人気を博した。また、歌舞伎よりも新派を得意としたとも言われ、大正七年(一九一八)六月の『春色恵の花』梅ごよみ)では、米八、仇吉は新派の時には河合、喜多村で、前者は陽気に、後者は陰気にやつてゐたのが、此所では逆に、仇吉を歌扇が陽気に演じ、米八を歌江が何所迄も淋しく陰気に演じてゐるが、二人の性格が技巧の上からではなく、真の女性その儘を現してゐるので、男優が扮した女性の芝居を見るのとは違つた、本の面白味を味はふ事が出来た。両女優とも全く巧い(読(9(8/0(/(()と評された。米八を陰気に演じることには少し疑問もあるが、歌江が持つ陰のある美しい女性像が新派の役どころによく合っていた様子が窺われる。歌江は鉛毒を患っていたという情報もあるが(8(、訃報記事では死因を「肺患」とする(朝(9(9/(0/0()。実際、大正七年(一九一八)の夏には歌江が「病気の為医師のすゝめにより此所三週間計り興津方面へ赴き静養する」旨が報じられている(朝(9(8/08/(()。また、歌扇がこの時期に箱根で旅館成駒の経営を始めるのだが(後述)、歌江も何か商売をすればと勧めてくる者に対し「妾わたしはご覧の通り年中病気計りでゐますからマア今に直営病院でも建てませう」((自由テーマ・女役者、中村歌扇と歌舞伎俳優(男優)の共演
元のページ ../index.html#23