を施して翌十一月から「旧劇本位」とすることを発表する(朝(9(9/(0/(()。このあと神田劇場は、外部から男性の歌舞伎俳優を呼んで、男女合同の純歌舞伎劇場として再スタートを切るのである。本稿では、神田劇場が実際にどのように立て直しを図ったのか、どのような俳優が出演してどのような舞台を見せていたのか、その実態を探ってみたい。なお、本稿はこれまでの歌扇についての拙稿と重複する箇所や、新たに分かった事実により既発表の内容と齟齬がある箇所もあるが、ご了承いただきたい。参考資料のうち、新聞記事については本文中に『東京朝日新聞』=朝、『読売新聞』=読の略号を発行年月日とともに記して示す。また、引用文は適宜句読点を補った。中村歌江最初に中村歌江(一八九一~一九一九)について、少し触れておきたい。中村歌江は、屋号松鶴屋、東京八等俳優(3(。明治二十四年(一八九一)に日本橋の漆器商、石川清左衛門の家に生まれた。幼少より芸事に優れたことから、明治三十七年(一九〇四)、十四歳の時に青江俊蔵の養女となって、中村歌江の名で舞台に出るようになる。本名は、青江とく(徳)または保原とくと伝えられる(((。義理の姉にあたる中村歌扇を座頭とする浅草の娘芝居、美園一座で「非常な人気者であつた(((」と言われ(具体的な出演記録はなし)、歌扇の談話に拠れば、日本初制作の活動写真『曽我兄弟狩場の曙』に仁田四郎役で出演していた(((。当時の新聞記事から確実に歌江の動向が追えるのは大正元年(一九一二)十二月の年末から始まる関西方図1:中村歌江『新旧俳優素顔と身上話』より((文學藝術 第47号(2025)
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