綴られる和歌は「誰(何)が」「誰(何)を」にあたる部分が省略されることも多く、歌語が背負う表現性や、人間関係の中で意味が規定されてゆくため、想像力で補わなければならない部分が散文より多い。吉本隆明は古典和歌の解釈について次のようにのべている。 ある時代の歌は、べつの後の時代からは、その歌の意図したところを越えて読み込まれることがありうる。そうだとすれば深読みされた部分は、もともと歌にはなかった解釈があらたにつけ加えられたのだろうか。あるいは作者が意図したと否とにかかわらず、歌そのものに内在していた可能性が、ひき出されたことを意味するのだろうか。早急に結論することはできないが、後世はいつも古典にたいして現在の場所から振る舞っている。また古典は、いつも同時代の場所へ遡行しなければ「本たい」をあかさないという強制力を働かしつづけていることもたしかである((1(。更に言えば、同時代であっても、歌一首の読みが、「意図したところ」が、かわってくることもあり、それはある意味古典和歌の「方法」のひとつなのではないか。本稿では、和歌の意味、和歌の解釈が何によってなされるか、時に「多義」的に解釈される和歌の特質について考えてみた。解釈がわかれる歌は、そもそもわかれることを前提にして作られている(おかれている)場合があるのである。コミュニケーションのあり方として、方法として、歌を、場面を読む際に留意すべき点といえる。(注)(1) 『和泉式部物語』との書名を持つ写本や版本も多く、『和泉式部日記』は「物語」としても読まれてきた。(2) 中島尚『和泉式部日記全注釈』笠間書院(二〇〇二年十月)(3) 近藤みゆき訳注『和泉式部日記』角川ソフィア文庫(二〇〇三年十二月)((特集テーマ「歌」・作中和歌の解釈をめぐって
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