文學藝術
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ここで問題としたいのは、藤壺の和歌の「ぬ」の意味である。「ぬ」を完了の助動詞の終止形とするか、「やまとなでしこ」という体言にかかる打ち消しの助動詞「ず」の連体形ととるか、古注釈の時代から現在にいたるまで、大きく二つにわかれ、定説をもたない((((。前者でとれば、「疎ましく感じられてしまう」となり、後者でとれば「疎ましく思うことができない」と、藤壺の子への心情が全く逆になる。更にいえば、子への思いだけでなく、光源氏の「ゆかり」と思うから、疎ましいのか疎ましく思えないのか、藤壺の光源氏への心情ともかかわってくる。地の文との繋がりで考えると、藤壺に歌を詠ませた契機は「ものいとあはれに思し知らるるほど」であったからだが、「あはれ」という言葉が、愛別離苦、恋愛親愛の情、詩歌管絃の感興、風物情景などの風情など、様々な事象に対して心が強く動くさまを表すため、藤壺の「御心」が誰に、何に向けられていたものなのかは明示されているとはいえない。また、藤壺が我が子を「疎ましい」と思うか否かは、この場面、この巻だけの問題ではなく、藤壺の人物造型とも関わってくる。時代によっては、人によっては、「母は子を愛するものだ」という発想のもとに後者で解釈されたこともある歌である。藤壺は我が子をどのように思っていたのか。喜んでこの歌を受けと取った光源氏は藤壺の歌を藤壺の思い通りに理解できたのか。物語である以上、物語の作中人物の意図と歌の意味するところは作中人物同士だけ完結するわけではなく、更にいえば語り手、読者間で同じになるともいえない。「ただひとつの正しい解釈」が導き出せたとしても、最終的に、この歌の解釈は、この物語を読む「私」によって決定されると言わざるをえない歌がどうしてもあるように思う。四 歌の意味を決定するのは誰か和歌の意味を決定するのは誰だろうか。様々に解釈ができる、というのは、解釈の放棄だろうか。書かれていることから、書かれていないことを含めて想像してゆくというのは、散文も韻文も変わらないが、基本的に三十一文字で(0文學藝術 第47 号(2025)

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