ある女の、業平朝臣を所定めずありきすと思ひて、よみてつかはしける 読人しらず大おほぬさ幣の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ(706) 返し なりひらの朝臣大幣と名にこそ立てれ流れてもつひに寄る瀬はありてふものを(707) 題しらず 読人しらず 須磨の海人の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきりけり(708)玉かづら這はふ木あまたになりぬれば絶えぬ心のうれしげもなし(709)前後の歌の「大幣の引く手あまた」とか、「玉かづら這ふ木あまた」とは、恋の相手が複数いることをさす。「多情」「浮気」を詠んだ歌の中に「須磨の海人の」の歌も配列されており、そういったことも合わせて読めば、「思はぬ方にたなびく」という煙が、単に須磨の浦の風景を詠んだものではなく、相手が別の女(もしくは男)に心変わりしたことが重ねられていることがわかる。この「題しらず」「読人しらず」の歌は、「恋四」の部立の、心変わりに関する歌が連続する配列の中で和歌の意味が決定されてゆくといえる。そもそも『古今集』の恋の部立(一~五)は、恋の進行過程にしたがって歌が配列されており、「須磨の海人の」歌は、元々叙景を詠んだ和歌だったとしても、もしくは元から恋歌だったかもしれないが、どちらにしろこの位置に置かれた以上、「恋」の歌として読むことが要請されているのである。『古今集』において歌の意味を決定しているのは、歌の作者ではなく、「恋」の部立に配置した撰者であり、和歌の意味を支えるのは部立であり配列だった。物語のように、散文の中におかれる場合、文脈の中で和歌の意味も生成され、規定されてゆくが、だからといって解釈の揺れがないわけではない。その一例として、『源氏物語』紅葉賀巻で詠まれた藤壺の和歌について触れておき(文學藝術 第47 号(2025)
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