文學藝術
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cの歌を詠む。この歌は、B「過ぎて」―c「過ぐす」、B「今宵」―c「今日」と歌ことばを対応させ、手紙と和歌で「日ごろ」「過ぐす」「ほどふれば」「今日」という「日」に関わる言葉を連ね、「恋しさに負けなむ」と、暗に「今日(あなたの元に行こうと思う)」という。しかし、c「負けなむ」の何が「負け」なのか(本当に今日来るつもりなのかどうか)はっきりしないため、女はDで「負くるとも見えぬ」といい、(来るどころか手紙までもが)「たえまがち」であることを非難するのである。Aの宮の問いは、Dの女の歌に「問ふひとすぢ」として集約され、切り捨てられる。Dの歌に対して宮は答えず、「例の忍びておはしまいたり」と、cの歌通り、「今日」女の元に来訪することになるのである。女の歌が宮の歌を引き出し、宮の来訪を促した。その契機となったのはB「折過ぎて」歌であった。今ここでどのように解釈すればよいか、ということを問われれば、すべての解釈を含み込む、という答えになるように思う。これは、読みの放棄といわれるかもしれない。しかしこの歌に関していえば、解釈が難しいというよりはむしろ、解釈が多様に生まれる歌として理解する必要があるのではなかろうか。三 和歌の意味をささえるもの和歌の意味は何に支えられるのだろうか。『古今集』には「須磨の海あま人の塩焼く煙風をいたみ思はぬ方かたにたなびきりけり」という歌が収載されており、直訳すれば「須磨の浦で漁師が焼く藻塩の煙は、風が激しいので思わぬ方向にたなびいてしまったなあ」の意となる。初めてこの一首を読んだ人は、この歌からどのような状況を想像するだろうか。なぜ勅撰和歌集にこの歌が入っているのかわからない、と考える人もいるかもしれない。この歌の前後の歌とともに読むと、詠まれた風景が人事に重ねられていることがよくわかる。(特集テーマ「歌」・作中和歌の解釈をめぐって

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