文學藝術
14/158

 Ⅸ今宵、寺に袖を濡らしに出かけます(女一人でいく) Ⅹ今宵、菖蒲の根をかけ、(寺参りに行くのはやめにして)宮と共寝しよう以上、Bの歌の言葉がどのように解釈されてきたか、難解とされてきたのか示してみた。その上で、Bの歌を宮のAの言葉の返答として見たとき、どのように理解できるか考えてみたい。まず、ア「今日寺参りに行くのか」という問いに対してである。「今日」に対応する言葉としてはB「今宵」がある。「折すぎてさてもこそやめ」をいずれに解するにしろ、「今宵」であることは確かである。実際、「聞こえて、参りて」と、すぐに寺詣に出かけている。イ「いつ帰るのか」については、はっきりした返答をしていない。ウ「どれほど逢いたくなることか」というのは、宮の心情を吐露したものである。対する女の心情は、Bの歌をどう理解するかでかわってくる。Ⅰ~Ⅹまでで記した、様々な解釈を盛り込んだのが、冒頭にあげた近藤みゆき訳といえるし、実際そのように様々に読めるようになっているのだが、そもそも女が意図したところは何だったのか、宮がどう受け取ったのか、これまでどう読まれてきたのか、というようなことを考えると、この歌は返答としてよいうよりもむしろ問いかけであり、一種の謎かけのような歌にも思えてくる。また、「根」に「寝」を掛けた場合、女の宮への積極性が顕著となり、この作品の中で女がどのように人物造型されているか、ということとも関わる。AとBとのやりとりは、「実際には宮の手紙には散文だけでなく贈歌があって、にもかかわらず、省略されて日記に載録されなかったとも考えられる((1(」というように、意図的に宮の贈歌を省略したこともありうるが、そうであるならば、あえてわかりづらい誤読を招くような歌のまま、作品に置いたということもできる。とはいえ、Aに歌がない以上、Bは女の返答であると同時に、宮への贈歌であった。そして女は、贈歌(謎かけ)を送りながら、男の返歌を待たず寺詣に出かけた。宮は、女の帰宅後、C「いとおぼつかなくなりにければ~」と女に責任転嫁をしながら言い訳をした。その上で、(文學藝術 第47 号(2025)

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る