折をり過ぎてさてもこそやめさみだれて今こよひ宵あやめの根をやかけまし「折」とは何の折か。「さても」の「さ」とは何をさすか。「やむ」とは何をやめるのか。「さみだれ」とは何を思い乱れているのか。「今宵あやめの根をかけ」るとは、何を意味をするのか。諸注釈通覧しても「諸説錯綜しており今なお定説を得ていない(((」一首である。参考までに、新全集(藤岡忠美)とソフィア文庫(近藤みゆき)の現代語訳を掲出する。 ・ 時期が過ぎれば、そのまま五月雨もやむように、悲しみもやむことでしょう。ですから今宵は、亡き宮様を偲ぶ涙で袖を濡らしに出かけましょう。(新全集) ・ 五月五日の時間が過ぎてしまったら菖蒲の根を衣にかけることもなく終わってしまうのでしょう。そのようにこの時期を過ぎてしまったら、私の寺参りは取りやめになってしまうでしょう。とはいえ寺参りに行ってこのままあなた様に会えなかったら、私とあなた様の逢瀬もきっと終わりになってしまうのでしょう。参詣しようか取りやめようか、本当に悩ましいところです。五月、さみだれの月ですから、思い乱れるままに、今夜のうちに菖蒲の根をかけてしまったらどうか、そのように、いっそ今夜、あなた様と共寝してしまったら……。(ソフィア文庫((()三十一文字に込められた含意の何と多く複雑なことか。この歌を受け取った宮は果たして歌の意図するところを正しく理解できたのであろうか。歌の意味は、二人の関係や状況に意味づけられてゆくものだが、そうだとしても、この歌は、「正しく」解釈されることを放棄した歌のように思える。そこで、本稿では、『和泉式部日記』の「折過ぎて」歌を起点に、作品の中におかれた和歌の解釈について思うところを述べたい。 (文學藝術 第47 号(2025)
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