パレスチナ紛争 (3) 
  4回の中東戦争 
 
   TERUO MATSUBARA 

 

  中東とは、イギリスなどヨーロッパから見た呼び方である。 地球儀でイギリスを探し、そこから東を見ると
東のはずれ ( =極東 ) にあるのが日本である。  パレスチナを中心とした地域は、極東・日本とヨーロッパの
真中にあるから、中東という。 中東問題が複雑になった理由はさまざまだが、特に、イギリスの責任は大きい。
  もともと、ユダヤ教もイスラム教も同じ神を信仰する宗教である。 それが、第一次世界大戦の頃から大国の
思惑に翻弄(ホンロウ)され、お互いの憎悪を増大させた。  「 宗教が違うから 」 対立しているとは必ずしも言えな
いところがある。

  

 中東では、イスラエルとパレスチナ人の紛争がよくニュースになる。  しかし、パレスチナ人という民族はいな
い。 一般に、ヨルダンとイスラエルの国境を流れるヨルダン川西岸から地中海にかけての地域をパレスチナ 
と呼び、このパレスチナに住んでいるアラブ人のことをパレスチナ人という。 アラブの国々は、第二次世界大
戦前後に独立を果たしたが、パレスチナだけはアラブ人のものか、ユダヤ人のものか解決しなかった。 

 

   

  イスラエルの建国  

  1947年 ――― 国連は、パレスチナ分割案を採択する。  

パレスチナ分割案
の内容
  パレスチナの土地はユダヤ国家とアラブ国家に分ける。
  ユダヤ人は、パレスチナの人口の約3分の1、国土の7%しか所有していなかった
 が、約56%の土地を所有することを認められ、砂漠に鉄条網がしかれた。
  アラブ人は、ガザ地区ヨルダン川西岸レバノン国境にアラブ人国家をつくる
 ことを認められた。 
  エルサレムは両方の聖地なので、国連管理国際地区とする。

 

 1947年の国連決議では、エルサレムは国際管理都市となった。 その後、イスラエルがエルサレムを占領し、
エルサレムを首都にすると宣言した。 しかし、世界各国はイスラエルの首都と認めていない。 各国の大使館は
エルサレムではなく、テルアビブにある。

 

 南部に広がるネゲブ砂漠はイスラエルが領有を希望した。 その理由は、ウランが産出されることを知っていた
からである。 建国後、ネゲブ砂漠にはイスラエルの核の秘密基地が作られることになった。

 

  1948年5月 ――― ユダヤ人は、イスラエルの建国を宣言する。  

 ついに、ユダヤ人は念願の自分たちの国を持つことができた。  初代首相=ベングリオン。 
 物理学者・アインシュタインは、イスラエルの初代大統領に推薦されたが、断っている。 大統領には、ハイム
=ワイズマンが選ばれた。
 アメリカはすぐにイスラエルを承認したが、周辺のアラブ諸国はこれを認めず、誕生したばかりのイスラエルを
つぶそうと、パレスチナに攻め込んだ。

   1948年 ――― 第1次中東戦争( パレスチナ戦争 )が始まる。

 この戦争は約1年間続いた。 アラブ人はラクダに乗り刀で戦ったのに対して、イスラエルはトラックや戦車を 
使用する戦いぶりだった。 第一次中東戦争は、イスラエル有利のうちに休戦が成立した。  

 イスラエルは、建国後も広く門戸を開放し、すべてのユダヤ人に市
民権の取得を認めた。  ホロコーストの生き残りなど、建国から
1951年末までに、約69万人がイスラエルにやってきた。 このよう
に、ユダヤ人口は、建国から3年間で2倍となった。
 
 

  

 「 エルサレム 」 のサイトがあります。  どんな場所? エルサレムの変遷について 

 

 戦争の結果、ヨルダン川西側はヨルダンが占領した。 イスラエルは分割案を上回る78%を支配下に入れ
た。 イスラエルに土地を奪われたパレスチナ人・70万人は難民となった。 パレスチナ難民の苦難の始まり
である。
 戦争でエルサレムは東西に分断された。 西側はイスラエル領に、旧市街を含む東側はヨルダン領となっ
た。 エルサレムを東西に分断する境界線に壁が作られ、ユダヤ人の聖地・嘆きの壁は、イスラエル側から
隔てられることになった。

 

 第二次世界大戦後、イギリスに代わってアメリカが中東の安全保障と石油の利権に深く関わるようになった。  

 アメリカ国内には多くのユダヤ人がいたこともあり、アメリカはイスラエルにテコ入れし、イスラエルの軍事力を
強め、中東の見張番の役目を担わせた。
 世界のユダヤ人人口は、1350
万人で、右地図のように分布してい
る。
 イスラエルのユダヤ人は 470万
人。 アメリカにはイスラエルを上回
る約 560万人のユダヤ人が居住
し、イスラエルにとって軍事・経済面
で最大の味方となってきた( 数字
1998年 )。
  しかし、在米ユダヤ人のうちユ
ダヤ教徒の学校に通っている児童
は全体の15%に過ぎない。

                                             ★ 日本にいるユダヤ人は約2000人で、その半数が東京に住んでいる。

 

 Q アメリカが中東問題でイスラエルを支持する理由は?

    ヒトラーのユダヤ人迫害によるユダヤ人の脱出先で一番多かったのはアメリカであった。 このため、イス
   ラエル建国の時も、アメリカは主要国の中で最初にイスラエルを承認した。
    アメリカとイスラエルは事実上の同盟国である。 冷戦時代、ソ連はアラブ諸国寄りの立場をとっていたの
   で、アメリカはイスラエルを支援した。 冷戦後も資金援助をしており、アメリカが世界各国に送る援助額の
   中でイスラエルは最大だ。
    なぜ、そんなに支援するのか? アメリカにいるユダヤ人は全人口の2%にすぎないが、金融・メディアな
   どで活躍している。 イスラエルを支援する人たち( ユダヤ人ら )は、豊富な資金を背景に、国会議員らに
   献金する。 イスラエルの利益に反する行動をとれば献金をやめる。 こうした「ユダヤ・ロビー」と呼ばれる 
   人たちの存在が大きい。  したがって、歴代のアメリカ大統領も中東問題では、イスラエル支持の立場を
   とり続けている。

 

  アラブ系イスラエル人

      第1次中東戦争に伴い、近隣諸国に大量のパレスチナ難民が出たが、約15万6000人は生まれ
  故郷に残る道を選択した。 イスラエル政府による国籍付与で、彼らは 「 民族上はパレスチナ人、
  国籍上はイスラエル人 」 となった。
    主に、イスラエル北部に暮らし、イスラエル人口の約18% ( 630万人/2000年現在 )を占める。
  彼らはイスラエル政府によって、政治運動や移動に制限を課せられ、その後も農地接収や差別に直面
  し、二級市民の扱いを受けてきた。

 

 

【第2次中東戦争】  

 アラブ一の大国・エジプトは、米ソいずれの陣営にも属さない非同盟主義を貫いていた。 「アラブの大義」を
掲げ、ユダヤ人国家のイスラエルには強い姿勢を貫いた。 1952年、エジプトで革命が起き、共和制が樹立さ
れた。
   1956年 ――― ナセルがエジプト大統領が就任する。
 ナセル大統領は反植民地主義・中立政策をとり、アラブ統一の指導者となった。 また、国内にアスワン=ハ
イ=ダムを建設しようとし、その建設費用の援助をアメリカとイギリスに求めたが、アメリカ・イギリスはエジプトの
中立政策を不満とし拒否した。  エジプトは、これに憤慨した。
   1956年 ――― エジプトは、スエズ運河の国有化を宣言する。
 中東における植民地支配が揺らぐのを恐れたイギリス・フランス両国は、イスラエルを誘ってエジプトに攻め込
んだ。

   1956年 ――― 第2次中東戦争( スエズ戦争 )が起こる。  

 エジプトは敗れたが、国際世論は、イスラエル・イギリス・フランスの三国を非難した。 国連特別総会は 「 即時
停戦と三国の撤退 」 を要求、ソ連もエジプトを支援して武力行使も辞さない態度を示したため、三国は撤退し、
戦火は収まった。

  この戦争を機に、中東の植民地支配のシンボルは、イギリス・フランスからアメリカに転換した。

 

 

【パレスチナ難民】  

 中東戦争が進展していく過程で、多くのアラブ人がイスラエルに土地を追われ、パレスチナから周辺のアラブ諸
国に逃れていった。  これが、パレスチナ難民である。    

  

    パレスチナ難民が増え続ける中、過激な若者はゲリラ活動を展開するようになり、
中東戦争でアラブ側が劣勢になると、アラブ諸国に頼ることをやめ、自ら組織化して武
力闘争を行うようになった。 中東を中心にハイジャックを起こすなど闘争的手段を行
使し、これに、日本を含む世界の過激な若者が国際的に参加したりもした。 
 そして、最大組織・アル=ファタをはじめ、11のゲリラ組織は、ひとつにまとまった。 
   1964年 ――― パレスチナ解放機構( PLO )を組織する。
   1969年2月 ――― PLOの議長にアラファト氏 ( 左写真 ) が選ばれる。
 左写真のように、カフィーヤと呼ばれるアラブのずきんが彼のトレードマークだ。
 PLOは、パレスチナ難民を基盤に、パレスチナ人代表者会議で結成された。 

 

 PLO議長・アラファト氏の経歴

  1929年、裕福な商人の息子として、カザ地区に生まれる。 4歳の時、母親と死別、叔父の家に預けられ
 たが、その後、父親と住むようになる。 カイロ大学で土木の勉強をし、1948年の第1次中東戦争( パレス
 チナ戦争 )には義勇兵として参加した。 カイロ大学で学位を得た後、クウェートに移る。 クウェートでは、
 政府職員として1年間働き、パートナーと建設会社を設立、道路や橋など大規模プロジェクトを請け負ったと
 いう。 この事業で財を成し、車を4台持ち、休暇には欧州旅行を楽しむ生活を送ったらしい。 そして、パレ
 スチナ独立闘争に参加するため、レバノンへ移るわけだが、彼は一度も結婚していない。 その理由につい
 ては、「忙しすぎることと、PLO議長としての異常な日常生活を強いられれば、誰も私と一緒になりたがらな
 いよ。」という。
  1950年代末、後にPLOの主軸となるゲリラ組織・ファタハの創設に参加し、1969年にPLO議長となった
 後は、幾多の政治的・身体的危機をくぐりぬけ、 「 中東の不死鳥 」 とよばれた。

 

   中東を舞台に、パレスチナゲリラと活動をともにした 日本赤軍 とは?                 

 

 

【第3次中東戦争】 

 国連安保理事会は 「 ヨルダン川西岸、ガザ地区からのイスラエル軍撤退 」 の決議案を採択したが、イスラエ
ルはこれを無視して占領し続けていた。

   1967年 ――― 第3次中東戦争( 6日戦争 )が起こる。

 イスラエルは、ハチのようにエジプトの空軍基地を奇襲し、エジ
プト空軍機はほとんど飛び立つ間もなく、イスラエル機の攻撃にさ
らされ、壊滅状態となった。
 
 そして、わずか6日間でシナイ半島、ゴラン高原、エルサレム
旧市街などを占領した。
 
 

   

  ゴラン高原は標高 800mで、ここから見るとイスラエルは低い場所に位置する。 イスラエルにとってゴラ
 ン高原を占領することは、シリアからの攻撃を困難にさせることを意味する。  また、ゴラン高原から流れ出
 た水はイスラエル国民の水道水になっている。 1964年、シリアは水がイスラエルに行かないような工事を
 したことがあった。  飲料水を確保するためにも、イスラエルはゴラン高原を占領する必要があり、「安全と
 水」を確保する重要な場所となっている。

 

この戦争で、イスラエルはヨルダンとの間でエルサレムをめぐる攻防戦を展開した。

 第3次中東戦争を指揮したイスラエルの国防相 モシ
ェ・ダヤンは、エルサレム旧市街に入場し、 「 嘆きの
壁 」 の前でこう演説した。  『 我々は他の民族の聖地
を占領したのではない。 自分たちの最も聖なる場所
に戻ってきたのだ。 』
 こうして東エルサレムは周辺地域も含めてイスラエル
の占領下に置かれることになった。
                         右写真 →
 イスラエル兵士は真っ先に嘆きの壁に向かい、この聖地をユダヤ
人が占拠した。捕虜たちを壁に向かって立たせるイスラエル兵士。

 

 

【第4次中東戦争】  

 中東にからむテロ事件も続発し、世界をふるえあがらせることになる。
   1972年5月 ――― 日本人武装ゲリラ3人が、イスラエル・テルアビブ国際空港で手投げ弾を投げ、26人を
             死亡させる。
 岡本公三らが逮捕された。 彼らは、パレスチナ解放人民戦線と手を結ぶ日本赤軍に属しており、ゲリラとして
の訓練を受けていた。

   1972年9月 ――― ミュンヘン=オリンピック選手村襲撃事件がおこる。

 選手村のイスラエルチームの宿舎を、パレスチナゲリラ 「 黒い9月 」 の8人が襲撃した。 テロリストは、2人
を射殺した後、イスラエル選手団9人を人質にした。  彼らは、「 パレスチナ解放 」 と、イスラエル政府に獄中
の仲間200名の釈放を要求した。  しかし、脱出用旅客機を用意させた空軍基地で、西ドイツ警察と深夜の銃
撃戦となり、イスラエル選手団の11人が全員殺されるというオリンピック史上最大の惨劇となった。 
 翌日、メインスタジアムで追悼式が行われた。 当時のIOC会長は 「 大会は続ける。テロリストに負けはしな
い。 」 と宣言した。

 

   1973年 ――― 第4次中東戦争が起きる。  

 エジプトはシナイ半島へ、シリアがゴラン高原へ侵攻、双方からイスラエルを攻撃した。 イスラエルははじめ
苦戦したが、アメリカの援助を受け戦局は逆転した。
 これに対して、アラブの団結も固く、OAPEC( アラブ石油輸出国機構 )は親イスラエル国家に対して、石油
戦略を断行した。
  対象国は欧米諸国・日本で、原油の輸出量を減らす、原油価格を引き上げる、という作戦に出た。  この
戦略により、欧米・日本は石油ショックという経済的大打撃を受けた。 日本経済のインフレを促し、トイレットペ
ーパーや洗剤などの買占めによる物不足といった騒ぎを起こし、「 節約 ・ 省エネ 」 といったエネルギーの重要
性が叫ばれるようになったあの石油ショックは、実は、この中東で起きた戦後4度目の戦争が関係していたの
だ。 

  石油戦略により、世界の構図は揺れ動き、ヨーロッパや日本は外交政策をアラブ寄りに変えた。  


 4回の中東戦争のまとめ

   

 第1次中東戦争で難民となったのは、当時のパレスチナ在住アラブ人 130万人中60〜73万人に及んだ。  

 パレスチナ難民の居場所 
  合計 230万人( 1988年 ) 
    ガザ地区   46万   ヨルダン川西岸 40万   
    ヨルダン   88万     レバノン 29万      シリア 26万 

  そのうち、3分の1にあたる80万人が、難民キャンプで厳しい難民生活を送っている。

     

 

   乱れたアラブの団結  

【エジプトとイスラエルの平和条約】  

 サダト大統領エジプトは国内のソ連派を処刑し、アメリカに接近していった。 1977年からは、アラブ強硬
派の反対をおしきって、イスラエルとの平和交渉にふみきった。  戦争負担に耐えられないエジプト経済は、戦争
に使う金を国内の近代化に使いたかったのである。

 

    1978年9月 ―― キャンプデービッド合意が成立する。
  アメリカ大統領専用の山荘・キャンプデービッドで、サダト( エ
 ジプト )大統領、ベギン( イスラエル )首相、カーター( アメリ
 カ )大統領が署名した。 中東和平のための枠組みをまとめた
 ものだ。
   1979年3月 ―― エジプト・イスラエルの平和条約
            成立する。 ( 左写真
 
 キャンプデービッド合意に基づくもので、両国の平和条約の仲介役をしたのは、アメリカのカーター大統領であ
る。 他のアラブ諸国は、これに憤慨してエジプトと断交した。
   1981年10月 ――― サダト大統領が暗殺される。上写真の左端の人物 )

 

  後の首相・シャロンは、4度の中東戦争に参加した経験を持つ。 軍を退いた後、政党・リクードを結成。 
 リクードはパレスチナ全域がイスラエルのものだという大イスラエル主義を掲げる。 1981年、シャロンが
 国防相だった時、軍事力強化のため、アメリカとの関係強化が図られた。
  アメリカの軍事産業も、紛争止まぬイスラエルを兵器の実験場と考えた。  アメリカによるイスラエルへ
 の無償軍事援助が増えていった。

 

 

【イスラエルのレバノン侵攻】 

 レバノンは、独立以来、キリスト教優位の政治体制にあった。 しかし、レバノン国内のイスラム教徒の不満が
高まり、両宗派の対立が内戦へと発展した。  キリスト教徒は親欧米政策をとり、イスラエルが支援している。 
イスラム教徒は反米・アラブ中心主義で、PLOやシリアが支援している。 レバノンは、1975年以来内戦状態に
あった。

    1979年 ――― シリアが、レバノンへ軍事介入を始める。

    1982年 ――― イスラエルは、レバノンへ侵攻する。    目的は、PLOをつぶすこと

 イスラエルは、PLO( レバノンに本部 )を退去させ、首都ベイルートは廃墟同然となった。  レバノン侵攻の背
景には、イスラエルの領土拡張志向、1974年に出された「PLOをパレスチナ住民の唯一の正当な代表とする」
という決議への反対、がある。  アラファトは残留するパレスチナ難民の安全を保障することを条件に、チュニジ
アに逃れた。
 また、この時、イスラエルが支援するレバノンのキリスト教徒による難民虐殺があり、世界の非難を浴びた。 
当時国防相だったシャロンは、ベイルートでの難民虐殺の責任をとって辞任した。
 その後、住宅相となったシャロンは、ユダヤ人をヨルダン川西岸とガザ地区に大量に移住させ、入植地を拡大
していった。 入植地はパレスチナ人が先祖代々住んでいた土地を徐々に侵食していった。
 それまでの中東戦争は、イスラエルの存亡をかけた戦いだった。 しかし、レバノン侵攻はPLOに打撃を与える
のが目的で 「 やるかやらないか、選択の余地がある戦争 」 と言われた。 戦場を目の当たりにしながら戦った
兵士たちは帰還すると反戦運動を起こした。 イスラエル史上初の反戦運動だった。

 

 イスラエルのレバノン侵攻で軍事能力の大半を失い、アラファト議長の主導権をめぐって、PLOに内紛が生じ
た。  アラファト議長はこれまでの武力による戦いでは勝てないと考え、 「 政治解決・外交重視政策 」 を主張
し、ヨルダン川西岸・ガザ地区「 ミニ=パレスチナ国家 」 を建設しようとした。 これは、パレスチナ全土の解
放というこれまでの方針を変えるものだった。 この頃、アラファトはテロリストではなく、世界が認めるパレスチナ
の指導者になったのだ。
 これに対し、PLO内強硬派は、あくまで全パレスチナの解放をめざし、武力闘争への転換を主張した。

 

 

【インティファーダ】  

   1987年12月 ――― イスラエル占領下の ヨルダン川西岸 と ガザ地区 で、パレスチナ人による一斉蜂起
             ( インティファーダ )が起こる。

  

 民族自決を叫ぶパレスチナ人は、世界最強クラ
スのイスラエル軍に、石ころとパチンコ玉で立ち
向かった。( 右写真 )  他に、路上でタイヤを
燃やしたり、禁止されているパレスチナの旗を
振ったりした。
  この蜂起の特徴は、主役が若者・・・・つまり、
占領下で生まれ育った世代であったということだ。
           → 1988年、ヨルダン川西岸にて
               パレスチナ人の少年たち
  イスラエルによる占領が続く中、超大国やアラブ諸国
 が何ひとつ効果的な手を打てなかったという欲求不満
 を爆発させたのである。  PLOのそれまでの闘争が
 「外」からの解放をめざしていたのに対し、「内」からの
 解放の可能性が初めて現実のものとしてみえてきたの
 である。 
  イスラエルは弾圧を強め、大学から小学校・幼稚園ま
 で教育期間は閉鎖された。 イスラエル兵士が授業中
 に小学校の教室まで入り込んで、児童に殴りかかるこ
 ↑ イスラエル軍に投石するパレスチナ自治区の若者  ともあったという。

 

 

【パレスチナ「独立宣言」】  

 インティファーダが引き金となり、ヨルダンは譲歩を見せた。
   1988年7月 ――― フセイン国王( ヨルダン )は、「 自国とヨルダン川西岸を分離、ヨルダン川西岸の支配権を
            PLOに引き渡す 」 と宣言する。
 この声明により、パレスチナ人の将来をめぐって曲折を重ねたPLOとヨルダンの関係は清算された。
 分離宣言によって、支配権が空白となったヨルダン川西岸、そしてガザ地区をパレスチナ人自身が主体となっ
て埋めようという議論がPLO内で高まった。
        11月 ――― パレスチナ民族評議会( PNC )が、アルジェで 「 パレスチナ独立国家樹立宣言 」 
             を採択する。
  しかし、独立国家の対象となっている地域は、イスラエルの占領下にあり、宣言に基づく暫定政権はすぐには
できない。 問題は山積みされている。

   

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