パレスチナ紛争 (2) 
  ユダヤ人の迫害 三つの約束 
 
 TERUO MATSUBARA 

 

 ユダヤ人の迫害 

  各地に離散したユダヤ人は、民族としての伝統・習慣を厳しく守り、誇りを失わなかった。

 しかし、ヨーロッパでは、ユダヤ人に対する憎悪・蔑視が大きかった。 それはどうしてか?
 ヨーロッパはキリスト教の社会である。  キリスト教の神であるイエスを十字架にかけて殺したユダヤ人で
ある ・・・・ この言葉を、キリスト教徒は伝えてきた。   キリスト教徒のユダヤ人に対する憎悪の根拠は、ゴル
ゴダの丘に発する。
  
 キリスト教が根をおろした中世社会で、ユダヤ人は次々と市民権を奪われた。  ヨーロッパでは、6世紀頃か
らユダヤ人の権利を否定し、迫害する動きがみられた。 
 居住区も、キリスト教徒から隔離して、16世紀頃からゲットー( 強制隔離地区 )に押し込められた。
 ユダヤ人たちは、商取引の分野に進出し、財力をつけ自分たちの身を守ろうとした。  そのため、ユダヤ人の
中には金貸しなど金融業界に進出したり、医者や学者になる人が多かった。 そういった分野で成功し、財をか
せいだことも、また憎悪の対象となった。 

 

   第1回十字軍でエルサレムを占領した戦士たちは、イスラム教徒ばかりでなくユダヤ人をも虐殺した。 
 12世紀のキリスト教徒の宗教会議では、ユダヤ人との同居が禁じられ、1290年、イギリスではいち早くユ
 ダヤ人追放令を出した。 フランスでも、1306年に出され、ユダヤ人は 東ドイツや東欧に逃れた。 イベリ
 ア半島の国土回復運動も、イスラム教徒だけでなくユダヤ人も迫害され、スペインでは、1492年にユダヤ
 人追放令が出された。 14Cに、ヨーロッパでペストが流行した時には、ユダヤ人の大虐殺が行われた。

 

 

【市民革命の中で】  

 迫害され続けたユダヤ人は、18世紀に入ると、フランス革命をはじめヨーロッパの近代化の歩みの中で、一時
市民権を与えられ、ゲットーも解放された。
   1776年・・・・アメリカでユダヤ人が解放される。  
   1791年・・・・フランス議会が、ユダヤ人に市民権を与える。
 この後、オランダ、イタリアでもユダヤ人に市民権が与えられた。 ユダヤ人も、市民社会の中で同化して生き
る道が開けたかに思えたが、しかし、現実はユダヤ人への差別はいぜんとして残った。

 

 

【反ユダヤ主義再燃】  

 19世紀に登場した新しいユダヤ人迫害の理由は、民族主義である。  迫害の対象が宗教ではなく、人種の問
題となった。  すなわち、「 白人は世界で最も優秀な人種であり、ユダヤ人との混血で汚してはならない 」 
という結論に達したのである。  ヒトラーによるユダヤ人迫害もこの理由からである。
 自由主義の中で、ユダヤ人は多くの分野に素晴らしい才能を発揮した。  歴史に残る人々に、マルクス( 経
済 ) ・ アインシュタイン( 物理 ) ・ ハイネ( 詩人 ) ・ メンデルスゾーン( 音楽 )たちがいる。 ノーベル賞を受賞した
ユダヤ人は70名近くで、他の民族と比較すると圧倒的多数を占める。
 帝政ロシアでもユダヤ人の迫害があり、各地でユダヤ人が多数殺害されている。 帝政ロシア時代のユダヤ人
迫害のことをポグロムといい、1881年から始り、アメリカへ移住する人が増えた。 ミュージカル 『 屋根の上
のバイオリン弾き 』 は、その頃のロシアを題材にした作品である。 

 

   

  三つの約束  

【シオニズム運動への転化】  

 ユダヤ人たちは、「 自分たちの国がないからこんな目にあうんだ 」 と思うようになった。  迫害から逃れるた
めには、「 旧約聖書の中で神様がユダヤ人に与えると約束した地・パレスチナに国を築く必要がある 」 と考える
ようになった( =シオニズム )。
 ユダヤ人がエルサレムにこだわるのは、ダビデ王の時代に統一されたユダヤ王国の首都だったためだ。 祖
国を失い、世界各地に離散したユダヤ人にとってエルサレムは、あこがれの地であった。

    パレスチナの範囲は?

   地中海の東側に位置し、現在のレバノン・シリア・ヨルダン・イスラエルに囲まれた地域をいう。 
   明確な線引きはないが、南北約240Km、東西約130Kmで、紀元前12世紀にこの地に定住した
  「 ペリシテ人の国 」 という意味でパレスチナの名前がついた。  パレスチナ人とは、パレスチナに
  住むアラブ人をさしていう。

 

   1894年・・・・フランスで、ドレフェス事件が起こる。  

 ユダヤ人のドレフェス大尉は、ドイツのスパイとして軍法会議で終身刑を宣告された。  しかし、真犯人が判明
し、文豪ゾラは新聞に 『 私は弾劾する 』 という記事を発表するなど世論が高まり、人権と共和制を守る左派
と、軍部・保守党が対立して国論が二分するまでになった。 再審の結果、ドレフェスは無罪となった。 ユダヤ人
に対する偏見の目が、彼に無罪の罪を負わせたのである。
 このドレフェス事件を取材していた新聞記者の一人に、テオドール=ヘルツルというユダヤ人がいた。 彼は、
世界各地から 200名あまりのユダヤ人を集め、会議を開いた。 

   1897年・・・・第1回シオニスト会議が、スイスのバーゼルで開かれる。

      * シオニズムという言葉は、ユダヤ人にとって聖地エルサレムにある丘の名前 ( シオンの丘 ) から
       きている。 つまり、シオンに帰ろうという意味である。

 

 この会議以後、世界各地に離散しているユダヤ人国家をパレスチナの地に建設しようというシオニズム運
が盛んになっていった。
 しかし、ポグロムが行われたロシアをはじめ、東欧からの移民の大半はアメリカに流れ、パレスチナへの流入
は少数派であった。 パレスチナへの流れが主流になるのは、第二次世界大戦後のことである。

 

 

フサイン=マクマホン協定  

   1914年・・・・第一次世界大戦が始まる。
 当時、アラブ人を支配していたトルコはイギリスと戦った。
 イギリスは、敵国トルコの支配下にあるアラブ人に反乱を起こさせ、トルコの足元を揺さぶらせる作戦をとった。
   1915年・・・・イギリスは、アラブ太守とフサイン=マクマホン協定を結ぶ。
     ( 内容 )  イギリスのカイロ駐在高等弁官ヘンリー=マクマホンと、アラブ・ハシム家の太守フサインと
          の間で結ばれたもの。 「アラブ人がトルコに対する反乱を起こしてくれれば、戦後、アラブ
          人の新国家を建設しよう」と約束した。

  

   アラブの反乱で、フサインの息子・ファイサルを手伝ったのが、映画で有名なイギリス
軍将校・『アラビアのロレンス』である。 考古学者だったロレンスは、もともとアラブの
魅力にひかれる所があった。 ロレンスは純白のアラブ服をまとい、アラブ人とともに
寝食をともにし、アラブ軍の先頭に立って戦った。( 左写真 ) 
  帰国後、イギリスで、彼は第一次世界大戦の英雄に祭り上げられたが、アラブの独
立を勝ち取れなかったため、アラブに対する裏切りの責任を自分の中で背負ってしま
った。 いつしか、マスコミを避けるようになる。 1935年、オートバイ事故で死去する ( 46才 )。

   これに刺激され、1916年からトルコからのアラブ人独立運動が起こる。

   1918年・・・・ロレンスとともに、アラブ軍はトルコ最
          後の拠点・ダマスカスに入城する。
                           右写真 →
    映画 『 アラビアのロレンス 』 の1シーン( 1962年/英米製作 )
    
   1916年・・・・英仏露間で、サイクス=ピコ協定
          締結される。
 この協定で、戦後のオスマン=トルコ領の分割が秘密裡
に決められた。

 

 
 右地図は、
  サイクス=ピコ協定で決まった
 イギリス・フランス・ロシアの各国
 の勢力範囲を示したものである。
 
 
 
 
 
 
 

 

【バルフォア宣言】  

 フサイン=マクマホン協定を結ぶ一方で、イギリスは、ユダヤ人に対しても同じような約束を結んでいる。
   1917年・・・・バルフォア宣言が出される。
     ( 内容 )  イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ人銀行家・ロス=チャイルド卿にあてた書簡で約束し
          たもの。 シオニズム運動を支持した。 「イギリスに財政的支援をしてくれれば、それと引
         きかえにパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に協力する」と約束する。
   1919年・・・・第一次世界大戦の後始末であるベルサイユ会議が始まる。
 この会議でフサイン=マクマホン協定は無視された。  ロレンスもベルサイユ会議に出席し、アラブの独立を訴
えたが実現しなかった。

 

 

 

【戦後のパレスチナ】  

  第一次世界大戦に勝ったイギリスは、フランスとともに中東を委任統治の名の下に植民地として分け合った
( 1920年・サンレモ会議 )。  イギリスは、バルフォア宣言、フサイン=マクマホン協定を結ぶ裏で、この地域を
戦後支配するという秘密協定をフランスと結んでいた。 このイギリスの三枚舌外交が、パレスチナの問題を
より複雑化していく。 

  

  イギリスの委任統治領      イラク   ヨルダン   パレスチナ  
  フランスの委任統治領      シリア   レバノン

   

 イギリスの委任統治領となったパレスチナについては、バルフォア宣言が守られ、ユダヤ人入植が一挙に増加
していった。 シリアに入ったフランス軍は国王・ファイサルを追放した。 これに対して、アラブ人は反発、アラブ
民族主義を主張して両者の抗争は激化した。
 第一次世界大戦後、オスマン=トルコの崩壊により、シオニズム運動アラブ民族主義は、複雑・微妙にから
みあうことになった。

  

 ユダヤ人  シオニズム運動
   『 迫害から逃れるため、世界各地に離散して 
  いるユダヤ人国家をパレスチナの地に建設し
  よう 』 
←対立→
 アラブ人  アラブ民族主義
   『 オスマン=トルコの支配下で、アラブ人
  はバラバラになっているが、本来アラブは
  一つである  』 

 

 アラブ人の反シオニズム闘争に手を焼いたイギリスは、ユダヤ人のパレスチナ入植を制限したが、第二次世界
大戦が近づくと、厳しい迫害から逃れたユダヤ人は、続々とパレスチナの土地へ移住していった。

 

  

  ヒトラー政権のユダヤ人迫害  

 【ヒトラー政権誕生】  

 1919年にミュンヘンで結成されたナチス( 国家社会主義ドイツ労働者党 )は、政策目標の一つにゲルマン民
族の人権的優越論を説き、「大ドイツの建設・ユダヤ人排斥」を掲げて、中産階級を中心に広く支持者を集めた。

   1933年・・・・ヒトラーが首相となり、政権を握る。  

 彼は、民主的なワイマール憲法を停止し、民主主義を否定、言論・出版を厳しく取締り、ユダヤ人迫害を行っ
た。

  

  ヒトラーは、8分の1の混血までをユダヤ人と規定、その
中に入った者は、公職から追放され、企業経営も禁止され
た。 後には、アウシュビッツなどの強制収容所に入れら
れ、ユダヤ人が大量虐殺された。
 
 こうした情勢の下、アインシュタイントマス=マン
( 文学者 )など著名な人物が相次いで国外に亡命した。
 右写真は、1939年にポーランドで撮影したもので、
ドイツ兵に追いたてられ、ゲットーに強制収容されるユダ
ヤ人一家の様子である。

 

   1938年11月9日・・・・「水晶の夜」事件が起こる。  

   水晶の夜、ドイツ語でクリスタル=ナハト。 響きは詩
 的であるが、実はおそろしい一夜であった。
   その発端は、二日前のパリでの事件。 ドイツ大使館
 員がユダヤ人少年に殺された。 ナチス政権はこれを利
 用する形で、ユダヤ人への報復をドイツ国民に呼びかけ
 た。 一夜のうちにドイツ全土のシナゴグ( ユダヤ教の教
 会堂 )が焼かれ、破壊され、7500のユダヤ人商店がたた
 き壊された。 教会や商店のガラスが街路いっぱいに散
 らばり、街灯のもとで冷たくキラキラと輝いた。 「水晶の
 ↑上写真   当時のアウシュビッツ強制収容所  夜」と呼ばれるゆえんである。
                                    ヒトラー政権は、ユダヤ人に贖罪金( しょくざいきん
=罪ほろぼし金 )として10マルクを科し、国外強制移住を行い、ユダヤ人の生存をおびやかし始める。  行き先
は、総数 600万人にのぼるユダヤ人大虐殺である。

 ↓下写真  現在のアウシュビッツ強制収容所 

  収容所の中の子どもたち

 

 「ユダヤ人は悪魔の子」という古くからの反ユダヤ人感情と、世界恐慌以来のドイツ経済の窮乏・国民の不満が
結びつき、ユダヤ人絶滅という狂信的スローガンになっていった。

   

 

【『アンネの日記』】  

 アンネ=フランクは、1929年、純粋ユダヤ人としてドイツのフランクフルトに生まれた。
 ナチス政権が誕生すると、一家は迫害を避けてオランダのアムステルダムに移った。 ドイツ軍がオランダを占
領して以来、オランダのユダヤ人に対する迫害が深刻となり、一家はアムステルダム市内の隠れ家に移った。
   1944年8月4日・・・・アンネ=フランク一家は、強制収容所に収容される。
 収容所でのアンネは、勇敢な態度をとり、仲間をなぐさめたりした。 しかし、体は衰弱していた。
   1945年3月・・・・ベルゲン=ベルゼン収容所で、15歳の若さで亡くなる。
 『アンネの日記』は、13歳の時から始まり、逮捕されるまでの2年間続いている。

  

   シオニズム運動の高まりと、厳しい迫害という現実から逃れたいユ
ダヤ人は、パレスチナの土地へ移住し始めた。 第二次世界大戦
前、ヒトラーによるユダヤ人迫害が激しくなると、その数は増え、
超満員の難民船がパレスチナの土地をめざした ( 左写真)。 
 戦後、イスラエル建国の前後まで、多くのユダヤ人を乗せた船
がパレスチナの土地をめざした。

  

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