わかりやすい
 近現代史シリーズ
  
 TERUO MATSUBARA 
  ベトナムでの 
          2つの戦争 
 

 

  上右写真は、1986年アメリカ映画 『 プラトーン 』 の1シーン。 アメリカ兵の目を通して、ベトナム戦争を
描き、戦争の残虐性を訴えている作品。 他にも、ベトナム戦争は多くの映画・小説の題材となっている。

 

  これ以前のベトナムの歴史については、 『 ベトナムの歴史 』 のサイトへ  

 

  1945年8月 ――― 第二次世界大戦は終了する。

 戦後、ホーチミンベトナム民主共和国の独立を宣言した。

   ホーチミンとは? 

   1890年、フランスを嫌った役人の息子として生まれる。  若い頃にベトナムを出国し、欧米で船員・
  コックとして働く。  1917年、パリに行き、グエンアイコックと名乗り、ベトナム独立運動を始め、次第に
  有名な存在になった。   1921年、フランス共産党にベトナム人として初めて入党した。 その後もフラ
  ンスに留まり、反植民地新聞のカメラマン助手として働いた。  1923年にはモスクワへ渡り、その後、
  中国など各地を飛び回った。 そして、ベトナムでは彼の支持者が運動を始めていた。 

   1930年 ――― ベトナムで、ベトナム共産党が結成される。

 第二次世界大戦中、ホーチミンはベトナムに帰国し、ベトナム独立連盟( ベトミン )を指導して民族運動を展
開した。 ベトミンは共産主義者グループだが、戦争中は民族主義のグループとして、ゲリラ活動で日本・フラン
スに抵抗していた。

  

 

   フランスの敗退 

【インドシナ戦争の開始】 

 戦後、日本軍の武装解除のためベトナムに来たイギリス軍は、
フランスに再軍備をさせ、ベトミンをサイゴンから追い出す手助け
をした。 ベトミンの過激な戦い方は南部の民族主義者からも
嫌われ、ベトミンはサイゴンから追い出された。  こうして、フラン
スは、ベトナム南部での主導権を取り戻した。
 また、ホーチミンのベトナム民主共和国は 「 南ベトナムも自
国の領土だ 」 と主張し、フランスはそれを認めようとしなかった。
こうして、フランスとベトナムの関係は急速に悪化した。
 
   1946年11月 ――― フランスはサイゴンを攻撃する
                   ( =インドシナ戦争の開始 )。

   

【ディエンビェンフーの攻防】 

 アメリカの武器援助を受けていたフランス軍は、すぐベトミンを倒せると思い込んでいた。
   1949年 ――― フランスは、元首にバオ=ダイをたてて、ベトナム国を樹立する。
 アメリカは、バオ=ダイ政権( ベトナム国 )を承認した。
 一方、ベトミンには仲間ができた。 毛沢東の中国である。 中国やソ連はホーチミン政権を承認、当時のベト
ナム人のほとんどは、バオ=ダイ政権ではなく、ホーチミン政権の方を支持した。  
 
   1950年5月 ――― アメリカは、インドシナのフランスへ援助を始める。
 この戦いはもはや植民地紛争ではなく、二大陣営の戦い( =冷戦 ) の色合いを濃くしていった。
 しかし、反共産主義政権のベトナム国の独立を認めたいアメリカと、それを認めないフランスとでは意見がちが
っていた。
 フランス軍は、ベトミンのゲリラ作戦などに苦み、戦局は次第にフランスにとって不利となっていった。

   1954年4月 ――― 西部山岳地帯のディエンビェンフーで、フランス軍は大敗する。 

 ディエンビェンフーは、ラオス解放を狙うベトミン軍の通路であった。 ベトミン軍は掘りをめぐらし、滑走路を使
えなくした。 フランス軍の食料・医療品は底をつき、負傷者を運ぶこともできなかった。 

     

 

【ジュネーブ休戦協定】 

 インドシナ戦争の死者は、フランス軍が1500人、ベトミン軍が8000人だったが、フランス軍の捕虜約1万人
は、収容所でほとんど死んだ。

   1954年7月 ――― ジュネーブ休戦協定( インドシナ休戦協定 )が結ばれる。 

    ( 内容 )  北緯17度線を暫定的な軍事境界線とし、ホーチミン政権は北部ベトナムを統治する。
 
 ホーチミンのベトミン軍はハノイに入った。  フランスは、家・トラック・工場、死んだ兵士の遺体まで掘り起こ
し、ベトナムから引き上げていった。  こうして、100年に及ぶフランスの植民地支配は終わりを告げた。

 

  

   アメリカの影 

【ゴ=ディン=ディエム政権の誕生】 

  ジュネーブ協定後、南では、ゴ=ディン=ディエムが実権を握った。 
  ゴ=ディン=ディエムは、バオ=ダイに指名された首相で、敬虔なカトリック
 教徒であった。 アメリカは、このゴ=ディン=ディエム政権に期待をした。
  ジュネーブ休戦協定が結ばれた1954年の秋から、北ベトナムのカトリック
 教徒が南ベトナムに避難を始めた。 戦争中、フランスに協力的だったカトリ
 ック難民が共産主義の報復を恐れて、同じカトリックのゴ=ディン=ディエム
 に救いを求めたのである。  アメリカは、この事実を 「 北の共産主義
 支配から自由をもとめて脱出!」 と反共の宣伝に用いた。
  アメリカは、ゴ=ディン=ディエムを東南アジアにおける反共の旗頭とした。
 ゴ=ディン=ディエムは、ジュネーブ協定で決められた統一選挙を拒否し
 た。 統一選挙は実施されず、ベトナムは分割されたままとなった。
    1955年 ――― 南にベトナム共和国が成立し、
                 ゴ=ディン=ディエム大統領が就任する。 
 ← 左図で、ベトナムの戦後のおおまかな流れを頭に入れておこう。

 

【南ベトナム解放民族戦線( ベトコン )の結成】 

 ゴ=ディン=ディエムは、アメリカの助言に反抗することもあった。  彼自身が誇り高き民族主義者であったの
だ。  こうして、徐々に、ゴ=ディン=ディエムの独裁色が強まる。
 特に、ゴ=ディン=ディエムの弟・ニューとその夫人の行動は目に余った。 秘密警察を私物化し、共産主義者
を抹殺し始めた。 こうして、ゴ=ディン=ディエムと影にいるアメリカの弾圧が強まっていった。  民衆はこのま
までは殺されると思った。

   1960年12月 ――― 南ベトナム解放民族戦線( ベトコン )が結成される。 

     ( 目的 )  ゴ=ディン=ディエム アメリカ の圧迫から国民を解放するため
 民衆は、ジュネーブ協定の統一選挙が無視され、強まる弾圧に対抗して、ついに戦火を開いたのである。 ベト
コンは北ベトナムの指導によって結成され、ゲリラ戦を展開した。 

   1961年 ――― ケネディが、アメリカの大統領に就任する。 

 ケネディは、当時世界最強といわれたアメリカの特殊部隊 「 グリーンベレー 」 を訓練教育のため送ることにし
た。  一方、南ベトナムにおけるベトコンの行動は活発になった。

 

 

【軍事クーデター】 

 ゴ=ディン=ディエム政権への反感がエスカレートしていく原因の最たるものは、秘密警察を牛耳る弟のニュー
にあった。  ニューは共産主義者だけでなく、反体制派を厳しく弾圧した。

   1963年・春 ――― 政府の発砲事件で三人の僧侶が死亡し、僧侶の抗議デモが起きる。 

  6月、仏教僧・クアン=ドク師の抗議行動は全世界を驚かせ
 た。 彼は、車を降りると路上に座り、僧の一人に自分の体に
 ガソリンをかけさせ、火をつけさせた。  炎に包まれたクアン=
 ドク師の写真記事( 左写真 )は新聞の一面に掲載され、ケネ
 ディにも届けられた。 彼は、殉教者となった。
  アメリカは、国民が政府から離れるのを恐れ、南ベトナム政府
 に弾圧をやめるように警告したが、聞き入れなかった。
  夏になって、仏教徒の抵抗は強まり、抗議運動に学生らも加
 わった。  こうした情勢の下、軍部はゴ=ディン=ディエムの
 退陣を考えていた。 アメリカも同じであった。

   1963年11月2日未明 ――― 軍部クーデターが起こり、ゴ=ディン=ディエムが殺される。  

 ゴ=ディン=ディエムとその弟ニューは、官邸の地下道から逃走し、中国人街の商店に逃げた。  そして、その
日の朝、兵士に発見され装甲車の中に押し込められ、射殺された。
 その3週間後、アメリカではケネディ大統領が、遊説中に暗殺された。

 

  

   ベトナム戦争 

【トンキン湾事件】 

 ゴ=ディン=ディエムが倒れても、南ベトナムの政情は不安定であった。
 ケネディに代わってアメリカの大統領となったジョンソンは、ベトナムへの介入をすすめ 「 共産主義撃滅 」 を公
約した。

   1964年8月2日 ――― トンキン湾事件が起こる。 

 アメリカの駆逐艦マドックスは、北ベトナムのトンキン湾で、通常パトロール中に北ベトナム魚雷艇から攻撃を受
けた事件であるが、不審な点がいくつかあった。  @アメリカは通常パトロール中ではなく、北ベトナムの基地を
攻撃する作戦を行い、北ベトナムの領海を侵犯していた。  A2発目の攻撃があったのでアメリカは報復に出た
というが、2回目の攻撃はなかった。 後に、この事件はアメリカのでっち上げと判明した。
 トンキン湾事件を理由に、初めて、米軍機が北ベトナムを攻撃した。 その後、1964年のアメリカ大統領選挙
の前夜、サイゴンに近い米空軍基地がベトコンに攻撃され、航空機を破壊された。

  

      ベトナム戦争に関連する地名および国際関係

 

【北爆の開始】 

 アメリカ大統領選挙に勝ったジョンソンは、北爆を決めた。
   1965年3月8日 ――― 3500名のアメリカ海兵隊が、ダナン港に上陸する。
 その3週間後、ベトコンはアメリカ大使館を爆破した。 アメリカの介入は次第に本格化し、この年の春派遣され
た海兵隊の数は72000名にのぼった。  この年の秋、北ベトナム軍は中央高地に集結、ドランバレイで、アメリ
カ軍と北ベトナム軍は、初めて直接戦火を交えた。  こうして、ベトナム戦争はアメリカの戦争へと拡大した。

 

【ベトコンの脅威】 

 1960年に結成されたベトコンは、北ベトナムや中国の援助を受け、「 ゴ=ディン=ディエムの退陣 」 「 アメリ
カの排除 」 「 独立 」 を要求し、南ベトナム軍・アメリカ軍と戦った。   ( 1963年/ゴ=ディン=ディエムは暗殺
される )

 

 ベトコンは、最初、手作りの武器で戦っていたが、1964年から、ホーチ
ミンルートによって武器が援助された。  老人や子供もベトコンに参加し
た。  アメリカの不発弾を掘り起こして兵器を製造したり、子供も自分たち
で作った兵器で戦った。 ベトコンは南部住民の支持を得た。 南ベトナム
軍は、ベトコンの原始的な武器に悩まされた。  また、ホーチミンルート
を遮断することもできず、北から南へ軍事物資・兵員が運びこまれた。
 北ベトナムでは、爆撃から守るために数百mのトンネルを作り、その中
に工場・家を作ったりした。
                    ベトナムの戦火を逃れる親子  右写真 →

 

 

【テト攻勢】 

   1968年1月31日( 旧正月 ) ――― テト( 旧正月 )攻勢が行われる。
 2万の北ベトナム軍が南下、ベトコンと一体化し、南ベトナム各地で大攻勢をかけた。
 ベトコンは、今まで農村・ジャングルで活動していたが、この時が最初の都市攻撃だった。  特に、サイゴンの
アメリカ大使館襲撃は、ベトコンの底知れぬ恐ろしさを見せつけた。  

 

 ベトコンの攻勢は軍事的に失敗し、多数の戦死者・逮捕
者を出した。  以後、南への攻撃は北ベトナム正規軍に
よって行われることが多くなった。  しかし、テト攻勢は、
アメリカのジョンソン大統領に衝撃を与えた。
 アメリカも巻き返し、ベトコン兵士を路上で射殺し、処刑し
た。 右写真はそのシーンである。 この映像は、世界に
計り知れない衝撃を与えた。
 「 アメリカがついているのは正義の側なのか? 」   
 ジョンソン米大統領への不信も生まれた。

 

 

【枯れ葉作戦】    

  密林でのゲリラ戦に悩んだアメリカは、1967年
 から大規模にダイオキシンなどの薬剤を使用し
 た。 目的は、次の2つだ。
  @ ベトコンが身を隠す森林を排除するため
  A 農作物を枯らして食料を断つため    
 1969年まで続いたこの作戦は「枯れ葉作戦」
 呼ばれ、ベトナムの森林の20%が枯れた。
  ダイオキシンを浴びた住民や兵士の間に、多数
 のガン患者や奇形児出産が発生したため大きな
 問題となった。  ・ ・
  ←左写真 
   空から枯葉剤をまくアメリカ軍    ・

 

 二重体児( 下半身1人で上半身が2人分 )のベトちゃん・ドク
ちゃん( 右写真 )は、枯葉剤に含まれるダイオキシンの犠牲者
として有名だ。
 他に、眼球のない胎児、脳のない胎児などが生まれた。 被害
は帰還した米軍兵にも出ている。
 アメリカの財政赤字は増えつづけ、またこの「枯れ葉作戦」に
より、アメリカへの内外からベトナム反戦運動が日増しに高まっ
ていった。 徴兵拒否の動きも拡大し、1967年には、ワシントン
で大規模な反戦集会デモが行われ、軍隊と衝突した。 ( この日
は、後に国際反戦デーとなる )
 ・
 ・

↓左写真 枯葉剤で木が枯れたベトナムの地に降りるアメリカ兵   右写真  枯葉剤によって枯れ果てたマングローブ林 

  

   

【北爆の停止】    

 アメリカ国内でも反戦ムードが高まる中、議会も勝利か
撤退かの選択を迫った。  戦争経費が増大し、経済的な 
問題もあった。
   1968年3月 ――― ジョンソン大統領は、 
                   北爆の停止を発表する。
                            右写真 →
      アメリカで盛り上がる反戦運動  徴兵カードを燃やす若者

 

 同年5月、北ベトナム代表が和平のためパリを訪れ、停戦協定会議が始まった。
 パリ停戦協定会議が開かれている一方で、ベトナムでの戦闘は止まなかった。

 

   1969年7月 ――― ニクソン大統領が、ベトナム化政策を発表する。
 ベトナム化政策とは、戦いを南ベトナム軍にまかせ、アメリカ軍は撤退を始めるというものだが、技術・物資の
援助、訓練は与えるという内容のものだ。
 
 南ベトナム支援のアメリカ軍兵士の任期は一年であった。 アメリカ軍基地では多くのベトナム人が高給で雇わ
れた。 1970年代に入り、アメリカ軍の間で性病・麻薬が広がり、軍の士気は低下していた。  1968年のジョ
ンソン大統領の 「 北爆停止 」 発表以後、アメリカ軍の削減は続けられた ( 1970年までの2年間で30万人減
少 ) が、新しくやってきた兵士の反戦思想は、軍の士気低下の原因となった。 アメリカ軍の質は大きく変わり、 
ベトナムから帰還したばかりの兵士の中には、アメリカで反戦運動に参加するものが多かった。

   1969年9月 ――― ホーチミンが死去する。

 

   世界に衝撃を与えた1枚の写真

 
 1972年、南ベトナム軍の空軍機がナパーム弾を投下し、キム・フックが暮らすベトナムのチャンバンは
空襲を受けた。 ナパーム弾は、ゼリー状の可燃物質が飛び散り、辺り一面を焼けつくす兵器である。 
 この時、逃げ惑う村人らとともに、「熱いよ、熱いよ」 と叫びながら裸で逃げる9歳の少女の写真が、世界
の新聞の一面を飾り、衝撃を与えた。 背中には大やけどを負っている。 撮影したのはAP通信のアメリ
カ国籍のベトナム人カメラマンで、この写真は翌1973年、ピューリッツァー賞を獲得している。 時のアメ
リカ大統領ニクソンは「この写真は合成だ」として認めなかった。
 キム・フックはこの空襲で重度の火傷を負ったが、撮影したカメラマンやイギリス人記者の計らいで専門
の整形外科病院で治療し17回にも及ぶ手術の末、一命をとりとめることができた。
 ベトナム共産党は、この写真を反米宣伝の材料に利用するため、成長したフックを広告塔に仕立て上げ
た。 その後、フックはベトナム人男性と出会って結婚、1992年、新婚旅行の途中にカナダに亡命した。
2児の母となり夫とともにカナダで暮らし、自伝出版や、ユネスコ大使などの活動をするなど、戦争で被害
を受けた子供たちを支援している。
ナパーム弾の
被害を受けた時の
キム・フックさん
              →
 生まれた子どもと一緒に
        撮った写真
 背中には戦争の傷跡が

 

 

 

【CIAの暗躍】 

 1968年頃から、CIA ( アメリカ中央情報局 ) は平定計画 ( フェニックス計画 ) を開始した。 それは、農村地
帯におけるベトコン容疑者の摘発であった。 
   *CIA ――― 海外での情報収集や政治工作を任務とする大統領直属の機関。
 平定計画は、CIAの指導を受けた南ベトナム人によって行われ、容疑者を殺すより、捕虜にして情報を聞き出
した。  そのための残虐な拷問が繰り返された。  秘密工作員の情報収集は後で共産軍もその効果を認めて
いる。

 

 

【パリ和平協定】 

   1970年 ――― ニクソン大統領のアメリカは、カンボジアへ侵攻する。
 ベトナムからの撤退を早めるため、アメリカはカンボジア領内の北ベトナム補給基地を攻撃した。  また、カ
ンボジアでクーデターを行った親米的なロンノル政権を支援するという目的もあった。  こうして、戦火はインド
ネシア半島全域へと広がった。

  

   1973年1月27日 ――― パリ和平協定( =ベトナム和平協定 )が調印される。
      ( 内容 ) @ 南ベトナムに二つの政府の存在を認める  A アメリカ軍の撤退
              B 捕虜の釈放    C 北ベトナム軍の南ベトナム駐留を認める
 8年前、アメリカ戦闘部隊を初めてベトナムに派遣したジョンソン大統領は、この調印の前日に亡くなった。

 

 

【サイゴン陥落とベトナム統一】 

 しかし、北ベトナムとベトコンにとって戦争は終わらず、
ベトナムは分裂したままであった。 アメリカのいなくなった
ベトナムでは、北ベトナムが優勢となった。
 
   1975年 ――― サイゴンが陥落する。 
 こうして、アメリカが威信をかけて守ろうとした南ベトナム
は崩壊した。 
 
                          右写真 
 サイゴン陥落直前、アメリカ軍ヘリコプターで脱出する南ベトナム市民

 

  べトナム戦争におけるアメリカの目的は、南ベトナムの反共政
 権維持にあったが、南べトナム崩壊に終わった。
  この戦争は、明らかにアメリカの敗北であった。
← 左写真
  べトコンが戦車を先頭にサイゴンに突入、首都は陥落した。

   1976年 ――― べトナムは統一され、べトナム社会主義共和国が成立する。 

 

【ベトナム難民】 

 ベトナム統一とその後の社会主義化による農業・工業の国営化強行のため、経済は混乱し、多くの人が難民と
なった。  いわゆるベトナム難民で、ベトナム南部からボートや漁船で南シナ海に出た難民はボート=ピープ
と呼ばれた。
 ベトナム難民( ボートピープル )は、1979年に20万人を超えピークだった。  その後は減少傾向にあった
が、1986年から増えつづけている。  難民たちの出国理由には、次のようなものがある。
    @ベトナムでの生活苦、失業。     Aベトナムの治安の悪化。      B徴兵を避けるため。  
    C共産党幹部の腐敗、格差に対する不満。
 1986年からの難民数増加は、ベトナムのインフレ・失業など経済状態の極端な悪化がある。  活路を出稼ぎ
に求めての脱出が増え、日本も人気がある。

   1995年 ――― ベトナムとアメリカの国交が開かれる。

 

  これ以後のベトナムの歴史については、 『 ベトナムの歴史 』 のサイトへ