アジアは我々のものだ!  ―― 日本の領土拡大の歴史 
  第3章 真珠湾攻撃から敗戦まで
                                   TERUO MATSUBARA 

 

 

 

    真珠湾攻撃 

 

  当時の首相・近衛文麿は、アメリカとの関係をよくするための日米
交渉を継続しようとした。 しかし、東条英機陸軍大臣は日米交渉を
打ち切って、開戦を主張した。 両者は対立し、結局、近衛内閣は総
辞職した。 
  1941年10月 ―― 東条英機内閣が成立する。 
 11月に出されたアメリカ側の提案( ハル・ノート )は、 「 中国・仏印
からの日本軍の全面撤退、満州国の否認 」 など満州事変以前の状
態への復帰を要求するものだったので、日米交渉成立は絶望的とな
った。 

   1941年12月8日 ―― 日本は、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃する( 上下写真 )

 

 日本はアメリカとイギリスに宣戦布告を行い、太平洋戦争が始まった。
 アメリカへの事実上の宣戦布告である交渉打ち切り通告は、在米日本
大使館の不手際で、真珠湾奇襲攻撃開始後になってしまった。  「 日本
の不意打ち 」 はアメリカに衝撃を与え、以後、戦争中 「 リメンバー・パー
ル・ハーバー 」のスローガンが叫ばれた。 
 アメリカ国民の日本に対する敵対心は燃え上がり、カリフォルニア州を
はじめ西海岸に住む10万人以上の日系アメリカ人が強制収容所に集め
られた。 同じ枢軸国のドイツ系・イタリア系のアメリカ人に対してはこうし
た措置はとられなかった。

 

 枢軸国
 ファシズム ( 軍国主義的独裁主義 )
   日本   ドイツ   イタリア      
 第二次世界大戦対立図 
 連合国
 民主主義
 アメリカ  ソ連  中国
 イギリス  フランス など

 

 

  1942年2月 ―― シンガポールのイギリス軍が降伏する。
        3月 ―― 日本は、ジャワ島に上陸、オランダ軍が降伏する。 
 開戦から半年、日本は圧倒的に有利で、東は太平洋の島々から、西は東南アジアにいたる一帯を占領した。

 

 日本が、太平洋戦争中、どのあたりまで占領したか? 地図で確かめよう。   

 

 占領地域で、日本はどのようなことをしたのか?  
  ● 戦争を続けるために必要な資源や米を強制的にとる。
  ● 鉱山や工場で強制的に働かせる。
  ● 日本語教育を行う。( 右写真 )
  ● 日本式神社への参拝、天皇崇拝を強要する。
  ● 虐殺。
  ● 従軍慰安婦として強制連行する。 
      ――  韓国・中国・インドネシア・フィリピンなどでみられた。  
・ 

 

  バターン死の行進           
  1942年、フィリピンのバターン半島を日本軍が占領し
 た。 この時、日本軍は、捕虜にしたアメリカ軍とフィリピン  
 兵を炎天下に約60km歩かせて( 右写真 )、アメリカ兵
 2300人など多くの死者を出した。
  戦争中の日本軍が行った残虐行為の一つとして知られ
 ている。

 

  日本細菌戦部隊 ・ 七三一部隊のサイトがあります。          

 

 日本は 『 大東亜共栄圏の建設 』 をスローガンに 「 アジアの
諸民族を欧米の植民地支配から解放する 」 と訴え、アジア各地
に進駐した。 
 しかし、日本としては戦争を続けるために、石油・ゴムなどの資
源やコメなどの食料を確保する必要があった。 そこで、日本は、
占領した地域で軍政をしき、それまで支配していた欧米諸国に代
わってアジアを支配した。 現地の物資を徴発し、鉱山や工場で
↑ 上写真 働かせたりした。 それがわかると、アジアでは日本支配への
日の丸を振り日本軍を歓迎する 反抗が次第に表面化していった。  
 東南アジアの子供たち

 

 

    分岐点となったミッドウェー海戦 

 

   1942年 ―― ミッドウェーの海戦
          日本が敗れる。
  アメリカは、日本のミッドウェー攻撃を事
 前に暗号で解読していた。 この年の後
 半からアメリカの本格的な反抗が開始さ
 れ、戦いの流れが変わった。
  左地図赤線が日本が最大限侵略し
 た範囲だが、ミッドウェー海戦の後、アメ
 リカ軍は青矢印の方向から反攻し、太平
 洋の島々は次々とアメリカの手にわたっ
 ていく。

 

 

  1942年8月 ―― アメリカは、南太平洋のガダルカナル島に上陸する。(→1943年2月 日本敗退) 
  1944年6月 ―― アメリカは、サイパン島に上陸する。 ( →1944年7月 日本敗退) 
 サイパン島陥落の責任を問う形で、東条英機内閣は総辞職した。
 生きて捕虜となるな、という日本軍の命令は民間人を巻き込み、サイパン島の戦いでは女性を含めて大勢の人
が断崖から海に身を投げた。 そのため、その地は米軍によってバンザイクリフ( 下写真 )と名づけられた。 

 

 サイパン島に残る
 日本軍兵器の残
 骸 →
← バンザイクリフ
    ( 万歳岬 )

 

 サイパン島にはアメリカ軍の航空基地が作られ、
以後、サイパン島はアメリカ軍の日本爆撃の基地
となった。
 それまでアメリカ軍の攻撃機はハワイなどの基地
を飛び立ってきたが、日本まで距離があるため
日本への空襲はできなかった。 サイパン島の
日本への距離的近さを考えると、サイパン島の陥
落は、アメリカ軍の日本本土への空襲を可能に
することになった。
 こうして、1944年の暮れから、B29爆撃機によ
本土空襲が開始された。
                      右地図 
               空襲を受けた日本の都市

 

 

【戦時下の国民生活】

 

  1945年3月10日 ―― 東京大空襲があり、一夜で東京の40%が焼失する。  ( 約10万人が死亡 )
 地方都市も空襲を受けるようになり、戦力は日々、衰えた。   

 

 戦局の悪化とともに、学童たちは、空襲をさけるために田舎に疎開することになった( 学童疎開 )。 最初は、
親戚や知人をたよっての疎開であったが、後に、集団疎開となった。
                          残留組と疎開組の学童たちの壮行会( 1944年8月、東京にて )  下写真 ↓

 

  各地での日本軍の敗戦の事実は、国民には知らされず、
 政府や軍は、必ず勝つと宣伝した。
   1943年12月 ―― 学徒出陣が始まる。
  左写真は、国民学校の軍事教練( 1942年東京 )の様子
 を写したもので、学童も戦時体制に組み込まれていった。
  1944年に入ると、中学生以上は勉強の代わりに、工場の
 仕事や土木作業をすることが多くなった。 さらに、25歳以
 下の未婚女性を女子挺身隊に編成して、軍需工場へ動員し
 た。
 都市の食料不足は深刻で、人々は飢えに悩まされ、庭や公園、学校の運動場までが畑に変わっていった。

 

   1941年から米は配給制となったが、1942年初めには、みそ・しょうゆ・衣料などが切符制となった。 
  切符制度は砂糖・マッチ・木炭にまで及び、日本中に広がった。 切符制では、背広50点、靴下2点など
  と定め、1年間に1人が購入できる衣料の限度を、都市部100点、郡部80点とした。

 

 

 

↓下左写真  教室で軍服を縫う女学生              軍事教練を受ける女学生 下右写真↓

 

 

 

    降伏までの道 

 

 1944年、フィリピンのレイテ島沖海戦から日本は、特別攻撃隊(=特攻隊)を組織した。 特攻隊とは、片道
だけの燃料しか積まず、死ぬことを覚悟して敵の艦船に爆弾を抱えたままで体当たりする部隊をいう。 特攻隊
への入隊は、すなわち、死を意味する。 下の2枚の写真は、出撃前に別れの杯をくみかわす神風特攻隊員を
写したものである( 1944年12月撮影 )。
 特攻隊の攻撃では、4000人近くが戦死した。 特攻隊攻撃は飛行機によるものだけでなく、歩兵が爆薬を抱
いて戦車の下に身を投げる攻撃法もあった。

 

   1945年4月 ―― アメリカ軍は沖縄
             に上陸する。
  沖縄は、日本で唯一、アメリカ軍との地
 上戦が行われた場所であり、多くの民間
 人が犠牲になった。 女子生徒らの
 「ひめゆり部隊」は看護婦として従軍し、
 そのほとんどが戦死あるいは集団自決し
 た。
 ← 左写真
 ひめゆり部隊となった沖縄師範女子部の生徒たち

   

 また、男子中等学校生徒も戦闘にかりだされ、鉄血勤皇隊が組織されたが、約900名の死者を出した。 
沖縄では、日本軍がスパイ容疑や戦闘のじゃまになるという理由で、沖縄の住民を殺害することもあった。
アメリカ軍は6月に沖縄を占領した。 沖縄戦では、住民45万人のうち、12万人以上が犠牲となった。

   1945年8月 ―― 広島( 6日 ) と長崎 ( 9日 ) に原爆が落とされる。    

・ 広島では約20万人、長崎では7万人以上が亡くなっ
た。 現在でも多くの人が放射線障害に苦しんでいる。 
      右写真 →
広島に原爆が投下され
た瞬間の写真 

    

        右写真 →
   広島の爆心地付近の写真
 写真の右奥に写るの
が、広島市の産業奨励館
で、原型をとどめた。 現 
在は原爆ドームとして、原
爆の被害を今に伝える建
物として世界遺産に指定さ
れている。

 

 終戦直前、満州には約150万人もの日本人がいた。 長崎に原爆が落とされた日、ソ連が日本を敵とみなして
参戦、満州になだれこんできた。  満州にいた日本軍は居留民を見捨てて、主力を撤退させた。  自分たちを
守ってくれるはずの軍隊がいなくなった居留民たちを待ち受けていたものは、ソ連軍による略奪・暴行・虐殺と
飢えだった。
 こうして満州国は崩壊し、多くの日本人があわてて日本に帰った。 その過程で、多くの中国残留孤児が生ま
れた。 また、ソ連軍に捕らえられたものはシベリアなどの極寒の地に送られ、森林を切り倒し、鉄道を建設する
などの強制労働をしいられた。 57万人のうち、6万人が死亡したという。 

 

   

     中国残留孤児について              
    シベリア抑留について  

   

   1945年7月 ―― アメリカ・イギリス・ソ連の首脳は、ポツダム会談を開く。
 この会談で、アメリカ・イギリス・中国の連名で ( 後にソ連も参加 ) ポツダム宣言を発表し、日本の降伏を呼び
かけたが、日本はこれを黙殺して戦いを続けた。
 1945年2月に開かれたヤルタ会談で、ソ連の対日参戦が決まっていた。 
        8月8日 ―― ソ連は日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州・朝鮮北部・千島に侵入する。
 ついに、日本は8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏した。
        8月15日 ―― 天皇のラジオ放送で終戦を発表する。(=終戦記念日
 こうして、3年8ヵ月にわたる太平洋戦争は日本の敗北で終わった。

 

  日本の植民地だった朝鮮半島の人々は、日本の敗戦
によって 「 これで独立できる 」 と喜んだ( 右写真 )。 
しかし、敗戦国・日本の領土だったため、北半分がソ連、
南半分がアメリカによって占領されることになった。
 また、敗戦時、海外には軍人・民間人あわせて600万
人を超える日本人が残されていた。 海外から帰国する
軍人や民間人を乗せた引き揚げ船はどれも超満員だ
った。
             右写真 →
  朝鮮から復員兵士を満載して
 日本にもどってきた引き揚げ船
   ( 米軍撮影/博多港にて )

 

  降伏した日本は、連合国軍によって占領されたが、占領軍
 は、実質的にアメリカ軍のみだった。
      
↑上写真  厚木飛行場に降りた連合国軍最高司令官のマッカーサー
← 左写真  海外からの引き揚げ者数 ( 民間人を含む )  

 

     極東国際軍事裁判( 東京裁判 )について           

 

    『 アジアは我々のものだ! 』 の目次へ