ヒトラーの
        ユダヤ人迫害 
            TERUO MATSUBARA

  

  ヒトラーの時代より以前のユダヤ人の歴史に関しては 『 パレスチナ
 紛争( 2 ) ユダヤ人の迫害 三つの約束 』 のサイトに詳しい解説
 があります。   

 

 19世紀に登場した新しいユダヤ人迫害の理由は、民族主義である。  迫害の対象が宗教ではなく、人種の問
題となった。  すなわち、「 白人は世界で最も優秀な人種であり、ユダヤ人との混血で汚してはならない 」 
という結論に達したのである。  ヒトラーによるユダヤ人迫害もこの理由からである。
 自由主義の中で、ユダヤ人は多くの分野に素晴らしい才能を発揮した。  歴史に残る人々に、マルクス( 経
済 ) ・ アインシュタイン( 物理 ) ・ ハイネ( 詩人 ) ・ メンデルスゾーン( 音楽 )たちがいる。 ノーベル賞を受賞した
ユダヤ人は70名近くで、他の民族と比較すると圧倒的多数を占める。

 

   1933年 ―― ドイツで、ヒトラーが政権につく。

 ヒトラーは、8分の1の混血までをユダヤ人と規定、その中に入った者は、公職から追放され、企業経営も禁止
された。 後には、アウシュビッツなどの強制収容所に入れられ、ユダヤ人が大量虐殺された。 こうした情勢
の下、アインシュタイントマス=マン( 文学者 )など著名な人物が相次いで国外に亡命した。

 

   「水晶の夜」事件 ( 1938年11月9日 )

   水晶の夜、ドイツ語でクリスタル=ナハト。 響きは詩的であるが、実はおそろしい一夜であった。
   その発端は、二日前のパリでの事件。 ドイツ大使館員がユダヤ人少年に殺された。 ナチス政権は
  これを利用する形で、ユダヤ人への報復をドイツ国民に呼びかけた。 一夜のうちにドイツ全土のシナゴ
  グ( ユダヤ教の教会堂 )が焼かれ、破壊され、7500のユダヤ人商店がたたき壊された。 教会や商店
  のガラスが街路いっぱいに散らばり、街灯のもとで冷たくキラキラと輝いた。 「水晶の夜」と呼ばれるゆ
  えんである。 ヒトラー政権は、ユダヤ人に贖罪金( しょくざいきん=罪ほろぼし金 )として10マルクを科
  し、国外強制移住を行い、ユダヤ人の生存をおびやかし始める。  行き先は、総数 600万人にのぼる
  ユダヤ人大虐殺である。

  

 「ユダヤ人は悪魔の子」という古くからの反ユダヤ人感情と、世界恐慌以来のドイツ経済の窮乏・国民の不満が
結びつき、ユダヤ人絶滅という狂信的スローガンになっていった。

   

  左写真は、1939年にポーランドで撮
 影されたもので、ドイツ兵に追いたてら
 れ、ゲットーに強制収容されるユダヤ人
 一家の様子である。
  下写真は、強制収容所の中のユダヤ
 人の子どもたちを撮影したものである。 

 ↑上写真  現在のアウシュビッツ強制収容所 

 

   『 アンネの日記 』 

   アンネ=フランクは、1929年、純粋ユダヤ人としてドイツのフランクフルトに生まれた。 ナチス政権
  が誕生すると、一家は迫害を避けてオランダのアムステルダムに移った。 ドイツ軍がオランダを占領
  して以来、オランダのユダヤ人に対する迫害が深刻となり、一家はアムステルダム市内の隠れ家に移
  った。 しかし、やがて、ナチスに発見されてしまう。 
    1944年8月4日 ―― アンネ=フランク一家は、強制収容所に収容される。
  収容所でのアンネは、勇敢な態度をとり、仲間をなぐさめたりした。 しかし、体は衰弱していた。
    1945年3月 ―― ベルゲン=ベルゼン収容所で、15歳の若さで亡くなる。

  『アンネの日記』は、13歳の時から始まり、逮捕されるまでの2年間続いている。

 

 シオニズム運動の高まりと、厳しい迫害という現実から逃れたいユダ
ヤ人は、すでに、パレスチナの土地へ移住し始めていた。
 第二次世界大戦前、ヒトラーによるユダヤ人迫害が激しくなると、そ
の数は増え、超満員の難民船( 右写真 )がパレスチナの土地をめざ
した 。

パレスチナに流入するユダヤ人の数