ヒトラーの野望
      ―― 第2次世界大戦前夜までの歴史 ―― 
                  TERUO MATSUBARA

 

  ファシズムの台頭  

 

 第一次世界大戦後、イタリアでは、ムッソリーニ率いるファシスト党が国民の結集を訴えた。 
   1922年 ―― ファシスト党は政権を握り、一党独裁を行う。
 第1次世界大戦後、ドイツはベルサイユ条約の結果、巨額の賠償金を支払うことになった。 経済復興に苦しん
だドイツに世界恐慌が襲い、ドイツの経済は混乱し、600万人を超える失業者を出した。 ワイマール憲法の下
で共和国を支えていた社会民主党の政権はゆらいでいった。

 

【ヒトラー政権誕生】

              ヒトラー( 右 )とムッソリーニ( 左 ) 右写真 →
 ドイツ民族の復興を掲げた政党が民衆の心を引きつけていった。  
アドルフ=ヒトラー 率いる国家社会主義ドイツ労働者党( ナチス )
ある。 
 ヒトラーは民主主義に反対し、ドイツ民族の優秀さを誇り、感情的宣
伝によって多くの国民の支持を集めた。 
  1933年1月 ―― ヒトラーは資本家や軍部にも支持され首相に
           就任して政権を握る。 ( ヒトラー政権誕生 )

 

 1933年3月、総選挙を目前に国会議事堂放火事件が起きた。 ナチスは対抗勢力の共産党の犯行と決めつ
けたが、実際はナチスの計画的謀略とされる。 総選挙に勝利したナチスは一党独裁へと突き進んでいく。
 全権委任法( 政府が国会や大統領の承認なしで立法権を行使できるもの )によって、国会の立法権を政府に
移し、ナチス以外の政党や労働組合を解散させた。 1934年、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは
大統領の権限も合わせて、 「 総統 」 の地位につき、独裁者となった。

 

 

 

  ヒトラーの政策  

 

 ヒトラーは、アウトバーン( 自動車専用道路 )建設などの公共事業と軍事産業によって失業者はなくした。
 しかし一方で、民主的なワイマール憲法を停止し、民主主義を否定、言論・出版を厳しく取り締って個人の自
由を奪い、ユダヤ人迫害を行った。 さらに、ユダヤ人だけでなく政敵への弾圧も行い、国家秘密警察( ゲシュ
タポ )・突撃隊( SA )・親衛隊( SS )によって、イタリアにも増して徹底的なファシズム国家をつくった。 
   1933年秋 ―― 軍備平等権が認められないことを理由に、ドイツは国際連盟を脱退する。

 

 ファシズムとは?

 国家主義的( 軍国主義的 )独裁政治のことで、全体主義と訳される。
  1) 基本的人権や言論・出版・思想の自由を認めない ―― 民主主義を否定し、国家を第一とする( 国家
    主義 )を掲げる
  2) 対外的には、植民地獲得をめざし侵略的政策を行う。( =軍国主義
  3) 中産階級・失業者の不満や社会主義運動に脅威を感じ始めた資本家の危機を背景に、社会主義勢力
    や労働運動に対する抑圧、民族の優越性などナショナリズム( 国家主義 )を掲げる。 
     ⇒ 社会主義・共産主義とは敵対する

 

   『 ヒトラーのユダヤ人迫害 』 のサイトがあります。            

 

   1935年1月 ―― ドイツはザール地方を併合する。
     ( 大戦後、住民投票で帰属を決定することになっていた場所で、ドイツは住民投票を行い併合した )
   1935年3月 ―― ドイツはベルサイユ条約を破棄して、再軍備を宣言する。
   1936年 ―― ドイツはロカルノ条約を破棄して、ラインラントに進駐する。
      ※ ロカルノ条約とは、1925年に結ばれたもので、ドイツと西欧諸国の国境の現状維持を約束するも
       ので、ラインラントの非武装化も内容の一つにあった。

 

     右写真は、映画 『 チャップリンの独裁者 』(1940年)に出演し
    たチャップリン。 彼の代表作の一つで、ヒトラーを演じ、痛烈に批
・ 判している。 
   1889年という同じ年に生まれたヒトラーとチャップリンは激動す
  る世界史の中で正反対の運命をたどることになった。  一方は
  全体主義(=ファシズム)、片方は自由主義である。 

 

 

【イタリアの動き】

 イタリアのムッソリーニは、世界恐慌を対外侵略によって乗り越えようと考えた。
   1935年 ―― イタリアは、エチオピアに侵攻する。 ( 翌1936年、エチオピア併合 )
 国際連盟は、イタリアに経済制裁を行ったが、内容が不十分で効果をあげることはなかった。
   1937年 ―― イタリアは、国際連盟を脱退する。
 アルバニアはイタリアとの関係を深め、恐慌後は財政援助を受け、次第に従属化していった。
   1939年 ―― イタリアはアルバニアに侵攻する。( 〜1943年までアルバニアを併合 )

 

 

  ナチスの侵略と開戦  

【スペイン内乱】

 ドイツを中心としたファシズムの動きに対抗して、民主主義を唱える人々が選挙協力を行った。 また、共産主
義者も革命戦略を変更して、国内の民主主義勢力と手を結び、ファシズムに対抗する方針を出した。 これによ
って誕生した民主主義者・共産主義者の統一戦線を人民戦線と呼ぶ。
 ファシズムの動きに反対して、フランスやスペインでは人民戦線運動が起こった。 
   1936年 ―― 共産党を含む左翼勢力によって、スペインでは人民戦線内閣が作られる。
 これに対し、フランコ将軍を中心とする軍部勢力が旧王党派や地
主層など保守派の支持を得て、モロッコで反乱を起こした。 
 この内乱で、ソ連は政府を、ドイツ・イタリアはフランコを援助した。
イギリスとフランスは、戦争のヨーロッパへの拡大を恐れて不干渉
政策をとった。 ラインラント進駐の4ヵ月後に始まったこのスペイン
内乱は、第2次世界大戦の前哨戦の様相を呈した。
 政府側にはソ連の援助や欧米の社会主義者や知識人の国際義勇
軍の支援があった。 アメリカのヘミングウェー、イギリスのオーウェ
ル、フランスのマルローら有名な作家が参加し、それぞれ内戦を描い
た作品を残している。
  フランコ将軍を支援したドイツの目的は、スペイ
 ン内乱をドイツ兵器の実験場にするためであっ
 た。 スペインの街・ゲルニカがドイツ軍によって
 破壊された( 上写真 )
  パリでそのニュースを知ったスペインの画家・
 ピカソがその怒りから描いたのが『 ゲルニカ 』
( 左写真 )という作品である。 

 

   1939年 ―― フランコ側がマドリードを陥落させて、勝利する。
 人民戦線結成など国際共産主義運動の動きに対して、1936年、日本とドイツは防共協定を結び、1937年に
はイタリアも参加して三国防共協定となった。
 日本が北部仏印を占領した1940年に三国軍事同盟に発展し、結束を強化した。

 

 

  ナチスの侵略と開戦  

 

  1930年代、イギリス・フランスは、ドイツの
 不満を再軍備や旧領土の回復を認めること
 で和らげると同時に、ソ連に対抗させようとす
 る外交政策 宥和( ユウワ )政策をとった。
  すなわち、ドイツの侵略に対して、イギリス・
 フランスは自分の国益を優先して、決然とし
 た態度をとらなかった。 この宥和政策に乗
 じて、ドイツは領土拡大の野望を次々と果た
 していった。
  ヨーロッパでは、資本主義国のイギリス・フ
 ランスとドイツのような遅れた資本主義国が
 対立し、さらに、社会主義国・ソ連がその両者
 と対立するという、不安定な状態にあった。

 

 1938年、ドイツは東ヨーロッパへの侵攻を行った。 
   1938年3月 ―― ドイツ民族の統合を名目に、ドイツ人が多く住んでいたオーストリアを併合する。
 同じくドイツ人が多く居住するチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。 
 ミュンヘン会議( 1938年9月 )では、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳が集まり、チェコスロバキアの
代表を参加させないまま、ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めた。 この会議で、イギリスのチェンバレン首
は宥和政策による解決を図り、戦争回避を優先したが、ドイツの侵略を阻止することはできなかった。
   1939年 ―― ドイツは、チェコスロバキアの解体を強行する。
 西半分を保護領に、東半分のスロバキアを保護国とし、戦争に協力させた。
 さらに、ドイツはポーランドへの侵略をねらった。 イギリスやフランスはこれを防ぐためソ連と結ぼうとしたが、
ソ連はドイツとの戦争を避けようと考えた。 
   1939年8月 ―― 独ソ不可侵条約が結ばれる。
   1939年9月 ―― 準備を整えたドイツは、ポーランドへの進撃を開始する。 
 イギリスとフランスはただちにドイツに宣戦布告し、ここに連合国と枢軸国との間で第二次世界大戦が始まっ
た。

 

  このサイトの内容は、 歴史教材  『 第二次世界大戦とヨーロッパ 』 に続きます。