オリンピック 1
    ―――  古代オリンピック   近代オリンピック・戦前編
                     TERUO MATSUBARA

 

  古代オリンピック 

  
 古代オリンピックはギリシアでおこった。  B.C. 771年からおよそ1000年続いたが、女子と奴隷は参加が
許されなかった。
 「 自分と戦車競争をして勝てば娘を嫁にしてもよい 」 と約束した父親と、若者が競争を行った。 若者は車軸を
ゆるめ、父親との競争に勝った。 その勝利を祝って競技会が開かれたのが、古代オリンピックの始まりといわ
れる。  やがて、オリンピックは、ギリシア神話の最高神・ゼウスに捧げるスポーツの祭典となった。 オリンピッ
ク開催の前後は聖なる休戦として、一切の軍事行動をひかえた。
 競技は全裸で行われ、肌を守るためにオリーブオイルを塗ったという。  体についたオリーブオイルをはぎ落
とす ストレンギス という道具がオリンピアの遺跡から発掘されている。

   

【古代オリンピックの競技種目】

 まず、五種競技というものがあった。
 
 1) スタディオン走( 短距離 )
      ゲートが開かれてスタートするもの。   1スタディオン= 192m。  ヘラクレスが一息で走った距離が 
     192mであったことからこの距離になった。 人間は、40秒くらいは息を止めて全力疾走ができるのだと
     いう。  100mが12,13秒で走れる人なら、 300mは一気に走れるのだ。
      また、これにちなんで、競技場のことをスタディオン走をする場所( スタジアム )というようになった。
 
 2)幅跳び
      ハルテレスという重りを両手で持って跳んだ。  着地を重視。 着地の乱れは精神の乱れといわれた。
 
 3)円盤投げ
      幅跳びとともに、タイミングをとるのがむずかしい競技であった。 そのため、笛をふく人がついていた。
    音楽とスポーツ ――― つまり、ここでも精神と肉体の調和という古代オリンピックの精神があった。
    古代オリンピックは、すべての能力にすぐれた神をめざす場であった。
 
 4)レスリング    立ったままで行われ、美しい投げ技を3回決めたほうが勝ちとなった。
 
 5)やり投げ

 この五種競技の他に行われたものとして、次の競技がある。
 
 ● 武装競走         ヘルメットをかぶり、楯を持ち、すねあてをつけるなど武装して走った。  当時の
                 敵国・ペルシアとの戦いに備えた軍事訓練でもあった。
 ● パンクラティオン     パン( すべての )・クラティオン( 力強い )。 現在のプロレスに似た最も激しい格闘
                 技で、殺し合いに近かったという。  どちらか一方が、人さし指をたて戦意喪失の合
                 図をするまで行われた。
 ● ボクシング    グローブではなくて、皮ひもを手に巻いて行われた。

 

【古代オリンピックの廃止】
 
   B.C. 146年 ――― ギリシアは、ローマ帝国に征服される。
 ローマ時代になってもオリンピックは続けられた。   しかし、キリスト教が公認されると、オリンピアの遺跡の
ゼウス神殿は邪教のものとして破壊されてしまった。
   393年 ――― 293回を数えた古代オリンピックは廃止される。
 ローマ皇帝の破壊でオリンピアは廃墟と化した。 オリンピアの遺跡には、競技場の他に、パライストラ( 闘技
場 )やギムナシオン( 練習場 )があった。 また、こうしたスポーツをする空間と分かれて、神をまつる空間として
ゼウス神殿があった。  ゼウス神殿は、現在、神々がオリンピアから立ち去ったかのように廃墟となり、崩れ落
ちた石のかたまりが点在するだけだ。 ゼウス神殿はアテネのパルテノン神殿の9年前に着工された。 2つの
神殿は当時の文明の粋を集めて建設され、よく似ていると想像される。

 

 
 
  近代オリンピック・戦前編 

 19世紀の後半、ドイツの考古学者・プルティウスらによって、古代オリンピアの遺跡が発掘された。
 
 フランスの ピエール=ド=クーベルタン男爵は、古代オリンピックを知るにつれ、衝撃を受け、深く感動した。
   1892年 ――― クーベルタンは、オリンピックの復活を提唱する。
 パリのソルボンヌ大学で行った 『 近代社会における体操 』 という講義の中だった。  彼は、スポーツを通じた
民族の友好と平和を考えた。
 また、クーベルタンは、古代ギリシャ遺跡から発掘された楽譜をもとに、オリンピックへの讃歌「アポロンの歌」を
作曲家に頼んでよみがえらせた。 

 

【近代オリンピックの誕生 ――― 第1回アテネ大会】
 
 第1回の近代オリンピックは、古代オリンピック発祥国・ギリシアのアテネで行われた。
   1896年 ――― アテネ第1回オリンピックが開催される。  ( 13ヵ国、 311名が参加 ) 
 陸上、水泳( 当時はプールを使わず海で行われる )、自転車、フェンシング、体操、レスリング、テニスなどヨー
ロッパのスポーツが種目として入っていた。

  
    陸上 100mのスタート姿勢はさまざまであった。 アメリカのバンクという選手は、今のクラウチング
  スタートで12″0 のタイムで優勝した。  マラソンも、この第1回から始まった。 紀元前490年、
  ギリシアに侵攻したペルシャ軍を破ったアテネの兵士がマラトンからアテネまでを走り、勝利を告げて
  息絶えた。 この 「 マラトンの戦い 」 にちなみ、兵士の功績をたたえ発案されたのがマラソンである。
    第一回大会では、この古代ギリシャの故事にちなみ、マラトンからアテネまでの36kmを競走し、
  地元ギリシアの羊飼い・スピリドン=ルイスが優勝、一躍ギリシアの英雄となった。
 

 


 

【第2回 ――― パリ大会( 1900年 )】  パリ万国博覧会の年に行われた。
 
 たこあげ・魚釣り・水難救助・ボウリングなどスポーツ以外の競技も取り入れられ、水泳は、プールがまだなかっ
たのでセーヌ川で行われた。
 最初の頃は、水泳は川や湖で行われていた。  プールが最初に登場した大会は、第4回のロンドン大会であ
る。  この時は 一周536.45mのシャパード=ブッシュ=スタジアムの真ん中にプールがあった。

 

 
   マラソンは、パリの旧市街を2周するというものであった。  しかし、パリの旧市街は道が複雑で、
  家が密集していたため、迷う人が多かった。  優勝したのは、パンの配送でパリの道に詳しかった
  フランスのミッシェル=テアトーで、記録は2時間59分45秒であった。  給水の方法は、走っている
  選手に向かって水鉄砲で水を顔めがけてかけるというものだった。  この大会での優勝者には、
  えんぴつ1本・ネクタイピン・お金 100フラン( これでメダルを買うようにということだった )が贈られた。
 
   100m走は、映画 『 炎のランナー 』 で有名になったハロルド=エイブラハムスが優勝した。 
  アメリカからコーチを呼んで本格的な練習を行い、ユダヤ人への差別を乗りこえての栄冠だった。
 
 
 女性のオリンピック参加はパリ大会からで、テニスとゴルフに参加した。  ゴルフの女性参加はこの大会のみ
で、ゴルフ自体、次の第3回・セントルイス大会( アメリカ )でも行われたが、以後なくなっている。
 綱引きもパリ大会で行われ、以後、第4回・第5回大会でも採用された。  しかし、オリンピックがスピードと高
度な技術を追求していくのに伴い、消え去ってしまう。

 

 

【第3回 ――― セントルイス大会( 1904年 )】
 
 旅費がかさむという理由で、ヨーロッパ人はほとんど参加せず、90%がアメリカ人、アメリカの大学・クラブ対抗
戦になった。  この大会でクーベルタンが失望したのは、女性ボクシング、障害物競争など見世物に近い競技
が目立ったことで、セントルイス万博の余興めいたものになった。
 さらに、アメリカインディアン、アイヌ、ピグミーなど少数民族を招き、木登り、弓矢を行い、人種の優劣を競わせ
たりもした。

 

   マラソン・キセル事件

    この大会のマラソンでは、人々をあきれさせる事件が起きた。  先頭でスタジアムを出たフレッド・
   ローツ( アメリカ )は20kmすぎで道端にひっくり返ったが、通りかかった自動車に乗せてもらいスタジ
 アムに向かった。 途中でこの車がエンストしたため再び走り始め、トップでゴールした。 しかし、自動車を
 運転していた男性の証言で 「 キセル 」 が暴露され、金メダルを取り消された。 本来の優勝者トーマス・
 ヒックス( アメリカ )がゴールしたのは、ローツの1時間後、記録は3時間28分35秒だった。 

 

 

 

【第4回 ――― ロンドン大会( 1908年 )】
 
 この大会から、選手は個人参加から国家の代表としての参加に代わり、国家のためのナショナリズムが台頭
してきた。  参加者は3倍に増える。  初めて国旗が採用され、世界の注目を集めるようになった。
  「オリンピックで重要なことは、勝つことよりも参加することに意義がある。」 ――― これは、クーベルタンの
言葉とされるが、この年、ロンドンのセントポール寺院で、オリンピック参加者のための礼拝が行われ、その時に
ペンシルバニア司教が言った言葉から生まれたものであった。

 

  王女のわがままが生んだ42.195km

   マラソンが42.195Kmとなったのは、このロンドン大会で、第8回大会以降、このロンドン大会の
  距離がマラソンの距離として採用された。  42.195km ――― なぜ、こんな中途半端な距離に
  なったのか? マラソンの起源になったアテネ=マラトン間の距離でもない。  ロンドン大会で
  42.195kmになったその秘密はロンドンのウインザー城の中にある。
   ロンドン大会の前までマラソンは40Kmで行われていた。 しかし、メアリー王女が 「 赤ん坊を抱いた
  まま、マラソンのスタートを見たい 」 と言い出し、その一言でマラソンのスタートは、ウインザー城の育
  児室の前に延長された。
   では、なぜこの半端な距離が正式なオリンピック競技規定として採用されたのだろう。 当時IOCは
  アメリカの圧倒的な強さを問題視していた。 どの国にも平等にメダルを授与したかったようだが、アメ
  リカの選手が優秀なので仕方がなかった。 そこで、@アメリカが優勝した回の距離は除外された、とい
  う説、A時のIOCが英国王室に頭があがらなかった、という説、Bくじびきで決めたという説 ――― 
  ほかにも諸説あるが、定かではない。
   この大会でイタリアのドランド選手は、トップで競技場に入ったが、ゴール直前で意識がもうろうとなり、
  審判団が手助けをしたため失格となった。 王女のわがままで失格した彼を励ます歌が、この大会後、
  ヨーロッパで大ヒットした。

  

 
 
 
【第5回 ――― ストックホルム大会( 1912年 )】
 
 第4回大会までは、オリンピックは万国博覧会の付属という感じであったが、この大会から独立したスポーツ
の祭典となった。
 日本選手( 2人 )が初めてオリンピックに参加したのは、このストックホルム大会である。  また、この大会か
ら電気時計が使用され、陸上のゴールに初めて写真判定が行われた。  この大会で参加した日本選手は、
短距離の三島弥彦と、マラソンの金栗四三(カナグリ・シゾウ)であった。

   金栗四三 ――― 記録54年8ヵ月6日間8時間 ・・・!?。 

   ストックホルム大会のマラソンに出場するため、金栗はマラソン当日、駅に向かったが、満員で汽車に
  乗れず、タクシーもつかめなかった。 仕方なく、金栗はスタジアムまでの10数Kmを、道に迷いながら
  走っていった。  やっとの思いでスタジアムに着いた時は、スタート直前。 体力は消耗していたが、黒
  足袋をはいた金栗はスタートした。 当日のストックホルムは40度の猛暑で、ポルトガルの選手は、競
  技中に倒れて死亡したほどである。 金栗も 「15Km地点 」 付近で倒れ、近くの家の人に介抱され、
  その日の夜遅く帰った。  地元・ストックホルムでは、「 消えてしまった日本ランナー 」 として、大騒ぎ
  になり、『 今でも幽霊のように走っている 』 とか 『 金髪女性2人と消えた 』 など、さまざまな噂がとび
  かった。
   ストックホルムのスポーツライター、クロカル=ウェルはこれを調査、彼は金栗の消息を追って日本に
  やってきた。 クロカル=ウェルは、熊本で悠々自適の生活を送っている金栗に会った。 その時の金栗
  のメッセージはこうだ。 『 私は、今でも元気に走り続けています。 もちろん、ストックホルムではなく、
  日本で、です。 そこを走ったのは、あの1912年だけです。』  
   その後、金栗は、ストックホルム・オリンピック55周年を記念して招かれ、スタジアムでゴールを果たし
  た。  その時のアナウンサーはこう言った。  『 金栗、ニッポン、時間=54年8ヵ月6日間8時間32分
  20秒03 、これをもって、ストックホルム・オリンピックは無事終了しました。』
     

 オリンピック初めて物語

第2回 1900年 パリ大会  女性が参加する
第4回 1908年 ロンドン大会  開会式の入場行進  金・銀・銅メダルの授与
第7回 1920年 アントワープ大会  選手宣誓
第8回 1924年 パリ大会  選手村ができる
第9回 1928年 アムステルダム大会  聖火台ができる 
第11回 1936年 ベルリン大会  聖火リレーが行われる
第18回 1964年 東京大会  テレビ衛星中継が行われる

 

 

【第6回 ――― ベルリン大会( 1916年 )】   第一次世界大戦のため、中止となる。

 

【第7回 ――― アントワープ大会( 1920年 )】
 
 アントワープ大会( ベルギー )から五輪マークが採用され、選手宣誓も行われるようになった。  ただし、「 我
々は、スポーツマン精神にのっとって・・・ 」 ではなく、「 騎士道精神にのっとって・・・ 」 であった。  また、「 より
速く、より高く、より強く 」 のモットーもこの大会から採り入れられた。
 日本は、このアントワープ大会で初のメダルを獲得した。  テニスに出場した熊谷一弥( イチヤ )の銀メダルが
それである。

 

 

【第8回 ――― パリ大会( 1924年 )】
 
 後に、映画 『 ターザン 』 の主演俳優となったワイズミュラー( アメリカ )が水泳で活躍、 100m・ 400mで優勝
した。 水泳は、それまでまっすぐ泳げず競技をやり直すことがしばしばあったが、この大会からコースロープが
プールに取りつけられ、競技やり直しが少なくなった。

 

   

【第9回 ――― アムステルダム大会( 1928年 )】
 
 アムステルダム大会から聖火が復活した。
      *聖火リレーの復活は、1936年のベルリンオリンピックからである。
 
 この大会で日本に初の金メダルがもたらされた。  陸上の三段跳びの織田幹雄 ――― 記録は15m21cm
であった。
 予想外の日本選手優勝で、日章旗は用意されていなかった。  そこで、織田が優勝した時に包んでかつぎ上
げようと、日本から持ってきた日章旗を急きょ使用した。 他国の国旗の4倍の大きさがあったという。  また、
この大会に、日本初の女性選手が出場した。 陸上の人見絹枝である。

   人見絹枝 ――― 銀メダルから3年後、25歳の若さで・・・ 

   アムステルダム大会前に、100m、200m、走幅跳に世界新記録を出したスーパーウーマンである。
  この大会では、 100mに出場したがまさかの準決勝で敗れた。 思い悩んだ人見は 「 800mを走ら   
  せてください 」 と直訴し、初めて走る 800mに出場した。 800mでは決勝に残り、見事、銀メダルを
  獲得した。  しかし、彼女は、この栄光から3年後の同じ日、25歳の若さで病死した。
 

 

【第10回 ――― ロサンゼルス大会( 1932年 )】

 水泳女子 200m平泳ぎで、日本の前畑秀子が銀メダルを獲得する。

 


【第11回 ――― ベルリン大会( 1936年 )】

 開催国・ドイツには、独裁者・ヒトラーがいて、ファシズム( 軍国主義的独裁政治 )を行っていた。
 ヒトラーが、ベルリンオリンピック開催に執着したのには理由がある。 開会式の映像を見ると、ヒトラーの開会
宣言の間、メインスタジアムを埋めた10万人の観衆が、右手を斜め前方に挙げている。 ナチスのお決まりの
ポーズだ。 要所要所で登場するヒトラーの姿は、世界中にナチスドイツの国力の強さと、ヒトラーの独裁ぶりを
知らしめた。 ヒトラーは最高の宣伝として、国威発揚の場としてオリンピックを利用した。 オリンピック史上、
最高額の製作費をかけて作った記録映画 『 民族の祭典 』 『 美の祭典 』 への力の入れようを見ても明らかだ。

 
  ヒトラーの政治については、
      『 ヒトラーの野望 』 のサイトに詳しい説明があります。

 
 前回のオリンピックで銀メダルを獲得した前畑秀子は、このベルリン大会で、同じ女子 200m平泳ぎに出場、
見事金メダルを獲得した。 NHKの葛西アナウンサーの 「 前畑ガンバレ! 」 の実況放送は日本国民を熱狂
させた。
 この大会のマラソンで金メダルを獲得したのは、日本の孫基禎 ( ソン・キジョン ) であった。

  孫基禎 

    韓国人である孫基禎は、ベルリン大会のマラソンに日本選手として出場、金メダルをもたらした。 当
  時、朝鮮半島は日本の植民地だったからである。
   朝鮮の新聞 『 東亜日報 』 は、孫さんが優勝した写真から、胸の日の丸を消して載せたため、それを
  見た日本の軍部は、新聞を発刊停止にした。 孫さん自身も、反日派のシンボルとみなされ、警戒を強
  められた。  ベルリンオリンピックから帰ってきた孫さんは、警察に取り囲まれ、監視の目が厳しくなっ
  た。 この時、孫さんは、「 もう二度と日本のためには走らない 」 と心に決めたという。
   孫さんの自伝 『 ああ月桂冠に涙 』 に、こんな一節がある。 「 ( ベルリンオリンピックの )優勝の表彰
  台で、ポールにはためく日章旗をながめながら君が代を耳にすることは、たえられない屈辱であった。」
  ベルリン大会から52年後の、1988年、ソウルオリンピックで孫さんは、最終聖火ランナーとして喜びを
  体いっぱいにあらわしながら、ソウルのスタジアムのトラックに登場した。
  
  孫基禎についての詳しい解説は、 『 孫基禎 物語』 のサイトにあります。 
 
 
 ベルリン大会で 100m、200m、走幅跳、 400mリレーの4冠を制したのは、アメリカのジェシー=オーエンス
( 米 )であった。 彼は、黒人として差別と貧困に苦しみながら運動選手として頭角を表し、この大会で 「 チョコレ
ート色の奇跡 」 と言われた。

  
   ロサンゼルスオリンピックで、オーエンス以来の4冠に輝いたカールルイスは、子供の頃、オーエンス
  に憧れて陸上競技を始めた。  オーエンスの栄光は、黒人の子供たちに夢を与え、ブラックパワーの
  先駆けとなった。  ベルリン大会から帰国後、彼は生活費をかせぐため、馬と競争するショーに出演し
  たりしたが、自伝の中で 「 屈辱的だった 」 と振り返った。 

  
 聖火リレーは、このベルリン大会から復活した。 この聖火リレー復活にヨーロッパの人々は不安を抱いた。 
ギリシアのオリンピアからベルリンへ ―― ナチスは “聖火リレーの下見” と称し、バルカン半島の道路・地形を
つぶさに調べた。 ヒトラーのドイツはこの大会後、聖火リレーのコースを逆にたどり、バルカン半島を侵略した。

  

 1940年東京でのオリンピックが予定されていたが、第二次世界大戦のために開催が中止となった。

 
  オリンピック 2 ( 1948年・ロンドン大会 〜 1972年・ミュンヘン大会 ) 
  オリンピック 3 』 ( 1976年・モントリオール大会 〜 1996年・アトランタ大会 )
  オリンピック 4 ( 2000年・シドニー大会 〜 )
  『 オリンピックの話題 』 のサイトヘ
  『 オリンピックの正式種目と開催地の選び方 』 のサイトヘ
  『 これまでにオリンピックが開催された都市 』 の地図サイトへ