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更新日:2016年04月11日

海外との交流

【渡航報告】ベナンを知る旅

ジャニック・マーニュ
渋谷真奈美 訳

 

はじめに

 2012年3月16日から3月25日までの10日間、私は共立女子大学の教授としてフランス語フランス文学コースの助手と学生と共に西アフリカのベナン共和国を訪問した。
 今回のベナン共和国訪問の目的は、本学とベナンのさらなる交流推進であり、私は石橋理事長に代わって、新たな交流を提案する内容の手紙を大統領、アボメ・カラビ大学学長等に渡すという大役を引き受けた。
 3月16日の夜、コトヌー国際空港で(コトヌーはベナン最大の都市)ゾマホン大使に迎えられ、なんと大使自ら運転する車で市内の港に近い快適なホテルに向かった。幸運にも、多忙なゾマホン大使がベナンにおり、最初の1週間ほぼ毎日私たちと行動を共にしてくれたのだ。また空港には、共立の元特別研修生のローランドの姿もあり、翌日には同じく元研修生のバクミナとも再会を果たした。私たちはゾマホン大使が関与するイフェ(IFE)財団のお世話になり、ベナン国内の移動には運転手つきの財団のミニバンが使われた。

 これから、ベナンを紹介しつつ、私たちの忘れられない旅について書いていきたいと思う。

 


左:アフリカ大陸 右:ベナン共和国

 

1.西アフリカ・ベナン共和国

 日本から見ると、ベナンは非常に小さな国である。世界地図のなかからこの国を見つけ出すのはそう易いことではない。世界第100位の面積をもつベナンの国土は、フランスの5分の1、日本の3分の1に相当し、およそ920万人の人口を抱えている。東に大国ナイジェリアと国境を接しており、この小さな国はさらに目立たない。ナイジェリアは人口1億5800万人を擁し、その国土はフランスと日本を足しても追いつかないほど広大だ。地図からもナイジェリアが地域一帯の大部分を占めていることがみてとれる。さらにベナンの周辺の国に目を向けてみよう。西にはおよそ半分ほどの大きさのトーゴが沿うように位置しており、北はブルキナファソとニジェールに接している。フランスの約2倍の面積を有するニジェールは、人口こそ少ないが、サハラ以南のブラックアフリカとアラブ人とベルベル人の北アフリカ間の歴史的かつ文化的な合流地点になっている。ちなみに、フランスが大量のウラン鉱石を採掘しているのが、ここニジェールである。そして最後に、ベナンの南は大西洋のギニア湾に面しており、かつて奴隷が積み込まれた船がここから出航した。
 ベナンは天然資源に恵まれず、地下資源も乏しい。 その反面、主要産業の港湾サービス業が近隣内陸国への商品流通を可能にしているほか、綿花、パーム油、トウモロコシ、キャッサバ、モロコシ、キビ栽培などの農業も盛んである。しかし、ベナンにおける全経済活動の約95%をインフォーマル・セクター(国の公的な許可を得ずにおこなう経済活動)が占めており、政府は徴税に苦労している。
 人口構成は若い世代が多く、15歳以下が43%、60歳以上が5%である。国民の平均寿命は低く、男性が54歳、女性が60歳である。
 ベナンはかつてダオメーと呼ばれ、19世紀後半にはフランスの8つの植民地からなるフランス領西アフリカ(AOF)の一部になった。当時、フランス、イギリス、ドイツはこの広大な地域を分割しその支配下に置いていた。フランス領西アフリカは1895年から1958年まで続き、ダオメー(現在のベナン)は1960年に独立した。かつてフランスに占領されたこの地域においては、すべての国でフランス語が公用語になっており、実際にアフリカの各民族の言葉とともにフランス語が話されている。ベナンの場合、フランス語のほかに約50の言語が国内で使用されている。

 

2. 奴隷貿易の記憶

 アフリカに一歩足を踏み入れれば、奴隷貿易を思い出さずにはいられなくなる。16世紀から19世紀の間、ヨーロッパの奴隷貿易によって数千万人ものアフリカの人々が住み慣れた土地から引き離され、男も女も、子どもまで、囚われ、繋がれ、船いっぱいに積まれ、想像を絶する環境のなか、北アメリカ、カリブ海、南アメリカなどのアメリカ大陸へと送られていった。これが大西洋を挟んでアフリカ、新大陸、ヨーロッパを結ぶ三角貿易と呼ばれるものである(ヨーロッパで武器や工業製品を載せ、これらと引き換えにアフリカで奴隷を積み込み、最後にアメリカ大陸で奴隷と交換に綿花や砂糖などのプランテーション作物をヨーロッパに持ち帰った)。

 


三角貿易

 

 アフリカ大陸を離れる前、奴隷たちは木片で口を塞がれ、逃げられないよう男女1組で鎖に繋がれたまま、奴隷船までの数キロの道のりを歩かなければならなかった。船積み地点の砂浜は、彼らが歩いた故郷の最後の地だった。船に積み込まれる直前、奴隷たちは建物の中をぐるぐると引き回されて方向感覚を失い、もう決してこの地に帰って来られないと悟る。そして多くが海の上で死んでいった。
 以上が、ベナン最大の都市コトヌーから42キロ離れた、首都ポルトノボの近くに位置するこのウィダという大西洋沿岸の町で私たちが見聞きしたことである。かつて奴隷貿易の拠点として栄えたこの港町には当時の遺構が複数残っており、1995年には大西洋を望む「帰らずの門」と記されたモニュメントが建てられた。
 ベナンでは現在もなお南北間の緊張状態が続いているが、それというのもかつて南部のアボメー国王が、北部で捕らえた捕虜たちをヨーロッパの奴隷商人に売り渡していたためだという。

 


帰らずの門

 

 目の前には、かつて多くの奴隷達が船出した砂浜が横たわる。胸が締め付けられる思いだった。

 

3. ポルトノボでの出会い

 ポルトノボは、およそ23万人の人口を抱えるベナンの首都である。ここでは、市内にいくつかある博物館を通してベナンの文化や歴史を知ることができるが、それは次の機会に取っておくとしよう。
 まず、私たちはアルベール・テヴォエジレ研究所・汎アフリカ社会未来学センターを訪れた。大会の閉会式に立ち会った後、ベナン共和国のオンブズマン(Médiateur de la République)であるテヴォエジレ氏との会談が実現した。テヴォエジレ氏は経済学博士で、その長いキャリアのなかで国連の国際労働機構やアフリカ連合、西アフリカ経済通貨連合などの国際機関において要職に就いてこられた。石橋理事長からの手紙を手渡すと、テヴォエジレ氏も本学との交流を望んでおられるとのこと。とりわけ青少年教育や公徳心教育など、ベナンにおいて日本が高く評価されている分野における共同研究、研究者および代表団の視察などの提案があった。私たちはテヴォエジレ氏より、石橋理事長に献げる著書「Le bonheur de servir」を託された。
 そして同じ日の夕方、最高裁判所長フォファナ氏と面会し、大統領側近の同氏にヤイ・ボニ大統領宛の手紙と贈り物を託した。フォファナ氏は人事院総裁や文部大臣を歴任し、ベナン北部にあるパラクー国立大学の創設者でもある。フォファナ氏の執務室を訪ねた私たちは彼の温かいもてなしにすっかり魅了されてしまった。日本から来た私たちにぜひ味わわせたいと、ベナン産のとても甘く香りのよいコーヒーを用意してくださった。執務室の大きなガラス窓から見るデルタの眺めは素晴らしかった。

 

4.ソンガイ・センター(ソンガイ・プロジェクト)

 ベナンでぜひとも訪れたかった場所の一つにポルトノボのソンガイ・センターがある。センターでは循環型農業の研究および実践が行われている。このプロジェクトは、農業を国や地域経済の基盤とし、社会の安定とそれを可能にする雇用創出や収入増加を望む数名のアフリカ人とアフリカ好きのヨーロッパ人によって発足した。ここで実践されている農業システムは1次産業(生産)だけではなく、2次産業(加工)、3次産業(流通・販売)の各部門を連携させ、農業経営指導の強化、生産者が抱える様々な問題に対する応用研究の推進、生産者組織ネットワークによる農村経済の活性化を目指している。
 限られた資金で有機農法と有機養殖技術を応用し、施設内で作られた木炭と陶器を使った水のろ過から、養鶏場での鳥糞肥料の回収、バナナの葉を使ったエスカルゴの養殖まで、無駄なものは一切ない。特に、この施設で作られるバオバブや生姜のジュース、蜂蜜は驚くほど香りがよく、美味しい。ここでは家禽のほか、食肉としてアフリカで好まれているアグーチなどの動物、野菜、果物、薬用植物が飼育、栽培されている。

 


ソンガイ・センター

 


ソンガイ・システム

 

 これらの技術を学ぶためにアフリカ全域から研修生が訪れ、政府も各県に同様の施設の設置を計画しているという。

 

5.コトヌー

 コトヌーは推定人口およそ80万人とベナン最大の都市で経済の中心地である。ベナンの工業施設の3分の2がコトヌーに集中しており、企業や銀行の本部も置かれている。また、コトヌー自治港による貿易額は非常に大きく、世界中から無数のコンテナが集まり、近隣内陸国の物流拠点としての機能も果たしている。フランスのアレバ社がニジェールで採掘したウラン鉱もこのコトヌー港を経由している。コトヌーのダントッパ市場は面積が20ヘクタールとアフリカでも有数の巨大市場として名高い。売り子は女性が多く、ここでは日用品から食料品まで、ひととおりなんでも購入できるが、特に「ダッチワックス」というオランダ製の機械ろうけつ染めプリントの布を買いにわざわざ遠くからやってくる人もいるらしい。布のモティーフはさまざまで、たいてい鮮やかな色合いをしている。オランダ製の他に中国製、西アフリカ製のプリント布も売られている。西アフリカではこれらの布で民族衣装を仕立て、男性、女性、子どもからお年寄りまで多くの人が着用している。ここでは布以外に伝統的なアクセサリーも買うことができる。

 


コトヌー市内

 


ダントッパ市場

 

6.ゼミジャン


ゼミジャン

 

 さて、どのようにコトヌー市内を移動するのか?ゼミジャンである。ゼミジャンというのはバイクタクシーのことで、この面白い名前は現地の言葉で「早く連れて行って」という意味である。ゼミジャンは、格安で(日本円で数十円)、昼夜問わず市内のどこにでも乗せていってくれる。コトヌーはゼミジャンであふれかえり、運転手は黄色いシャツを着ているのですぐにわかる。コトヌーのバイクタクシーの運転手の数はおよそ8万人と言われているが、本当だろうか。断定するのは難しいが、これらのバイクが大気汚染の原因となっていることは確かだ。実際、コトヌーではゼミジャンの排気ガスのせいで街の空気が少し汚れているように感じられた。だが、ゼミジャン乗りを悪く思わないで欲しい。彼らのなかには生き延びるためにこの仕事をしている学生達がいるのだから…。
 それにしても、なぜゼミジャンの排気ガスがこれほど深刻な大気汚染を招いているのだろうか。話を進めよう…。

 

7.パヨ

 コトヌーやポルトノボでは、街道沿いのいたるところで、黄色っぽい液体が入った瓶やペットボトルが作業台のようなテーブルに並べて売られている。瓶のサイズはさまざまだが、大きなものが多い。ビールやコカコーラなどの空き瓶が再利用されているようだ。料理用の植物油でも入っているのかと思ったが、よく見ると、たいていこれらの瓶は道端の小さな修理工場(作業場代わりの小屋)で修理中のバイクや山積みのタイヤのそばに置かれていることに気付く。瓶の中身は「パヨ」と呼ばれるガソリンである。
 じつは、このガソリンは精製されておらず質が悪いため、きわめて深刻な大気汚染を引きおこす原因になっている。「パヨ」は現地語で「低品質」を意味しており、これらは大規模石油産出国で、その輸出額が世界第9位を誇る隣国ナイジェリアから密輸されものである。50リットルのタンクに入った密輸ガソリンをバイクでナイジェリアからベナンまで運び(一台のバイクにつき3,4本ずつ)、路上で売っているのだ。大気汚染を引き起こすものの、ベナンではこのガソリンの密売で多くの人が生計を立てており、また安価なため燃料を求める運転手たちに重宝されているのが現状だという。


パヨ

 

8.ガンビエ

 私たちはコトヌー近郊、ノコウエ湖に広がる水上都市ガンビエを訪れた。このアフリカ最大の水上都市には、3万人もの人が簡素な木材のみで建てられた高床式住居で暮らしている。住民の交通手段は舟だけで、ここで子供たちが最初に覚えるのはやはり泳ぐことらしい!湖はそれほど深くなく、漁師たちは地の利を生かして豊富な種類の魚を取っている。村で購入した椰子の枝を湖の底に垂直に突き刺すと、それが魚の餌になる。衛生状態が悪くとも、塩気のある水は強い日差しの紫外線のおかげで自然と殺菌されているのである。この水上集落の起源は18世紀末にさかのぼり、奴隷狩りから逃れた人々が湖の小さな島に移り住んだのが始まりらしい。その後人口が増加し住民たちは水上の高床式住居に住み始めたのだという。


ガンビエの水上集落

 

9.ダサズメ

 ゾマホン大使の提案で彼の出身地ダサズメを訪れた。ダサズメはベナンにある12県の一つ、コリネス県に属し、コトヌーからおよそ200キロ北に位置する人口10万人の都市である。私たちはゾマホン大使の家族に紹介され、ダサズメに滞在した2日間、大使のお兄さんの家で、民族衣装に身を包んだ女性たちが用意してくれるおいしい食事をごちそうになった。ダサズメでは停電や断水は珍しくなく、おかげでホテルの浴室の隅に貯めてあったバケツの水でシャワーを浴びるという楽しい思い出ができた。また、ベッドやバケツに小さなアリがたくさんいたが、危険ではないようだったので気にならなかった。このダサズメへの移動中にIFE財団や他のNGOの協力によって運営されている学校や病院を訪ねることができた。


ダサズメ

 

10.小学校訪問

 ベナンでは政府の財源が乏しく、多くの小学校がNGOによって運営されている。そのため、各学校の状況は都市や農村によって根本的に異なるが、それは学校の設備に限らず教員に支払われる給与についても同様である。教員の多くは国から十分な給与が支払われておらず、教員不足が深刻な問題となっている。こうした状況のなかでNGOによる教員への給与支援が行われているが、これは学校を存続させていくうえで重要な取り組みの一つと言える。今回、私たちを受け入れてくれたIFE財団がダサズメで小学校を運営していると聞き、見学させてもらうことにした。この学校が他の小学校と違う点は、生徒たちにちょっとした給食を用意していることだ。この「給食プロジェクト」は、たくさんの日本人支援者によって実現したもので、午前中、子供たちに穀物や豆を煮た粥のようなものを食べさせている。このプロジェクトが始まって以来、数名のお母さんたちによって用意される給食は十分なものではないが、子供たちはよく勉強し、親たちも以前よりも定期的に子供を学校へ送り出すようになったという。14キロの道のりを歩いてくる子供もおり、登校すれば食べられるということが学校をより魅力的なものにしたようだ。
 一方、偶然立ち寄った別の小学校では、資金不足のため、施設の状態が非常に悪く(屋根に穴が開き、トイレや飲用井戸や水揚げポンプが設置されていない)、校長が自らの給与を他の教員と分け合っていた。後日、ハンガーフリーワールドというNGOの活動地で小学校や保育園を見学させてもらったが、こちらは比較的環境は整っているものの、まだまだ満足なものではなく、やはり課題は多いという。

 


いのうえ小学校の授業風景

 


いのうえ小学校(給食の皿を洗う女性たち)

 


旅の途中偶然立ち寄った小学校

 

11.ベナンにおけるNGOの活動

 ベナンへ出発する前、現地でNGOを訪問し、その活動について学びたいと、東京の駐日ベナン大使館に相談した。そこで約7000ものNGO団体がベナンで活動していると知り、その数の多さに驚かされた。現地に赴いて気づいたことは、保健、教育、女性と子供に対する自立支援、環境保護などの分野において、NGOが広く関与していることである。もし、こうしたNGOの活動が無ければ現在の状況はどうなっていたのだろうか。しかしながら、NGOの活動が政府の活動にとって代わる、もしくはその不足を完全に補うのはそう容易なことではない。地方の病院を訪れると、物、人、運用の面で多くの課題が残されており、資金や知識不足により施設が有効活用されていないと感じることもあった。また、残念ながら、無償奉仕によるNGOの活動が一時的な支援にとどまってしまうこともある。いずれにせよ、完全な自立が困難な国々においてNGOの果たす役割が大きいことに変わりはない。

 

12.たけし日本語学校

 IFE財団の教育支援活動の一つに、コトヌーでのたけし日本語学校運営がある。この学校は西アフリカでも数少ない日本語を学べる場所として有名である。毎年2 名の日本人教師が財団から派遣され、現地で授業を行っている。学校は庶民的な地区に建てられており、砂地の通りにはところどころゴミが落ち、パヨ(違法ガソリン)が売られている。子供たちはほとんど服を着ておらず裸足でサッカーをして遊んでいる。この学校では様々な年代の生徒を性別や社会的身分など問わず受け入れている。教室の片側は吹き抜けになっており、この暑い気候にはちょうど良い作りになっていると感じた。他の三方の壁には、黒板が置かれ、写真や日本に関するニュースやポスターが掲示されている。私たちは東京のフランス語教員から贈られた48キロ分の日仏の辞書と中古のノートパソコンを日本からスーツケースで運び込んでいた。この贈り物は生徒や先生方に喜んでもらえたようだった。夜間のクラスには、ノートや漢字練習帳を開き背中を丸めて熱心に学ぶ大人たちの姿があった。 毎年ベナンから共立にやってくる留学生も全員この学校で日本語を学び始める。授業はすべて無料だが、勤勉さはきちんと尊重されているようだ。


ジャパン・ハウス


日本語学校の授業風景

 

13.国立アボメ・カラビ大学

 コトヌーの中心から18キロ離れたアボメ・カラビという町に広大なキャンパスを有するベナンで最も古い大学がある。国立アボメ・カラビ大学では4万5千人の学生が、医学部を含む8つの学部と研究所に分かれて在籍しており、理系から文系まで幅広く力を入れている。専攻分野として、衛生学、科学技術、法学、経済・経営学、人間社会学、文学、言語・芸術学、農水産学、教育学が挙げられる。また、博士課程も設置されており、アフリカの国々だけではなく、フランス、ドイツ、ベルギー、カナダ、アメリカ、中国など、海外の大学31校と協定を結んでいる。ベナンでは経済成長と貧困削減には教育が不可欠だと考えられており、国家予算の約19パーセントが教育予算に充てられている。
 私たちはアボメ・カラビ大学長のブリス・サンサン教授に迎えられ、学内の会議室にて、大学間協定や国際交流を担当する第二副学長のスワイブ・ファルグー教授と数名の教員が同席し、大学間協定に関する意見交換を行った。この会談は実り多いものであった。サンサン教授とそのチームは様々な形の協力を模索しており、すでに東京の共立女子大を訪ねる準備ができているとのことだった。


アボメ・カラビ大学にて

 

おわりに

 忘れられない旅…日本とはまるで異なる国の発見…低開発から抜け出そうと努力する多くの人々…国に貢献しようとする熱意…その努力に善意で協力する外国人…精神的な豊かさ…分かち合う心…人のつながりの温かさ…私たちに向けられた美しい友情…。いまベナンでの出来事を思い起こすと、頭に浮かんでくる言葉である。

 私たち3人は、あの旅以来、この国とこの国の人々に対する深く真摯な愛情を感じ、この国の発展と教育の向上に協力し、役に立ちたいと思っている。もし、これを読んでいるあなたがいつかベナンに行くことになったら、率直で、謙虚で、好意的でいることを忘れないでいてほしい。あなたには多くの親切と温かさが返って来るでしょう。また、地に足がつき、世界の多様な価値観を知る新たな方法を見つけることでしょう…。